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コンテンツを作る人は『映画を早送りで観る人たち』を読んで何を考えるか

これは若い人だけの現象か?

『映画を早送りで観る人たち』。この書名が気になっていた最中、友だちに勧められたのがダメ押しになって読んでみたら大当たりだった。人と会話する際にも、自分がコンテンツを考える際にもこの本の内容が頭から離れなくなっている。

著者の稲田豊史さんは、ライターでありコラムニストであり編集者。世の中に徐々に浸透してきたこの現象について、データや取材を元に実に多彩な角度から抉り出している。

「映画を早送りする」。この言葉を聞いて驚くと同時に、「ありうる」と思える人は多いのじゃないだろうか。最近の若い人は映画などの動画を早送りして観るという。そこには、短い時間で多くのコンテンツに触れたいという「コスパ」の考え方がある。また、それらをみる前に「ファスト動画」と呼ばれる概要紹介の動画を見て確認しておくという。ここには、「見て面白くなかったら時間の無駄」という意識が働いているらしい。「ネタバレ」で失うもがあっても、「見る時間の無駄」をなくしたいのだ。なのでファスト動画を見る以外にも、多くのレビューを見て、事前に評価が確立されてものを選ぶという。

これを若い人の現象として捉えてしまうと、社会の動向が正確に見えないような気がする。この本の話を同世代にすると、「ホラー映画が嫌いなので、終わりを確認してから見る」「最後を知ってから観ることもある」と、似たような体験を語る人は多い。かく言う僕も、好きなサッカー選手のダイジェスト動画を見ることが多い。これはスポーツというドラマの中の「いい場面」だけ切り出して見ている行為であり、「映画を早送りで観る」とあまり変わらない。

つまり、若い人というより社会全体の現象なのだと思う。もっと言うと若い人は社会の変化に敏感だ。新しい兆候を即座に取り入れるので、炭鉱のカナリアのごとく社会の変化をいち早く体現する人たちなのであろう。なので、「最近の若者は、、、」と言う文脈で片付けてしまうのはもったいない。

ユーザーの意識、技術の進展、そして作り手の対応

この「コンテンツをできるだけ短い時間で触れたい」という現象は動画だけでなはない。僕が運営している音声メディアでも、ユーザーの方に話を聞くと「倍速で聞く」と言う人は珍しくない。また書籍でも「速読」は数十年前からブームであり、本の要約や感想(このブログもそうだが)が溢れていて、それらを読む人は確実に増えている。

多くのコンテンツに触れたい、そして失敗したくない。この傾向は、世代やメディアの違いを超えて広く蔓延しているように思えるのだ。食事をしに行くにしても、ネットで買い物をするにしても、事前に評価サイトで「評判」を確認する作業は、もはや多くの人にとって当たり前になった。

このような生活者の変化は、一つは技術の発展の影響がある。かつてレコードが登場した時、それを邪道だといい「音楽は生で聞くものだ」と主張した人がいたと言う。またCDが登場したころ、曲の頭出しが簡単になったことから「イントロが短くなって、サビが前の方に来るようになった」という話も聞いた。動画も「早送り」機能が簡単に実現したことから、それを使って観る習慣が増えたのだ。技術で便利さが生まれたと同時に、全く新しい行動も生む。技術の進歩によりメディアも表現方法や供給方法は劇的な進歩を遂げた。その一方で、人類は一度掴んだ便利なものを決して手放さなくなる。

コンテンツの受け手が「早送りで観る」ようになった一方で、コンテンツの作り手もその動きを加速させていると思う。映画の予告などでは、いまやネタバレを効果的に使うと言う。難解な進行は好まれなくなり、製作委員会も「わかりやすく」を求める。書籍もページをパラパラめくっただけで内容が分かるように、特定の活字を大きくしたり強調したりするのはいまや当たり前である。そもそも以前より活字が大きくなり、ページ数も減っている(最近、逆に「鈍器本」も出てきたが)。

もう一つ、コンテンツの「サブスク」モデルがこの「早送り」現象を後押しすることになっている。サブスクモデルは、料理に例えると「食べ放題」である。できるだけ沢山食べないと、元が取れないような切迫感と戦いながらの食事となりがちである。コンテンツのサブスクも、ユーザーとって「より多いリターン」を求めようとすると、「できるだけ効率よくう少しでも多く見る」という行動原理が生まれやすい。

これらを考えると、「早送り視聴」という現象は、ユーザーの嗜好だけでなく、技術の進展、そして供給者側の対応の3つが重なり合って知らず知らずのうちに肥大化していったように思える。

人は主体的にコンテンツを選んでいるか?

とはいえ、この現象を生み出している背景をもう少し考えてみた。この20 年、コンテンツの数は膨大に増えた。それは技術的に簡単に配信できるようになったこと、そして誰もがコンテンツをアップできる時代になったことが大きい。これほどコンテンツの量が増えると、どれを選ぶか、その「選択コスト」がかかるようになり、「レビューを読む」「評判を聞く」という行為も高まる。一方で「みんなが知っていることを抑えておく」という心理は以前からあった。10年以上前の話だが、ビジネス系の出版社に勤めて頃、若い読者にヒアリングしたところ日経新聞や日経ビジネスを読んでいた人が多くて驚いた。聞いたみると「上司やお客さんから話を振られても対応できるように」という動機を語る人が多かったのを思い出す。当時のビジネスパーソンにとって、それら「定番」を抑えておくことが必須であったように、今も話題のコンテンツを抑えておくことは、仲間内で会話する際に必須なのではないか。しかも、以前よりコンテンツの種類や方向性は多様であり(これ自体はとてもいいことだと思う)、どんな話題にもついていこうとすると、倍速で見る、あるいは読むをしないと追いつけないのは納得できる。

そもそも人はどうやってコンテンツを選んでいるのか。そこに主体性はどのくらいあるだろうか。他人や社会全般の評価とは無関係に、自分でいいと思うものを見る、あるいは読む。これは「見てつまらなかった」リスクは当然なるが、こういう経験を通して「自分の好きなもの」が見つかる。以前、単館の映画館で映画を見まくった時期があるが、どれを見るかは全て自分の勘で決めていた。すると、面白くない作品に出会うことも当然あるが、面白かった作品に遭遇する確率が上がってくると同時に、自分の好きなストーリーや設定や「絵」が言語化できるようになった。こういう「発見を楽しむ」行為は、その人ならではの価値をつくる。

もし「友達から話題を振られて困らないように」という動機でコンテンツを選んでいるとすると、それは「リアクティブ」(外部からの反応的)な行動ではないか。自分の内部からの能動的なコンテンツ選択ではなく、外部からの受動的なコンテンツ選択ではないか。もっとも、そんな外部からの対応に備えることを主体的に選んでいると言えばそれまでなのだが。

コンテンツは人にどんな価値を提供しているのか?

映画や本などコンテンツは、本来、受け手が自由に選択するものだと思う。誰からも強制させるものではないし、何を選んでも自由だ。そして本来、それが面白かった、つまらなかったことも含め、そのプロセスをコンテンツの楽しみ方のひとつだと思うのだが、それでは膨大なコンテンツと限られた時間では対応できなくなっている。

仕事においては短期的な成果を求められる風潮が強まっている。コンテンツにおいても、その消費時間に得られる対価が求められているように思える。「成果」への直線的な行動が、コンテンツへの接触にも反映されている。それほど、いまの時代は余裕がなく追い込まれているのか。この本を読み終えた頃、たまたまネットで『「とりあえずやってみて」とか「まずは自分で考えて」が、今の若者に響かない理由。という記事を読んだ。

検索したら分かることにいちいち試行錯誤を求めないで欲しい、という主張にとても共感できた。そして「『若者はコスパ重視ですぐに答えを知りたがる』で、終わらせないでほしい。『答えを知ったあとの応用で差をつける』文化だと知ってほしい。」と書かれている。これをコンテンツへの接触に置き換えてみるとどうなるか。「あとの応用で差をつける」のであれば、答えを知ってからのコンテンツ鑑賞も、その後の行動から多様性が生まれることが期待できる。

この本で最も考えさせられたのが、コンテンツが提供する価値である。確かに、動画にしろ書籍にしろ音声メディアにしろ、それに触れてもらうのは「時間」というコストが発生する。それに見合った価値とは何か?コンテンツは、摂取したらすぐに元気が出る飲み物でも、何かが楽になる機能を提供するものでも、命の安全や快適を提供するものでもない。成果としての価値が表現しにくいコンテンツにおいて、それに触れる時間というプロセス自体に価値があるという言い方はもはや通用しないのか。

できるだけ多くのコンテンツを効率よく摂取したいユーザー。そして、とりわけネットではコンテンツの価値は、PVなど「触れられた数」で評価されやすいという現実。一方で、コンテンツを作っている人の中には、「コスパよく消費してもらう」ことは目指していない人も少なからずいる。ならば、自分の作ったコンテンツとどう接してほしいのか。そして、それがどんな体験を提供できるのか。自戒を込めて言うと、コンテンツに携わる人は、いまこそ自分がつくっているものの価値をもっと突き詰める必要がある。


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