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45年ぶり(?)のピアノレッスン①~レッスンを辞めるまで

数ヶ月前にピアノのレッスンを受け始めました。
高校生の時に辞めたので、45年ぶりです。
そこに至る経緯から整理してみました。


最初のピアノレッスンは小学生

鍵盤楽器との出会いは幼稚園の時。YAMAHAの音楽教室(オルガンとエレクトーン)が、通っていた幼稚園で開かれていて、そこに入ったようです。記憶にあるのは、発表会で一番大きなエレクトーンを弾かせて貰ったこと。椅子に上るのが大変でした。
幼稚園にピアノがあったのか、興味はピアノに移り、ピアノも弾くようになりました。
しかし、当時家にあったのはオルガン。家ではそれで練習。サラリーマン家庭では、そう簡単にピアノを買うわけにもいきません。
そこで、頼りは自営業で太っ腹の祖父。小学校の入学祝いだったのか、アップライトピアノを買ってくれたのでした。そして、自宅で、YAMAHAの教室を担当していた小原先生のピアノレッスンを開始。

ピアノの練習をイヤだと思ったことはない

ピアノ、ハマりました。母が「もうやめなさい」と言うくらい弾き続けていたし、バイエルの付録についていた紙の鍵盤で、暇さえあれば練習。
大人になってから、親御さん達が「お子さんにどうやって練習させるか」と悩んでいらしたり、「親に『練習しろ』と言われるのがイヤだった」というのを聞きましたが、私の場合は、一度たりとも親に「練習しろ」と言われたことがありません。今の時代のように、コンクールや音大等専門家を目指す厳しい練習ではなく、好きなように弾かせて貰っていたのがよかったのでしょう。

「ピアノの先生になりたい」と思った小学生時代

関西で始めたピアノ。小学校3年に父の転勤で東京に引っ越し、レッスンに来てくれていたのは、少し厳し目の先生。どこかの音大を出ていらして、姪っ子さんがピアニストでした。会社の社宅(団地)の上の階に同級生が住んでいて同じ先生。同じ日のレッスン。発表会も一緒でした。
私が練習すると、上の階でも練習。発表会の曲も、比べられていて、ちょっと窮屈でしたが、相変わらず私はピアノが楽しみ。発表会も苦痛ではなく、人前で弾くのが嬉しかった。
当時の夢は「ピアノの先生になること」でした。

「音大に行きたい」と言ってみたら

小学校5年に石川県に引っ越し。
そこでは、武蔵野音大ピアノ科卒の綿谷先生のところにレッスンに通いました。その頃になると、中~上級のレベルの曲になり、ますます面白い。口ベタでコミュニケーション、人付き合いが得意ではない方なので、感情表現ができるのはピアノ。一軒家だったこともあり、勉強していない時はピアノを弾いていたように思います。なので、テレビ番組には疎かった。
毎年4月29日(当時は天皇誕生日)には発表会があり、それを目標に頑張るのが年間スケジュール。
ある時、先生同士同士のミニコンクールみたいな催しに出ることになりました。

弾いたのは、
シューベルトの即興曲Op. 90 No. 4

当時は動画もなかったので、クリスマスプレゼントに買ってもらったリリー・クラウスのレコードを何度も聴いて、表現の仕方を真似しました。


生まれて初めて、「人に演奏を採点される」という経験をしたわけですが、何とトップの成績を取り、ご褒美はバッハの平均律の楽譜を貰いました。当時珍しかった輸入版で大喜びしたのを憶えています。そして、先生達のコメントも良く、夢が叶うかもと思ったもの。

ある日、綿谷先生に「将来音大に行きたい」と言ってみました。
当然背中を押してくれるものと思ったら・・・・・

「やめた方がいい」
「本当に大変な世界だから」
「嫌な思いをたくさんする」

今はその理由がわかります。
才能がそこまでなかったのが大きかったのでしょう。
音大に入るのも大変ですが、その中で生き残るのも大変。
才能はもちろん強靭な精神力が求められます。
そして、世の中で活躍できるくらいの才能があればよいですが、そうでなければ、ピアノ教師として食べて行くのも大変です。
綿谷先生は適切な助言を下さったのでした。

しかし、当時の私はその意味があまり理解できず・・・。
ピアノに対する気持ちが少し薄れました。

綿谷先生のお仲間のフルート教室の発表会を伴奏者として手伝ったこともありました。中学生のお姉さん。あまり上手じゃない方だったので、ちょっとイライラしました。今思えば、何と自分勝手。フルート奏者と一緒に音楽を作るということもわかっていなかったのでした。そういう点も含め、私の限界だったのでしょう。

中学生になって、前述のミニコンクールに再度出たのですが、玉砕!
ドビュッシーのアラベスクを弾いたのですが、ドビュッシーの何たるかを勉強することもなく、ただ弾いた💦 先生達からも酷評。
あんな素敵な曲を何も考えずに弾いたとは勿体なかったです。


レッスンが形骸化

中学2年生の時、また引っ越し。今度は東京です。
ピアノの先生を探しました。が、今のようにネットもなく、情報がありません。母が綿谷先生に紹介をお願いしたのかどうかわかりませんが、なかなか見つかりませんでした。
そして、祖母の家の裏で教えていた東京藝大声楽科卒の大林先生に習うことに。

週一回レッスンに行き、帰りに祖母の家でおやつを食べる。当時一人暮らしだった祖母とお喋りするのが楽しみになりました。
しかし、レッスンはというと、ピアノ好きは変わらずで練習もしていましたが、形骸化。レベルはモーツァルトソナタ、ショパンのワルツやノクターンに幻想即興曲、ベートーヴェンソナタ・・・とチャレンジングな曲になっていきましたが、それなりに弾きこなしていました。
しかし、部活のバドミントンと軽音楽(ドラム担当)、そして、進学校の勉強(劣等生でついていけなかったのですが)・・・・と、ピアノに向かう気持ちも時間も減っていきました。

大林先生のところでは、「モーツァルトのトルコ行進曲つきソナタ」「ショパンの幻想即興曲」と発表会で弾きました。

ピアノに対しそんなに熱心でなくても、ある程度のレベルまで弾くことができたのは、子供の頃ハマったおかげで基礎がある程度しっかりしていたからだと思います。少なくとも音のコントロールは難なくできていて、難しいスケールでも音の粒を揃えて弾くことはできていました。友達の中にもピアノを続けている人は何人かいましたが、音のコントロールができていない人がほとんど。なぜできないんだろう?と、当時は不思議に思ったものでした。

https://youtu.be/49M1nxKI6Ow?si=C9Y2iPe0hXscNz69


そして、次年度の発表会の予定の曲、ベートーヴェンの悲愴ソナタ第1楽章の途中でレッスンを辞めました。








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