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嘘がないのが誠実なわけではない

ようやく人と会う機会が増えつつある。そんな機会は、いつも新しいコンテンツのネタ探しにも活かそうとする。僕がやっているVOOXという音声メディアは、人の可能性を広げるコンテンツを毎週1本リリースしている。なので365日、その新しい企画を考えていて、会う人にもそのヒントをもらおうとする。

その日は旧知の編集者と、新宿にある昭和レトロな喫茶店で久しぶりに会った。近況報告とともに、「最近、面白い人いない?」と聞いてみたところ「作家の浅生鴨さんとかどうですか?」と意外な方面から返事がきた。そうか、Twitterで独特の存在感を示していて、そもそもペンネームから変だし面白そう。とはいえ、浅生さんの作品を読んだことがなかった。

そこで早速、浅生さんの『伴走者』を早速読んでみた。舞台は視覚障がい者のアスリートとその伴走者との関係である。話は2つ分かれていて、マラソンとアルペンスキー。小説の中身を書くとキリがないほど僕はハマりました。視覚に頼らず、走ったり、スキーをしたり。これらの感覚は頭で想像しても体で実感できない。ましてや、アルペンスキーなどは、あのコブのある急斜面を伴走者の耳から入る声を頼りに滑り降りるのだ。そんな未知なる感覚の世界を、著者である浅生さんは、あたかもその世界を知っているかのように生き生きと書かれる。この小説の魅力は、その未知なる世界への想像を、主人公である伴走者を通して読み手が想像力を膨らませれるところだと思う。

『伴走者』の文章を読んであまりに楽しかったので、続けて『どこでもない場所』を読んだ。こちらはエッセイ集なのだが、本当の話なのかわからないものがある。香川県にある「うどんバイキング」を出すホテルでは、食堂にいるおばさんが、お客それぞれに食べるものを指示するという。「こんなバイキングあるの!?」と思うのだが、描かれた光景が面白い。

その浅生さんに、旧知の編集者は「嘘」について語ってもらうのはどうかと言った。架空の物語をつくる小説家は何より嘘の専門家といえなくもないが、そもそも「嘘」というテーマで60分も話すことあるのだろうか?それでも、浅生さんの奇想天外な面白さに惹かれ、嘘についてのお話ししていただくことが決まった。

テーマは「人はなぜ嘘をつくのか?」である。

その内容は、まずは聞いていただきたい。

僕自身、この話を聞いたから、真実ってなんだ?と考えてもみなかった当たり前のことを考えるようになった。

家に帰って妻にその日の出来事を話す。もちろんそこで嘘の作り話をするわけではない。それでも、その日の出来事をすべて話すわけではなく、かいつまんで話す。そこには、こちらの勝手な取捨選択があり、無数の語らなかったことがある。調子のいい一部のことしか語らないのだ。そもそも何かを話すという行為は、何かを話さないと同義語なのである。開示すべきことと同時に、伏せること、共有しないことが無数に存在することになる。だからと言って、全てを開示されるとたまったものではない。ほとんどどうでもいいことを長時間聞かされる羽目になる。

日常生活でも、真実ではない会話は無数にしている。
知人と雑談をする。近況を聞いて、あまりピンとこないことでも「へー、いいね!」と適当な相槌を打つ。たまたまた入った蕎麦屋さんで「どうでしたか?」と聞かれる。特に感想はなくても「ありがとうございます。美味しかったです」と社交辞令を言う。友達の展覧会に行く。さほど好きな絵でなくても、「色がキレだね」と、どこか気に入ったところを見つけて褒める。

僕らは、いちいち真実を語っていないのだ。逆に僕らが真実だけを語り出すとどういうことになるだろうか。知人の話に、「あまり面白くないね」と返す。蕎麦屋で「普通でした」と言う。知人の絵に「好きじゃない」と宣言する。こんな正直さは百害あって一利なし、誰も求めていない。正直に真実を語るのがいいとは、誰も思わないだろう。

嘘をつかないことを誠実さだと思っていたが、浅生さんの話を聞いて、この思い込みがきれいに覆された。そもそも、自分が「誠実である」と思うことほど傲慢なことはない。日々、僕は真実を語っていないのだ。これほど多くの人と出会い複雑に絡まった関係性の中で生きるには、真実だけを口にするには、重すぎる。適当なやりとりを挟まないと、身がもたない気がする。しかもその適当なやりとりが大多数なのではないか。

「社会は嘘に溢れている」。この言葉は、悲観的であり、どこか絶望がある。しかし、この嘘が社会の中での人間関係を豊かにしているのではないだろうか。手作りした料理を「美味しいね」と言ってもらえる。洋服の試着をすると「お似合いですね」と言ってもらえる。美容室では「若く見えます」と言われ、SNSでの発言には無数の「いいね!」をもらう。こんな小さなやりとりが、どれだけお互いを気持ちよくし、世界を平和にしていることだろうか。

これらのどれが嘘で、どれが本心かはわからない。多分に本心じゃないものが含まれていることぐらい誰だって知っている。だからと言って嫌な気分にならない。そんなもんだと誰だって気づいているとしたら、人は「嘘の存在」を認めていることになるし、その恩恵はみんなで享受している。

この「嘘の存在感」を自覚することで、人は人に優しくなれるのではないか。誰しも言いたくないことがある。調子のいい話は守りたくなるし、見栄を張りたいこともある。そんなお互いの事情から生まれる嘘の存在を肯定することで、相手の中にある隠したい何かをそっとしていてあげられるのだ。

小学生の頃から好きな映画は『荒野の七人』である。山賊に襲われる村人たちは用心棒として7人のガンマンを雇う話だ。ガンマンたちは、それぞれの背景があり安い報酬にもかかわらず、この仕事を請け負う。あるガンマンは、この村の近くには金塊が眠っていると信じて、この安い仕事を請負ったのだが、山賊との戦いで命を落とすことになる。息絶え絶えのガンマンはリーダー役のガンマンに「金塊はどのくらいあるのか?」と聞く。リーダーは金塊など噂に過ぎないことを知っているが「数え切れないほどあるぞ」と伝え、ガンマンの最期を嘘でみとる。この場面を「嘘をついてはいけない」という大人は、どう説明すればいいのだろうか。

悪意のある嘘は論外。ただし、世の中は嘘で関係を円滑にしたり、人を楽しませたり、和ませたり、優しさを与えたりする。浅生さんのエッセイに出てくる香川県のホテルもどこまで本当かは、どうでもいいかもしれない(本当だったらゴメンなさい)。旅行ガイドじゃないし、十分に想像力を掻き立てられたのだから、嘘か誠かは問う必要はない。

そんな嘘がつくる世界の様相を浅生さんは、様々な事例から話してくれる。すると、「嘘にまみれた世界」を愛おしくさえ感じてくる。そしてこの話を聞くと、誰かと嘘について語りたくなり、それはきっと笑いと優しさと共感に包まれる時間だろう。まずは、ぜひ聞いてもらいたい。


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