ナゼ義務教育で五教科を学ぶのだろう

 高校生迄に教えられる五教科を勉強する意味は有るのだろうか。
あの退屈な勉強を何故やらなければいけなかったのだろうか。こんなものが生きていくのに必要なのかと一度は考えたことが有る人は多いだろう。私もよく考えていた。
因みにあの勉強が楽しかった人も少なからずいると思う。然し其れは偶々「できる」からだ。スポーツをやる時にルールもよく分からず、体も思うようにうまく動かない場合に楽しいと感じる人はいないだろう。それと同じで(初めから得意、もしくは段々と得意になったような)上手くなれる素質があった者は段々とレベルアップしていくゲームをクリアしていくかのように、もしくは高得点を取るゲームのようにして、勉強が娯楽化しただけである場合がほとんどであると考える。私自身大学受験のためにしていた勉強はそのような心持ちでやっていて少し楽しかった。
 では何故やらなければいけないのか。 其れは学問の基礎が五教科であるからではないかと私は提言する。
国語を学ぶのは学問を伝承する道具は言語なのだから、それを扱えなければ学ぶことなどまずできない。
数学を学ぶのは数的論理を学ぶためである。命題が与えられてそれを解決する過程を学ぶ。 算数はその数学を学ぶための基礎なのは言うまでもない。
学びとは「ナゼ」から始まるものである。歴史と理科はその「ナゼ」の種を育む。なぜロシアはウクライナに侵攻したのであろうか。そこにはロシアとウクライナの歴史が絡んでいる。また、科学がなかった時代、世の不思議な現象は神や妖怪のせいだと考えられていた。そこから学問は発展しない。
英語に関しては、グローバル化に伴い他言語を習得することのためのものだと言われたことがあるのではないだろうか。
そこに異論は無いが、それを目的とするのであれば完全に方法が間違っている。日本の英語教育はここ最近発生したもので、発展途上であるのは仕方がないのかもしれない。とはいえ現在の英語教育はリーディング特化であり、達成し得る目的は精々「英文で書かれた文献を読むことができる」くらいである。こうなってしまった最大の失敗は「楽に評価しよう」とした事だ。スピーキングの評価は、平等性を担保するのが難しい。今の教育現場は、教育の平等性に重きが置かれている。それの是非はここでは置いておくとして、そもそも評価などしようとしなければ良かったのだ。私は偏差値が決して高くはない高校に通っていたので、リーディング教育すらお粗末なもので、大学受験のために個人でリーディングは習得した。何が言いたいかと言うと、リーディング力をつけたければ、自分で勉強して習得できるのだ。学校でやるべきは折角人が集まっているのだから、兎に角スピーキングをやらせコミニケーションを取らせるべきだろう。何のために馬が合うかもわからない人の集団を一室に集めているのだ。
日本の英語教育の是非に話が脱線してしまったが、畢竟何が言いたいかと言うと、五教科は学問の基礎であるということ。(五教科其々の学ぶ意味については異論をぜひ述べて欲しい。私の意見は未熟なものばかりである。)
そして私は一つ前のnoteに学問は人で在るために修めるのだと提した。故に、五教科は人で在る為に学ぶのである。
私のこの主張に対しても異論をどんどんぶつけて欲しい。
大切なのは、個人個人が自己にとっての「学ぶ意味」を持つことだ。特に教壇に立つ教師には自分なりのそれを持ち、生徒に問いかけながら伝えてほしい。そして学校では学習を始める前に一コマとって学ぶ意味を考えさせるべきなのではないか。訳も理解らずただの義務によってやらされていては、何の身にもならない。
基本的に人が嫌がることを賃金と引き換えに働くのが労働である。
今現在の学校で身に付くのは、そのような労働に耐える胆力だけである。


どの学校でもそうだと言うわけでは無いだろうが、文化祭の出し物や修学旅行の行き先などはホームルームか放課後でやれ。それよりも優先すべきことがあるだろうが。

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