1026 山本七平の日中論が面白い件。
山本七平の日中論を読んだ。
Amazonレビューが面白い。
5つ星のうち5.0 日本史上の謎「征韓論」「日支事変」を解析してくれる
2018年1月6日に日本でレビュー済み
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日支事変について、
トラウトマン和平工作により、
満州国承認
日支防共協定の締結
排日行為の停止
その他
を中国政府が協議の末、トラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会議の開催」を申し入れてきたところ、
12月8日に日本は中国が日本の提案を受諾することを確認した。
しかし軍事行動を止めない。
それどころか12月10日、南京城総攻撃を開始した。
なぜか。
「市民感情が条約に優先した」。
「評論家」であるべきはずの新聞が、逆に「感情」の代弁者となった。
南京陥落を報ずる新聞の狂態ぶり、「蒋さんどこへ行く」という嘲笑的見出しをかかげ、祝賀提灯行列の大きな漫画を掲載。
トラウトマン斡旋日本案を蒋介石が受諾することによって南京直前で停戦することは「市民感情が許さなかった」。
・・・このあたりの話は、いわゆる慰安婦問題について締結された日韓合意を破棄しようとする韓国を彷彿とさせ、我が国も他国のことは言えないな、と、大変興味深いのだが、
問題は、「なぜそのような感情を日本人は持つのか」。
ベンダサン氏は述べる。
中国は隣接の一部の国々に対しては、「文化的に君臨すれども政治的に統治せず」である。
その形態をそのまま天皇にあてはめて、それによって中国に対して文化的独立を主張してきたのが、天皇制のもつ一面なのである。
すなわち「中国の位置」に天皇を置くということなのである。
中国に土下座するのは天皇に土下座するのと同じことである。
中国の文化的支配権からの独立宣言の最近の例をあげれば、明治の教育勅語である。
徳川時代は、「尊皇」とは実は「尊中」であり、それを「歴代の天皇」へと切り替えたわけである。
それは結局、「理念としての日本国内の中国」への切り替えであり、現実の「中国」と「理念の中国」との分離宣言である。
後のこれが、「理念としての中国」を、逆に現実の「中国」へ押しつけて行こうとする結果になるのである。
日支事変の謎はこれが一種の「革命の輸出」だという点にある。
「尊皇」と「尊中」が同根であることは、日本がその歴史時代の始まりから、中国の圧倒的影響下にあったという状態が生み出した一つの歴史的所産である。
歴史的所産を、人は、消すことはできない。
これを思想史に組み入れ、伝統として客体化し、その上でこれに対処して新しい道を探す以外に方法がない。
それをしないで、過去を「なかったこと」にしておくと、それが民衆的表現、すなわち感情的表白として残り、逆に、「姿を変えた過去」に無批判に追従せざるを得なくなるのである。
一体全体「征韓論」が起こった原因は何か。
実質的には皆無といわねばならない。
征韓論者によると、原因は韓国が日本に非礼であったということだが、非礼が開戦の理由になるとは、何としても不思議な話である。
もし、このとき「征韓」が実施されていたら、おそらくそれは、南京城総攻撃以上に、世界史上最もわけのわからない戦争になったであろう。
大久保の主張の趣旨を要約解説すれば
「韓国が非礼だという。しかしそういうなら一体全体、日本に不平等条約を押しつけ、日本に駐兵さえしている列強はどうなのか。
韓国は何も日本に不平等条約を押しつけたわけでもなければ、日本に駐兵して治外法権を主張しているわけでもない。
主権を侵害しているものがあればそれは列強であっても韓国ではあるまい。
非礼が原因なら、まず「征列強」を強行してこれらを一掃しなければなるまい。
それをしないで「征韓」を主張するとは全く論理が通らない。従ってまず国力を増強して、列強の「非礼」を排除すべきだ」と。
では一体、なぜ西郷は、反論できないほど漸弱な主張を強行しようとしたのか。
またなぜ、この議論に敗れたことが、政府との訣別、隠退にまでなるのか。
いろいろな見方が成り立つと思うが、少なくとも西郷の主観的な見方での征韓とは、
いまの言葉でいえば、友邦への「革命の輸出」いわば主観的「解放戦争」なのである。
その革命は彼が生涯推進してきたものなのだが、それを欧米列強という「外国」に輸出する気は、もちろん彼にはない。
従って彼から見れば、大久保の議論はひどい詭弁になるだけでなく、
それは明治政府が、彼が推進してきた革命政府であることをやめるという宣言でもあった。
ここで隆盛が考えていたような天皇制は終わり、天皇家幕府が出来て、その外交政策はほぼ勝海舟の路線に沿って進み出したわけである。
そして徳川時代に育まれ、明治政府へと到達させた「勤皇思想」は、西郷と共に再び「野(や)」に下っていくのである。
そしてそれが後に、天皇思想が天皇家幕府に立ち向かい、新しい征韓論へと進んで行くわけである。
この尊皇思想と征韓論が、ほぼそのままの形で最終的な姿で出て来たのが、2・26事件と日支事変であった。
2・26事件だが、これが右翼の青年将校のクーデターなら、殺害された人々は左翼の巨頭のはずであるが、この犠牲者を左翼と見なしうる人はいないであろう。
ではこれは単なる右翼内の権力闘争なのであろうか。
そうではない。
彼らには、自らが権力を掌握しようという意志はないのである。
さらに奇妙なことに、叛乱という意識が全くなく、天皇の権威と権力に挑戦しているなどという意識は、はじめから終わりまで、全く皆無なのである。
天皇が任命した高官をその目の前で射殺することも、無断で兵力を動かして蜂起することも、彼らにとっては挑戦でなく絶対服従なのである。彼らは本気で、心底からそう信じて疑わない。
言うまでもなくこれは、彼らが絶対視しているのは尊皇思想の象徴、
すなわち「自らの内なる天皇」であっても、
天皇家幕府でも天皇というその人でもないからである。
尊皇思想は天皇その人とも天皇家とも関係なく、主としてまず民間から起こって来た事実を思い起こし、西郷の死とともにまたそれが野(や)に帰ったことを考えれば、これはむしろ当然のことかもしれぬ。
尊皇は歴史的にみれば尊中である。
従って以上のことが、中国関係において典型的な形で表れるのは当然であろう。
民族の行動の思想的基盤は、対内的にも対外的にも同一であることは言うまでもない。
差があると見えるのは表れ方の差か、一時的、末梢的な外交的技術の差にすぎないわけである。
日支事変がそのまま2・26事件の海外版という型で表れ、そのため日本の軍事行動が世界のだれにも理解できなくても不思議ではないのである。
いわば尊中討奸・尊中攘夷なのである。
従って2・26事件の首謀者が自分たちの軍事行動を叛乱とは考え得なかったように、
当時の日本人は、中国への軍事行動を侵略とは考え得ないのである。
その基本にあるものは尊皇思想である。
すなわち「内なる中国」を絶対視し、「尊中」でそれを自己と一体化することが親中国であるから、
2・26事件の将校の対天皇と同様、
対象としても外在する「外なる中国」は、
無視されるどころか、はじめから存在しなくなるのである。
それゆえ中国対日本という関係で両者をとらえることはできない。
従って「外なる中国」が自らの意志で、「内なる中国」の前に立ちはだかったとき、
日本人は、2・26事件の将校と同じ態度にならざるを得ないわけである。
すなわち「内なる中国」を絶対視し、これを中国として「外なる中国」を排除するか、
「外なる中国」の意志を「内なる中国」と一体化し、これを絶対化してその前に土下座するか、である。
2・26事件の首謀者の「尊皇」が、現実には徹底した天皇無視となるのと同様に、日支事変の「尊中」が現実には徹底した中国無視になる。
日本人には中国と戦争をしたという意識がないという批判があったが、これは当然で、2・26事件の将校に「天皇と戦った」という意識がないのと同じである。
・・・以上、本著から片言隻句の寄せ集め。
山本七平のものの見方が光る。