
理学療法士 菅原和侑ができるまで
1.プロローグ
今までの人生を振り返ってみると,僕の人生では,中学〜社会人どの世代に居るときも,自分は身近な人に避けられ,遠いい人に好まれるような人生だったと思います.
曲がったことが嫌いな僕は,理不尽な態度や行動に対して、どんな立場の人を相手にも変わらない強気な態度をとっていました.
すぐに思ったことも口にしてしまって,失敗したことも成功したこともたくさんありました.
『偉くなったからって,動かなくて良いのか?雑用しなくて良いのか?なんでも下っ端にさせて良いのか?なんで,ろくに発展もしない先輩を尊敬しなければならないのか?なんで,ただ自分より早く生まれただけの人が優先されるのか?』
いつも,今でも年上が意味もなく敬われる日本に不満を持っています.
こんな思考が身についたのは幼少期からだったと思いあます。
二人兄弟の末っ子で生まれた僕は幼少期から年功序列に不満を持っていました.
それは,本当に幼少期からだったと思います.
幼稚園や小学生の時から,親に対して「なんで兄貴ばっかり優先されるんだ!?」と家庭の中でも不満を常に漏らしていました.
裕福な家庭ではなかったから,常に自分のものは兄貴からのお下がり.
いつも新品ばかりを買ってもらう兄貴に対し,ライバル心がむき出しだった.
そんな,文句ばっかり言っていた僕も,社会人として理学療法士となり,経験年数も丸11年となる.
いよいよ,先輩の理学療法士よりも後輩の理学療法士の方が増える時代に突入しました.
理学療法士17万人時代到来.
日本人の1000人に一人が理学療法士.
恐ろしい時代だ.
『自分がこんなに頑張っているのに,なんであの先輩は勉強しないんだ!?』
若い人が努力したときに言っている典型的な文句。
いつの間にか,【言っていた側】から【言われる側の立場】に立ってしまっている.気が付かない間に自分も歳をとってしまったみたい.
自分も優秀な若手たちに負けないように更にレベルアップをしないと.
そんなように焦る日々を過ごしています.
そして,今なぜこうして自分の『自叙伝』を書こうと思ったかというと,
それは,『若いセラピスト』や『学生』に自分を超えて欲しいと思ったからです。自分が考えながら未来を予測して行動して,紆余曲折してきたこの11年間に目を通して貰えれば,若いセラピスト達は11年という長い時間を掛けずに,「もっと早く僕の立場まではなれる.」と思ったからこれを描こうと思いました.
「先輩がいない環境で働いている人.」や「理学療法士に本当になってしまって良いのか?」と悩んでいる専門学校生.
「理学療法士になるという夢」をもつ高校生に良いアドバイスと良いイメージができるのではないかと考えました.
そしてもう一つは,自分の今までの生活を振り返ることで,更にこれからの人生でチャレンジしていこう.自分の原動力は何だったか?と振り返りたかったからです.11年も働いていると,多くの心移りや迷い,モチベーションの低下,楽しさやモチベーション急上昇など多くを経験してきた.それらをもう一度思い出すことで,自分が今後何をしたかったのか?を今一度確認したいと思っています.
それと,おそらく僕が理学療法士として働くのもあと僅かだと思う.僕にはまだまだ叶えるべき目標があるからだ.
だからこそ,その振り返りとしても一度まとめてみたかった.
今回の『自叙伝』は中学生,高校生,専門学校生,社会人,現在そして未来について.
プライベートの話から仕事の話,いじめられていた時の話し,今後に向けた自分の展望など,本当に包み隠さず書いた一冊だと思う.
この文章が誰かの目に止まり,そして皆さんの何かの『キッカケ』になれればと思っています.
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【目次】
1.プロローグ
2.中学時代の僕
3.高校時代の僕
・高校生活の始まり
・全国大会出場を目指しているチームでサッカー高校デビュー
・地獄の高校2年生時代
・初心者サッカー部員が最高学年に
・理学療法士との出会い
4.専門学校時代・大学時代の僕
・ろくな学生ではなかった僕
・ブログとの出会い
・目標が明確になった3.4年生
5.理学療法士,社会人の僕
・入職
・北海道選抜U12,ナショナルトレセンU12のトレーナー
・天狗の鼻を折られた日
・筋膜マニピュレーションとの出会い
・メンターに東京移住を止められた日
・苦手な英語を克服するために
・筋膜治療の本場 イタリア短期留学(2014年9月)
・日本筋膜マニピュレーション協会の理事となる
・OMPTコースとの出会い(2014年5月)
・母校の専門学校で非常勤講師
・私が非常勤講師や講習会で講師を続ける理由
・結婚と子供
・大学院
・2019年,現在の自分
・未来の自分
6.【終わりに】
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2.中学時代の僕
自分の人生を振り返ってみると,紆余曲折してきた人生だなと思う.
自分の人生を振り返ってみると,最古に記憶にあるのは【中学時代】かな.
私の住んでいる地域は,父の勤めていたJR北海道の社宅があり,多くの同じような家族が住んでいる地域だったので,小学校から中学校へと進学する時はだいたい顔なじみの子どもたちが集まりました.
今の皆さんからの僕のイメージは,よく僕はサッカーをやっている人だと思われているかもしれませんが,実は中学校時代は「サッカー部」ではなく「バドミントン部」に入部していました.
小学校の頃からサッカーをはじめて将来の夢はJリーガーだ!と思っていたのですが,小学校の頃は「母親は子供のミスで他の親に自分の子供が悪口を言われるのが嫌だった.」からという理由で,小学校のサッカー少年団には入れず,周囲のサッカー少年団の子供たちと遊んでいました。
中学生になり「よし!いざ中学校でサッカー部に入ろう!」と思った時には,すでに遅し。中学校のサッカー部の監督がとても体罰がすごい人だったという理由(入学してはじめての体育の授業で同級生が殴られてた.)でサッカー部には入りませんでした.
そんなこともあり,とりあえず体を動かしたかった僕は,なんとなく初心者でバドミントンを始めました.
初年度こそ良い成績を収めることが出来ませんでしたが,中学校3年になった頃には,小さい頃からバドミントンをやっていたチームメイトを差し置いて,部活では一番になっていました.
昔から,何事も負けず嫌いな事もあって,時間を惜しまず練習に明け暮れていました。そして,徐々に結果が出てきました.
それもきっかけとしてか,自分の記憶の中では,中学校2年生の冬ころから部活内の一部から,嫌がらせを受けていました(いじりみたいな?).
その相手達は小学校から一緒だった仲間だったのですが,中2の冬頃から,一緒に帰っていたのに,急に帰り道に逃げられたり,隠れられたり,今思えばくだらない嫌がらせだったのですが,そんなこともきっかけとして,同じ部活内の小学校時代の友達とは距離をおいてしまいました.
昔から,自分は来るもの拒まず,去るもの追わず的な性格だったので,「あ,これ俺はいじられているな.」と思った頃には,自分から,すっと友達を切って,別な友達と仲良くなったりしていました.
※基本的に僕はいじられることが大っ嫌いです。
実は,専門学校時代まで,その中学生時代に僕をいじりはじめた元友達から,時々SNSなどを通じて連絡が来ましたが,基本的に僕のことをいじる人は嫌いなので中学校3年くらいから一切無視をしています.笑
おそらく,イジってた側の人間はなんで無視されてるかがわからないのでしょうね.まぁ,僕は無視し続けましたよ.
また,部内での小学校時代の仲間から嫌がらせを受けた理由の一つに,僕がめちゃくちゃ他校の女子バドミントン部にモテたというのも原因だったかもしれません.笑
僕の部活では男女混合の部活だったのですが,男子部員の6倍くらいの女子部員がいました,確か50〜60人くらい。そんなこともきっかけとして,めちゃくちゃモテました。おそらく人生で一番のピークだったかもしれません.
私は札幌市の白石区という地域に住んでいたのですが,この区の中に7校の中学校がありました. その当時, 白石区内の7校の女子バドミントン部が集まって,私のファンクラブ?親衛隊?を作ってました.そんなこともあり,区内の色々な他校の中学校の女子部員と遊んでました.(今だから言える話し。笑)
中学校3年生の中体連では,個人戦のシングルスで決勝まで行ったのですが,その時はコート全周囲を他校の女学生も含め多くの人たちが観戦に来て応援してくれたことを思い出します.
そんなこともあり,私は中学時代から身近な人(部内の仲間)に嫌われ,遠くの人(他校の人)に好かれる人間でした.
皆さんのイメージをからすると,もしかしたら菅原という人間は人と戯れるのが好きで,どこに行っても,どんちゃん騒ぎをしているようなタイプに見えるかもしれません.しかし,僕はどちらかというと,この中学校時代頃から結構一人で行動をして他校に行ったり,塾の他校の友達とつるむようになっていました.今でもお祭りなどの人混みは嫌いですし,人目はばからず騒ぎ出す人は大嫌いです。
実は33歳になった今でも,どちらかというと僕は「一匹狼」で行動し,あまり定期的に会う友達は存在しないです.
そのため,自分がこれをやりたい!と思ったアイデアも北海道の理学療法士たちに手伝ってもらうことができません.だからこそ,職場の同僚や北海道のPTの皆さんとはあまりつるんだりせず,道外(特に東京や講習会で知り合った仲間)のPT達と飲んだり,色んな仕事をしたりすることが多いのかな,と思います.
物質的なことや精神的なこと、気持ちまで含んだ全体的な関係を相談できる相手の事は私は【親友】と理解しています.例えば,相手(私)に対して不満があってもそれがぶつけ合える関係であったり,自分の家族の相談や悩みなどの自分の恥ずかしいところまで晒し出せる友達を私は友達ではなく【親友】だと思っています。
ですが,周りにはそのような相談ができない【友達】を持つ人もいます.相談ができないのに友達としては付き合う。私にとってはそれは理解ができません.
※先日,私の友から「お前の文章はわかりにいから俺も必要ないのかと思った。」とお叱りを受けたので,私はそのような自分のプライベートな相談や自分の中身をさらけ出せない関係を【抽象的な友達】と呼ぶことにします.(※太字:2019年5月29日改定)
僕は昔から『現実的』で『効率的』な人間で,自分にとってプラスにならなかったり,足を引っ張られるなと感じてしまうような人とは極力関わらないというか,簡単に距離をおいてしまう人間だったんだなと思います.だからこそ未だに【抽象的な友達】の必要性が理解できません.
無駄に【抽象的な友達】を増やすことを好んでいません。皆さんの友達の定義とはなんですか?友達100人出来るかな?本当に友達が100人も必要ですか?と思ってしまいます。
正直,【抽象的な友達】と遊んでいる時間こそがとても無駄な時間に感じてしまい.【抽象的な友達】と遊ぶぐらいだったら,家族と過ごした方がリフレッシュできるし,仕事のアイディアを考えたりしていたほうが自分のためになるな.と未だに感じています.そのかわり,仕事関連の飲み仲間はとても多いです.アパレルだったり,新聞社だったり,テレビ局だったりと‥私はそのような人たちを【仲間】と呼んでいます. 果たして,【抽象的な友達】って必要なのかな??
自分にとっては【抽象的な友達】を100人作るよりも,【親友】が数人いれば良いと思う. たぶん自分がこんな考えに至ったのは,幼い頃から多くの【抽象的な友達】に裏切られてきたからだと思います. 友達を作っては友達から裏切られるのが怖いからじゃないかな?だからこそ,自分から誘ったり関わったりすることに躊躇しているところもあるのかと思います.
話は戻りますが,医療系を志したのは中学時代でした.中学校の時の夢は,僕は”看護師になりたい!”と,いつの間にか思うようになっていました.
僕の名前の“和侑”の『侑:ゆき,ゆう,たすき,たすける』という字は「人を助ける」という意味を持っているとのことで,後から聞けば両親は私がちょっとずつ医療系を志すように種を巻いていたようでした.
高校受験は,自分の志望校への内申点が足りず,ランクを落として,学ランが着れる何気ない近所の高校へと通うこととなりました.まさか,辛い高校生活を送ることになるとはつゆ知らず‥
3.高校時代の僕
❄高校生活の始まり
自分の志望校でもないし,何気なく決めた学校だったので,平凡な高校生活を過ごすかと思っていたのですが,『思い立ったら即行動!!』の私の性格が悪い方向に出てしまったのは,この高校時代が始まりでした.
おそらく,今の私の曲がった『現実的で効率重視』の性格を形成したのはこの『高校時代』だったと思います.
おそらく,同じ中学から上がった友人やファンの子達は僕は高校に進学したら,多くの人たちはバドミントン部に入ると思っていたでしょう.現に,当時のバドミントン部の先輩たちも中学時代から知っている他校の先輩達だったので,入学早々僕の勧誘に来ました.というか,私が高校『白石高校』に入学すると決めたときから,その情報は高校のバドミントン部に伝わっていました.
実はというと,中学時代から始めたバドミントンですが,中学3年の大会では地区大会で優勝し,全市大会でベスト8を取るぐらいまで成長していました.
そんなこんなもあって,高校入学と同時に僕は高校の即戦力として,レギュラーは確約されていました。
しかし,先輩に入部を誘われた僕の返事は
「バドミントンは中学校でやめました。高校からはサッカー部に入ります。」
でした。
レギュラーが確約されているスポーツの面白味の無さもそうだったのですが,サッカー部に入ろうと思った一番の理由は,実はサッカー選手の夢を諦めていなかったのです.しかし,サッカーも一切習ったことなかったので,完全な【初心者🔰】でした.ルールも動き方もわかりません.しかし,私は頑なでした.頭でそう考えてしまったらもう曲がりません.
さっきも書いたのですが,高校への進学は志望校には内申点が届かなかったので,高校は近所で学ランが着れるという理由で選びました.
だから,「高校3年間は何気なく,昔から好きだったサッカーを楽しもうかな!」くらいの事しか考えていませんでした.
私の同じ中学のサッカー部の友達も6名くらい白石高校のサッカー部に入団すると聞き,それに便乗して「僕も入部しよう!」と決め,中学校時代のサッカー部と一緒に入部届を出そうと思ったのですが,その時,衝撃な事実を突きつけられました.
なんと,今年の新一年生のサッカー部の入部人数は50人!!
「50人!?」
その時,私の壮絶な高校時代がスタートしたのでした.
私の進学した,【白石高校】は1学年400人(男女比1:1)だったので,だいたい男子生徒は200人でした。なんと,その中の50人(1/4)がサッカー部に入部したのでした。
男子の1/4がサッカー部に入部????
私は,全くその事実を理解できませんでした.
しかし,その理由がすぐにわかりました…
当時,白石高校は高校年代の大きなサッカーの祭典である,【高校サッカー選手権大会】の全道大会へは,20数年連続出場を決めている程の強豪校で,部活の生徒では,Jリーガーも数名輩出している,道内有数の公立高校の中ではトップ中のトップのサッカー強豪校なのでした.
入部当初のサッカー部の部員は100名弱で,部内のチーム編成でも1軍から8軍まである状態でした.
そんな部活に私は,ルールも動き方もわからないような,サッカー選手として高校デビューの状態で入部し,100名弱の部員のうち一番最下位の選手として入部しました.
私の,壮絶な高校時代が幕を開けたのでした.
❄全国大会出場を目指しているチームで初心者がサッカー高校デビュー
入部当初は練習についていくのがやっとでした.おそらく,引退のその日まで練習についていくのがやっとだったと思います.
私の母校は,公立高校だったため,私立高校を目の敵にするような部活で,ひたすら朝から晩まで走らされる軍隊のような部活でした.また,上下関係も厳しく,制服も学ランの一番上のホックまで止めなければいけないという,本当に軍隊のような監視と肉体労働が合わさった部活でした.そして,練習試合などで公立高校相手に敗戦してしまうと,有無を言わさず連帯責任で坊主になるといった地獄な日々を過ごしていました。(今の時代じゃ大問題!!)
入部して1ケ月が経ち,5月になると50人いた同期のサッカー部も26名と半数にまで減っていました.サッカーの経験者ですら,【練習量と上下関係の厳しさ】についていくことができないほど,苦しい毎日を過ごしました.
僕は,サッカーの技術ではチームのみんなには到底追いつけないので,早朝から学校のグランドに行ったり,部活が終わった夕方も日が沈んだ後も休むことなく,基礎練習に打ち込んでいました.(そんな事で追いつけるわけないのに…今じゃそう思う.)
それを見ていた,同期の「水本君」に声をかけられて仲良くなりました.「水本君」は札幌から遠く離れた「根室市」から白石高校の監督にスカウトされ入部をした,いわゆる【エリート街道】まっしぐらの同級生でした.また,僕の同期のキャプテンになった「船山君」は小学校時代の同級生でした.
実はこの二人,中学校時代に北海道や地域の選抜のメンバーに選ばれるほどの指折りの実力者で,僕が一人でコツコツと自主練をしているのを見かねて,「一緒に練習をしよう!」と声をかけてくれました.
のちにこの二人は北海道の大学サッカーでTV中継の中,大活躍しました.
そして,私の行動を見ていたのは実はこの二人だけではなかったのです.
誰かというと,「部活の監督」でした.
入部してしばらく経つまで気が付かなかったのですが,学校の体育館に体育教官室があり,その教官室に毎朝6時ころから顧問の監督がお仕事をしていたのでした.
当時,私の高校のサッカー部は朝練は自由解放(グランドを勝手に使って各自で練習して良い.来ても来なくてもいい)であったので,僕は下手くそなので毎日行っていたのですが,同期でも5人くらいしか参加していないような朝練でした.
そして,1年生の秋に入ったある日,私は体育の先生だった監督のいる体育教官室に呼ばれました.
そのとき私の私の頭の中は,『終わった.練習で周りの選手の足を引っ張りすぎて足手まといでもうやめてくれと,リストラになったか…』と思っていました.
正直,当時の監督はめっちゃめちゃ怖くて,できるだけ二人っきりにはなりたくない存在でした.そして,部内でも『怒られるのはまだまし,最終的に簡単に干される(何も言われなる).名前すら忘れてしまう.』ような事も知っていたので,監督のところに行くまでの間の授業なんて全然頭に入らず,何言われるんだろう…となんか気に食わないことしちゃったかな?ととてもナーバスな状態でした.
しかし,監督から出た言葉は思ってもいない一言でした.
「菅原,プレーイングマネージャーになってくれ!」
私は,全く意味がわかりませんでした。そもそも「プレーイングマネージャー』ってなに?という感じでした.
プレイングマネジャーといえば,プロ野球などのスポーツでは『選手兼監督』がよく知られていますが,ここで監督が意図したのは『選手兼マネージャー』というものでした。
『マネージャー』といっても,水を汲んだり,タオルを出したり,庶務的な扱いではなく,『チームをマネジメント』の仕事をする役割であった.
いわゆる,部内の戦略や方針を立てたり,管理職として部を影から支える役目.というものでした。
選手と監督首脳陣をつなぐパイプ役.
簡単に言えば,監督やコーチのスパイ役(笑)に任命されました.
実はこの『プレーイングマネージャー』は『キャプテン』以外に各学年に一人任命される「選手の管理職」でした.
プレーイングマネージャーの仕事と言ったら,本当にスパイです.
「誰と誰が付き合っている?」
「誰と誰が仲が悪いんだ?」
など,同期に関わるプライベートを横流しする役目でした.
他には,公式戦の監督会議に監督とともに参加し,ユニフォームの抽選(コイントス)をしたり,公式試合の時に常に監督の後ろに立ち,監督とコーチ間の伝令を任せられたり,いかに監督やコーチを考えていることを透視して,行動に移すという仕事でした.
しかし,この『プレーイングマネージャー』の就任が私の『苦しい高校2年生』を作った事件の始まりでした.
❄地獄の高校2年生時代
それは,高校2年生の夏
僕の所属する,白石高校サッカー部は高校総体の北海道大会で優勝し,インターハイ(全国大会)に出場を決めたのでした.
私は,その当時はまだ到底レギュラーに入るサッカーのレベルではなく,まだまだ4軍か5軍くらいのレベルでした.
しかし,「プレーイングマネージャー」としての仕事ぶりは監督とコーチから絶対的な信頼感を得られており,とても怖かった監督やコーチも私のことを「菅原」と呼び捨てにせず,高校時代にクラスメートの女子から付けられたあだ名「ぶんちゃん:菅原文太から命名」で呼ばれる程,親密な関係になっていました.
結果的に,高校2年生の春から,公式戦へは選手としてではなくマネージャーとしてメンバーに登録されるくらいになっていました.そして,私がプレーイングマネージャーとして,高校総体(インターハイ)の『マネージャー』としてメンバー登録されていました.
大会に登録可能な選手のメンバーは20名のレギュラーとベンチ組そして,1名のマネージャーが全国大会登録が可能となっていました.
一つ上の先輩のプレーイングマネージャーはすでにレギュラーメンバーとしてDFのリーダーを張っていたので,他の3年生ではなく,2年生のプレーイングマネージャーである私が,新二年生の春から全公式戦で務めていました.
そして,苦しい一年が始まったのです.
高校総体北海道予選の優勝を決めた翌日,昼休みに監督から呼び出しがかかりました.
監督「昨日の大会ではマネージャーの業務お疲れ様.ぶんちゃんがマネージャー
に入るとストレスが無いから試合に集中できるよ.それで,早速なんだけ
ど,インターハイでもマネージャーをやってもらいたいんだが,流石に長
崎県で一人でマネージャーをやるのは大変だ.誰か一人補佐をぶんちゃん
が選んで,決まったら教えてくれ。」
その時は,自分が「全国大会に帯同できる!?」という嬉しさが上回り,あまり先のことを考えていなかった.
しかしこれが,事件の始まりだった.
そう.それは同期からの妬みだった.
初心者である私が,中学校や小学校時代に北海道や地域の選抜メンバーに選ばれていた同期の仲間達を差し置いて,全国大会のメンバーに選ばれてしまったからです.
そして,さらには全国大会に出場を決めた記念として,全国大会用のユニフォームやランニングシューズ,ドラムバッグ,移動用の制服など,全国大会出場メンバーに寄付によって支給され,マネージャーに選ばれた私も背番号入りのユニフォームと各種のセットを他の居残り部員を差し置いて頂いてしまいました.
それがきっかけに,複数の選手たちから避けられるようになったのでした.
あまり書きすぎると,『高校サッカー列伝』のタイトルになってしまうので,詳しい話はしませんが,同期の部員たちに認められたのは,自身が最高学年になった3年生の春でした。
❄初心者サッカー部員が最高学年に
毎年,春になるとサッカー部では雪が溶ける前の3月頃『新チームのレギュラーメンバーの埼玉遠征組』と『雪が残る札幌のグランドでの居残り組』に分けて,春のキャンプが始まります.
いわゆる『北海道日本ハムファイターズ』で言えば,「アメリカのアリゾナに行く1軍」と「鎌ヶ谷の練習場で居残りする2軍」に分けられるみたいなものです.
私は埼玉遠征の直前にまた監督から呼び出しがかかりました.
監督「菅原,お前は埼玉遠征には連れて行かない.私は,初心者で始めたお前の
サッカーの実力は認めている.正直ここまでついてこれるとは思っていな
かった.普通だったら埼玉遠征に連れて行くレベルだ.」
「だけど,今回はチームのためにお前を連れて行かない.」
「この学年は,問題児が多すぎる。遠征に行ったら必ず問題が起こるだろ
う.しかし,お前がいたら,そんな問題も未然に防がれてしまう.この学
年の一番の弱いところは自立ができていないことだ.だからこそ,お前は
残ってくれ.」
「そして,埼玉組が遠征から帰ってきたとき,お前ら(2軍)が遠征組に勝
ってくれ.」
監督からそんな言葉を頂いた.選手としてもマネージャーとしても最高な言葉だった.そして,案の定レギュラーメンバーの埼玉県合宿では問題が起こったのであった.そんなことは当たり前だった.いつも選手と監督との間に立ち連絡を取る者がいない.旅行会社の旅行に参加して添乗員さんがいない状態だ.だからこそ,合宿中では,まともな連絡の交換が選手と監督の間で行われなかった.そして,1週間が経ちレギュラーメンバーは埼玉県からの遠征から帰宅したのであった.
埼玉組(1軍)と居残り組(2軍3軍)のリーグ戦が始まった.
そして結果は,私の居た,居残り組2軍の勝利だった(1軍とは2対0)
2軍のメンバーそして,監督やコーチは泣いて喜んだ.今でも覚えている.レギュラーメンバーとの直接対決.まるで漫画のような白熱した試合だった.個の力で言えば,レギュラーメンバーと2軍は天と地の差.
だけど,チームワークとモチベーションだけで勝つことができた.
その後,やっと同期のレギュラー陣のエンジンがかかった.最終学年の公式戦に向け,練習も力強いものとなった.
そして,3年生新チームで望んだ初の公式戦の春季大会
私は,はじめて実力で背番号を勝ち取り,ユニフォームに袖を通したのでした.
全国大会出場を目指す,白石高校でサッカーの初心者が1軍になったのは,この20数年で,はじめてのことだった.
そして,高校2年生の時の全国大会への参加から,わだかまりがあった一部の同期のレギュラーメンバーからの信頼を得ることが出来,関係も修復され,1年間1軍を死守することが出来た.
今でも,サッカー部のメンバーとは交流を継続している.そして,飲み会では決まってこの「埼玉遠征組」対「居残り組」の試合内容の話だった.
身体的な苦しみ以外に,人間の脆さ,社会の形,妬み,色々なことを学んだ『サッカー部での経験』であった.
そして,私は監督やコーチとの密な関係により2つの言葉を教えていただいた.
その2つの言葉は今の私の座右の銘として,常に新しいことに挑戦するときも,社会人として自分の意志を強く持とうと思ったときも意識している言葉である.
それは,
①「集団を隠れ蓑にするな。」
②「非常識の常識」
①「集団を隠れ蓑にするな。」
これは,100名近く部員が在籍すると,何か問題が起こったときに集団を目隠しの道具にして,100人の中に隠れるなと言う時に使っていた言葉だった.私の中では,例えば講習会で質問を求められた時に「大勢いるから誰かが質問してくれるだろう.」「誰も意見を言わないから自分も意見を言わないでおこう.」など,日本人の特徴的な人に合わせると行った行動に対して,集団と同じ行動を取ることが問題だ!自分の意志のもとに行動をしろ!という意味で教わった言葉。
②「非常識の常識」
「非常識を常識」が,みんなが「非常識」だと思っていることも,毎日繰り返しやっているといつの間にかそれは自分たちの中の「常識」に変わる.といった言葉である.高校のサッカー部は尋常じゃないほど走らされました.おそらく,陸上部の練習よりも走らされたと思います.たとえ,それが練習の後でも試合の後でも‥
傍から見れば,きつい練習の後に走力の練習をすることは「非常識」に見える事だけど,僕たちのサッカー部からすれば,それはすでに常識に変わっていました.「今日の走力の練習は何かな〜?」って言うくらい,練習後に走力の練習があることが当たり前になっていたのです.
また,現代の常識は過去の非常識が積み重なったものであることも多いです.だからこそ,「常識は」時代の流れと共に移り変わっていくものです.
今周囲から「お前の行動は非常識だ!」と言われるようなことも,「自分が正しい!」と思っているのであれば,続ければいいと思う.それはいずれ常識に変わると思うから.
僕も13年前にブログを始めた.私でさえ,当時は「ブログを書くことは非常識だ!」と言われました.ですが,今ではブログやSNSの発信が常識なものとなり,60歳を過ぎた大御所PTでさえ,自分の意見をFacebookに載せるようになっている「非常識なことはいずれ常識に変わる可能性がある.」.
だから,僕は集団や偉い人などの意見や反対を押し切ってでも,自分が正しいと思うことは率先して行動することにしている.
↑この2つが今の自分を形成している,【座右の銘】であることは間違いない.
❄理学療法士との出会い
理学療法士との出会いは,高校3年生の春のことだった.
サッカーをきっかけにスポーツに関われる,医療系を目指したいと思っていた.
その時,一番始めに思いついたのが『スポーツドクター』だった.
しかし,僕は頭が悪いにも程があり,ましてはこの高校にいる時点で『医者』を目指すのは皆無に等しかった.
だから,『スポーツドクター』に近い仕事を探して行き着いたのが『理学療法士』だった.決して,自分が理学療法士からリハビリを受けたわけでもなく,ましてや『理学療法士の仕事』すら見たことがなかった.
しかし,自分の中では「理学療法士になる!」と高校3年になった時に決めていました.
しかし,私の時代の理学療法士は北海道でも年間200人くらいしか,入学出来ない時代だった.
また,国公立大学の理学療法学科の滑り止めで専門学校を受ける人がほとんどだったので,入学してみると,私の高校が専門学校の40人の同級生の中で一番偏差値の低い学校でした.
また,僕が高校3年生の時に『オレンジデイズ』というドラマで主役の妻夫木聡さんが『リハビリの学生』の役を演じていたのもあり,私の受験した専門学校の倍率が50倍(2000人中40人が合格)という狭き門でした.
私は,3年生の秋までサッカーを現役としてやっていて,11月の高校サッカー選手権大会のベスト8で破れました.破れた翌週が入試という状態でした.
私は中学校の頃から,英語が嫌いでほとんど勉強をしてきませんでした.高校の入試も英語の勉強を全くせず,他の4教科の点数で望むくらい,出来ませんでした.高校入試の前の日の塾で「Did」の使い方を覚えたという衝撃な事実は今でも覚えています.
だからこそ,私が受験できる理学療法士の養成校が限られていました.
「英語が』受験科目にない学校.北海道で一校だけありました.
しかし,英語がないからと言っても,相手は国公立大学を目指す人達(の滑り止め)だ.なかなか簡単には合格させてもらえない厳しい状態でしたが,私は理科(生物,化学)がとても得意で,その得意科目が入試科目としてあったので,北海道にある『西野学園 札幌リハビリテーション専門学校』に入学することが出来ました.
いよいよ,理学療法の世界に足を踏み入れました.
4.専門学校時代・大学時代の僕
❄ ろくな学生ではなかった僕
専門学校の僕は簡単に言えば,学校では問題児,実習では優等生でした.
専門学校への入学は,中学生,高校生とは違い,顔も名前も知らない人たちが道内各地から,40人集まって来ました.
顔も名前も知らない人達の中では,意外や意外,僕は基本的に人見知りだったので,無口な都会人を演じていました(クラスは10人が札幌,30人が地方から来た人たち).
私の専門学校はというと,「地方の雄」と呼ばれる地方の進学校や国公立大学を目指す札幌の進学校の人たちが滑り止めとして受けるような学校でした.
そのため,偏差値で言えば私の高校がクラスの中で一番最下位でした.しかし,理学療法士の養成校に入ると,解剖や生理学など,誰もが学んだことがない新しい教科が増えるために全員が同じスタートラインに立って授業を受けることが出来ました.
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