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めんどくさいけど、楽しいもの。ー川上弘美『神様』ー

引き出しを開けたら神様が出てきた。


本棚にもないし、収納ボックスにもないし、実家にもないのでてっきりなくしたか間違えて売ったと思っていた。川上弘美の『神様』。こんなところにまぎれこんでいたらしい。久しぶりに手に取って、読んでみる。

『神様』にはいろいろなものが平然と出てくるので好きだ。

くまにさそわれて散歩に出る。河原に行くのである。(神様)

冒頭の1行を読んで、あ、なんか、いいなと思った感じ、その「感じ」が最後の一行までゆるやかに流れ続ける。くまと散歩に行ったり、5年前に死んだ叔父と最後の午餐をしたり、壺から変な女が出てきたり、人魚に魅入られたりする。くまと抱擁をかわすと思ったより冷たかったり、えび男くんの鳴らすチャイムの音がとても柔らかかったり、エノモトさんがおいしいコーヒーをいれてくれたり、「猫屋」のカナエさんが風邪の咳には柑橘類はだめだと教えてくれたりする。春が過ぎて、夏が過ぎて、秋が過ぎて、冬が過ぎて、春が過ぎる。そういう感じの話である。読み終えると、あ、なんか、よかったなあという感じがじんわり残っている。
そして、なんだかいいようのない、泣きたくなるような気持ちが、心の奥のほうからやってくる。涙になるか、ならないかの絶妙な速度でやってくる。

悲しいから泣きたいんじゃない。この本には、思ったより別れの話が多いけれど、別れが悲しくて泣きたくなるんじゃない。悲しい事件とか、悲しい出来事を描いているからとか、そういうのとは違う種類のもので。
例えば、季節が移ろっていくこととか。例えば、子供が大人になっていくこととか。例えば、太陽が沈んで星が出ることとか。例えば、静謐なコンサートホールで、始めの音が出てくる瞬間とか。例えば、空が青すぎるとわけもなく不安になることとか。例えば、宇宙は果ての果てまでとほうもなく広がっていることとか。永遠なんてないってこととか。
そういう、当たり前のこと。当たり前で、必然で、だからこそ、どうしようもないことの、そのどうしようもなさに対して、ふいにかなしさがあふれそうになることがある。そういうときのかなしさに似ている。
そして、そういうどうしようもないものに直面したとき、人はどうやってきただろうと、思いを巡らせた時、この本のタイトルである「神様」がもう一度顔をのぞかせるのである。

寝床で、眠りに入る前に熊の神様にお祈りをした。人の神様にも少しお祈りをした。ずっと机の奥にしまわれているだろうくま宛の手紙のことを思いながら、深い眠りに入っていった。(草上の昼食)


川上弘美の文体はやわらかい。

やわらかいのと、当たり障りのないのとは違う。やわらかい言葉をつかうのは、それでなくてはならないからだ。かたちのないもの。あるようなないようなもの。いいようのないもの。言葉ではあらわせないが、ことばをつかうことでしかあらわすことができないものをあらわすために、そうやって書くのだと思う。そうやって書くしかないのだと思う。
そしてその、それでなくてはならないもの、を見つけ出すためには、ものすごくちゃんと見なければならない。ものすごくちゃんと、見て、匂って、聴いて、味わって、触れないと、いったい何が「それでなくてはならない」のかがわからない。適当に(この場合の適当とはいい意味のではなく、うわべだけそれっぽく取り繕ってその実、誰にも向き合っていないものを指す)やってたら、そういうのって実はバレているものだ。

川上弘美のこのやわらかな文体は、言葉をひとつひとつ丁寧に拾い集め、探し求め、必要なだけ待って、根気強く向き合ってこなければつくることのできない類のものだ。

書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら、「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったのだ。「めんどくさいけど、楽しいものだよなあ、ほんとにまあ」と思ったのだ。(あとがき)

「めんどくさいけど、楽しいもの」。言い得て妙なそういうものたちが、川上弘美作品にはいっぱい書かれている。例えばそれは、生きること、と呼ばれるものであったり、恋と呼ばれるものであったりする。川上弘美は、そういったものを書く達人だ。
そうしてそんな、めんどくさいけど楽しいものが、ふいに引き出しを開けたら出てきたりする。そんなこともあるのだ。そんなことが、あってもいいのだ。

実際あったのだ。なくしたと思っていたものが。


『神様』にはいろいろなものたちが平然と出てくる。平然としているようだけれど、やっぱりそれぞれにいろいろたいへんなことはある。
めんどくさいけど、楽しい。楽しいけど(あるいは、楽しいから)、かなしい。そうした交流や縁のなかで、この物語の語り手である〈わたし〉は、時として語り手なのに語らないということさえする。

だめなのなら、ふたたび言いかけて、やめた。だめなのは、自分も同じだった。よその生き物に、だめなのなら、などとは言えなかった。(夏休み)
わたしも馴染まないところがある。そう思ったが、それも言えなかった。かんたんに、くらべられるものではないだろう。(草上の昼食)

こういう類の物語にとって、「かんたんに、くらべられるものではないだろう」と思ってくれるほどやさしい〈わたし〉が語り手であったことは、本当に幸いなことだろう。そこで「かんたんに、くらべられるものではないだろう」と思ってくれた事実が何よりも、心地いい。
そうして、このやさしい〈わたし〉は、くまに対しては「最後まで名前のないくまだった」なんていいながら、実は〈わたし〉の名前こそ最後まで読者に明かされないままなのである。くまに「貴方」と呼ばれ、ウテナ様のご親友様であり、コスミスミコのご主人様であり、叔父にしてみればもちろん姪である〈わたし〉は、しかし最後の最後まで名前は秘密のままだ。透明に、無防備に流れているようでいて、その輪郭の内側には何者にも立ち入らせない、静かだが強固な結解があるように思えるのだ。その結解はやさしさの源にもなるけど、同時になかなかやっかいで、しんどいものでもあるのではないか、などと。それこそ、かんたんに言えることではないけれど。
夜になると何かがずれてしまう〈わたし〉を、どこか馴染めないところのある〈わたし〉を、その抱えたままの違和への感覚のことを思いながら、神様にでも祈ろうか。そんなことを思ったけれども名前のわからない人のための祈り方はどうすればいいかわからなかったので、とりあえずこうして、ものを書いてみた次第。


引用はすべて以下より。川上弘美『神様』2001年10月 中公文庫


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