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ブス呼ばわりされたので粗チンと言い返したら問題になった話

Googleドライブを掃除していたら、はてなブログかどこかにアップしようと思って書いたらしい記事がいくつか出てきた。
存在をすっかり忘れていたテキストもたくさんあって、思いがけないヘソクリを発掘したような気分になった。
内容は、そんなお得気分に浸れるようなものではないのだけど。
せっかくなので、ここにアップしてしまおうと思う。


ブス呼ばわりされたので粗チンと言い返したら問題になった話

「おい、ブス」
呼びかけられて、わたしは苦りきった口元に無理やり笑みを浮かべて返事をする。
「はい」
20年前、高校を卒業して入社したアミューズメント関連会社は、実力主義の男性アルバイト達が現場を仕切る、強烈な体育会系社会だった。
わたしを呼びつけた先輩は笑い半分威圧半分の表情で言う。
「顔もブスで、性格も悪くて、仕事もできないなんて、お前、生きてる価値あんの?」
「すみません」
仕事ができないのは事実だった(何しろ入社して間もない新入社員だ)が、優しく教えてもらうことはまずなかったし、叱咤の際には容姿や性格への侮辱が常にセットだった。そして何を言われても殊勝に頭を下げ、追従の笑いを浮かべなければならなかった。
暴力的な言動に反論することはできなかった。
なにせわたしは本当にブスで、性格もろくなものではなく、仕事もできないのだから。
本当のことを言われているのだから仕方ないのだ。
そう考えて、なんとか心を保つ日々だった。

ある日、普段仲良くしている同期入社の男性社員が、わたしに呼びかけた。
「おい、ブス」
振り返ると、いつもの口の悪い先輩達と一緒にニヤニヤ笑ってこっちを見ている姿が目に入った。
新入社員は全員一律で先輩達から怒鳴られ、小突かれ、バカにされる立場にあった。そんな酷い目に遭いながらも励まし合って働く同期仲間だと思っていた彼が、先輩と並んでわたしに暴言を吐いていた。
一瞬カッとなり、悲しさと悔しさで泣きそうになった。
でも不意に、「同じく新卒の彼がわたしにあんな言葉遣いをすることが許されるなら、わたしだって許されていいはずだ」と考えた。
それで、こう応えた。

「なに?粗チン野郎」

その場にいた先輩方はあっけにとられて顔を見合わせ、それから猿のように手を叩いて笑った。
同期は苦虫を嚙み潰したような顔で、「お前、それはないだろう…」というようなことを言った。
先輩達にウケたことで、わたしはその時ホッとしたと思う。

その日の退勤時、わたしは男性上司から倉庫に呼び出され、ものすごく神妙な顔でこう言われた。
「お前、女だろ?言葉遣いは気をつけろ」
本当に、本当にびっくりした。
その上司がいる場でも、わたしは何度も「ブス」と罵られていた。「無能」と怒鳴られ、「さっさと辞めろ」と吐き捨てられてきた。
そういった男達の度重なる暴言は放置で、たった一度の「粗チン野郎」はこんな風に別室で叱られるほど問題になるのか。

なんだ、それは。
本当に、一体全体、なんなのだ。

女だからなんだというのだろう。
女だろうが男だろうが、汚い言葉で他人を罵るなというならまだ分かる。
自分の言葉が良いものだとは、当然これっぽっちも思ってはいない。
しかしその暴言の投げ返しに至った背景すべてが無視され、わたしだけが叱責されるのは、絶対に納得がいかなかった。

女が男に向かって性的な侮辱を含めた汚い言葉を叩き返したのが、そんなに気に食わなかったのだろうか?

今もって謎だ。
この上司も先輩達も、今後再会することはまずない相手だが、会うことがあればぜひ訊いてみたい。
性格が悪いというのは、こればかりは少しだけ当たっていると思う。

その後、先輩達からの暴言が止むことはなく、萎縮してしまったわたしが反撃に出ることもなかった。
1年と経たないうちに、わたしはその職場を辞めた。


男は言葉遣いを正せとはめったに言われない。
「社会人なら」とは言われるかもしれないが、いずれにせよ女のように「男であるから美しく丁寧な言葉を使え」とは、決して言われないのだ。

そして男は女の容姿を査定し価値をつけ、それを気軽に口に出すことも許されている。
ブス、デブ、ババア、脚が太いね、化粧が濃いね、ブスはもっとちゃんと化粧しろ、そんなに痩せてちゃ勃起しない、おっぱいでかいね、小さいね…
だいたいこの程度の語彙だが、わたし達女はこれらを子どもの頃からくり返しくり返しぶつけられる。
それらはたいていいつも嘲笑とセットであり、不愉快で、屈辱的で、悲しく、そして恐ろしいのだった。
ブスと言われて腹を立てると「本当のことを言われて怒っている」といってさらに笑われて屈辱も不快も増すので、沈黙と無視でやり過ごすしかない。もしくは追従の笑いでもって。
怒りの表明が馬鹿にされる経験をくり返すうち、わたし達はどんどん怒ることができなくなっていく。
生活の中で体験する感動も喜びも悲しみも、たいていのことは共感することが可能で、共感し合えないまでも、個人の心の動きは尊重される。しかし女の容姿に対する査定や侮蔑は、本人が「不快だからやめろ」と抵抗することを許さない。
査定されることに抵抗する女は「男に高く見積もってほしかったのに、安く見積もられて腹を立てている」「自分が安いことを知っているから図星を指されて怒っている」と、決めつけられ、そのブスな容姿同様に醜く浅ましい心を恥じよと、さらに追い詰められるのだ。
そうして、その査定の方法を、価値のつけ方を、侮蔑の仕方を、正しいことだと刷り込まれ、内面化していくことになる。
ブスと言われて、化粧したら可愛いのにと言われて、もっと痩せたら付き合ってもいいと言われて(わたしから付き合ってくれなどと言ってない場合でも)、どう感じるのが正しいのか分からなくなってしまう。
全部、屈辱的で無礼な言葉なのに。

男達は女を査定する側にあり、女は常に査定される側なのだ。

わたし達女は小さな頃から「女の子らしくしなさい」「お行儀よくしなさい」「汚い言葉を使っちゃだめ」「おとなしくしなさい」と言われ続ける。
「やめろ」と言うと「やめてでしょ?」と言葉遣いを正される。
拒否の瞬間さえ「お願い」するよう強いられるのだ。
それはとりもなおさず、男達のご機嫌を損ねることなく査定してもらうための調教であり、男から少しでも高く見積もってもらうために他ならない。

わたしの「粗チン野郎」という言葉が上司に問題視されたのは、男より一段も二段も低い位置にいるはずの女が、男の語彙で男に軽口を叩いたことが異常だったからだろう。世の中の仕組み上、それは言葉そのものの汚さよりもずっと重大な問題だったのだ。


この世は、路上や駅でぶつかってくる男、バス停で突然ため口で話しかけてくる男、酔っぱらってすれ違いざまに髪を撫でてくる男、ナンパを断ったら「死ね」と吐き捨てる男、そういった無礼なクソが無数にいる世界だ。
クソ達は、そういった行為を自分の当然の権利だと錯覚している。
無礼な行為をされた側が「失せろ、粗チン野郎」と言って手を払いのけようものなら、逆上してなにをしてくるか分からない。
不愉快なことに、わたし達はさらなる暴力を回避するために慎重に言葉を選ばざるを得ないのだ。

でも、どうして、わたし達が「やめてください」とお願いしなければならないのだろう?
「それは犯罪です」と、教えてやらねばならないのだろう?
「次は警察を呼びます」と、大目に見てやらねばならないのだろう?
「そのくらいのことで」と、わたし達の怒りや悔しさやあらゆる損害を軽んじられなければならないのだろう?

馬鹿げている。
女だからといって、男にとって価値ある女かどうかなどと勝手に査定される謂れはない。侮辱的な言動に丁寧な言葉遣いで対応してやる必要だってないはずだ。
20年前のあの日よりも、世の中は確実に進歩している。
いつか、こんな物思いと雑文が、過去の遺物となって「そんな異常な社会が本当にあったの?」と言われる日が来るといい。
心からそう願っている。


では、また。

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