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サブスクでは満たされない。

欲求不満。

欲しい音楽は全部サブスクで手に入る。嘘。真っ赤な嘘。ブルーハーツはサブスクにはない。GARNET CROWもだ。青い鳥。赤い鳥。

ともかく。

”だいたい”の欲しいものはサブスクで手に入る。あー、昔聞いてたバンド。昔聞いてたアニソン。昔聞いてたアイドルソング。こんなんあったなー、懐かしい。

digることもできる。好きなジャンルを入力。ハウスの新譜チェック。へー。ほー。ふうん。いいじゃん。お気に入りに入れておこう。ランダム再生。あっ今の曲なんてえんだ。待て。流れていくそいつ待て。畜生。お前はいつもそうだ。なんとか見つけ出したり、見つからなかったりで、なんやかんや。

TLには誰かが見つけてきたエモい音楽が流れる。クラブに行けば誰かが狂おしいほど愛している音楽が爆音でかかっている。へいShazam(おれのスマホにはシャザムはいないが)、今かかってる音楽はなんだ。へえ、ほう。よし、全部まとめてプレイリストに放り込んでおけ。おれのプレイリストはもうパンパンのぎゅうぎゅうづめだ。あとで整理しなくちゃな。

それで?

やっぱりCDが欲しいな。やっぱりおれはCDを現物で欲しいぞ。うむ。おれは音楽のオタクだからやっぱり物的所有欲求は抑えられないのだ。おっあのアーティストが新譜を出すのか。これは間違いなく名盤だろう。購入。よしよし、これでおれは最高の音楽を現物で手に入れ、物的所有欲求も満たされるというわけだ。サブスクで音楽を聴き、所有したい音楽はCDでコレクションとして買う。これぞ現代人のスマートな音楽の楽しみ方というものだ。


それで?

物的所有欲求など何ら問題ではない。よく誤解されることだが、この渇きについて物的所有欲求などは実のところ、些末な、微小な問題でしかないのだ。俺のプレイリストは常に最高の音楽で満たされている。俺の耳の中では常に最高の音楽が鳴り響いている。それで? おれがこの中で、真に偶然性によって出会った音楽は、どれだけあるのか。

そうだ、重要なのは究極的な偶然性なのだ。

サブスクサイトにアクセスして、次におれは何をする。検索窓に、そうだ。 ”検索窓に、文字を打ち込む” 曲名にせよ、ジャンルにせよ、そこに打ち込まれる文字列は”私が既に知っているもの”でしかありえない。全く未知のものをどうやって検索できるだろう!俺がそこで出会うものは”おれが既に知っているもの、の中から抽出されたもの”でしかないのだ。そこに”未知”との出会いは原理上、起こりえない。

あなたへのおすすめ。

それは結局ビッグデータによって俺自身の指向から気に入る可能性の高いものをpick upされたに過ぎない。そうだ。実はサブスクが問題なのではない。結局、問題はSNS。ソ-シャルネットワーク。ソーシャルメディア。そうだ、根幹はそこにある。そこで出会うもの全ては結局、俺自身が知らず知らずのうちに選び取ったものでしかないのだ。それは無作為、あるいは偶然に見えて、俺自身が既に選択したものの中から、順番に巡ってきたものに過ぎないのだ。俺が構築したTL!俺が選別したプレイリスト!

一億回再生された曲だって、おれの世界(サブスク・SNS・ソーシャルネットワーク)の中に”存在しなければ存在しない”!おれの世界(サブスク・SNS・ソーシャルネットワーク)には”おれが既に知っているものしか存在しない”、そういう構造だからだ!そのおもちゃ箱には、俺が自分で入れたものしか、実は入っていない!

もっとありふれた話をしよう。ジャケ買いは店頭でしか発生しない。こんなことわざわざ音楽で言うまでもない!電子書籍での購入と、書店をあてもなくぶらつく行為とを誰が同一だと思うだろう!kindleの1000万冊の書籍の中から一冊の本を買うには、最初から目当ての本を決めていて、それを検索する以外にない!それとも君は1000万冊を”ローラー”すると言うのかね?駅前の書店の文庫本の棚三列の中に、”何かめぼしいものはないか”と物色する”あの行為”を、いったいどうして電子通販サイトで再現できるだろう!それは私以外の誰か(例えば、その書店の、その店舗の、仕入れ担当の店員)が、私の都合とはまったく関係のないところで勝手に決めてくれなければ発生しえない。映画だって同じだ。いくら定額制映画見放題サービスの作品数が充実していようと、”知らない作品は見られない”のだ。ローマの休日やBTTFほどの名作でも、テレビで放送されなければ見る機会が一生なかったという人間がどれほど大勢いただろう!いいか、BTTFが見られないとは、この世の全ての名作が見られていないのと同義なのだ!!!「BTTFに拘らずとも、現代のSNSで話題になる作品の中にも名作はあるだろう」などと知った風を抜かすな。俺はお前らよりよほどものを知っている。映画サブスク画面でBTTFの再生ボタンを押す人間は、”最初からBTTFを知っていて、それを見ようと思った人間だけ”なのだ。それ以外の人間はそもそもそこへ辿り着かない!それを知る最初のきっかけがなかった大勢の人間にとって、どれだけ映画サイトの作品数が充実していようと全く意味がない。”見えないものは存在しない”、それがソーシャルネットワークの構造的な限界。

でも私は、SNSのフォロワーが面白そうな映画/小説/音楽をRTしてきて、それで新しい作品を知ったよ。なるほど。だが”そのフォロワーを選んだのはお前自身だ”。そしてそのフォロワーを選ぶとき、そこには何かしらの接点があったはずだ。何かが好きで、つながったTL。それは最初からデザインされた世界。

好きなもの、それまで触れてきたものによって個人のアイデンティティは形作られる、確かにそれは”私自身”を形成するものとして、決して間違いではないし、それはそれで大事なものだ。

だが!

それだけでは”変化”がない!!

出会い頭に心臓を撃ち抜かれるような衝撃!不意にハンマーで脳天を打ち砕かれるような衝撃!フルスイング!それは痛みを伴い、血が流れ出す。そして私の体内に新しい血が流れ込む。見えている世界をひっくり返す力。変化をもたらす力。それは全くの純粋な偶然によってしか成立しえない。そしてその偶然性は、ここには存在しない。では、どこに?

serendipity。
素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。
また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。

知らない町から手紙が届くような


おれがブルーハーツを知ったのは、親父のカー・ステレオ。

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