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ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜

こちらは太宰治生誕100周年を記念して作られた作品の中のうちのひとつで、もちろん太宰治のヴィヨンの妻が原作。

太宰治のファンとしては一度は目を通しておきたい。なのだが、実はあまり期待していなかった。というのも、わたしは以前この生誕100周年シリーズの人間失格を見ている。あなたはあの作品を見たことはあるだろうか。

見た事のある人ならわかるだろうが、まあつまらない。クソつまらない。原作読んだのか?と思うほどである。太宰治に興味がなくて、人間失格に対して共感し難いとか読みづらいという感想を持つ人間が作るとああなるのかもしれない。むしろじゃないとどうしてああなるのか分からない。

まあ太宰治の作品、そして太宰治が好きな人にとっては全く魅力のない映画だ。何も描かれていない。内容を書き写しただけの読書感想文みたいな感じ。

ちなみに石原さとみはめちゃくちゃ可愛かった。

まあ前置きが長くなったが、そんな事情なのだ。大体純文学ってすごく映像化しづらいジャンルだと思っている。というかそうであってほしい。

思っていた。

が、

ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜

この作品は違った。


まず登場人物の見た目がイメージ通りなのだ。それだけでなく、キャラクターにきちんと深みがある。

主人公さちの夫、大谷に扮する浅野忠信の過剰に傷付きやすくて卑しくへそ曲りな演技、主人公さちを演じる松たか子の朗らかで疑わない、男には気付かれないほどの強かさを持った女の姿。さちこそ男の求める女に違いないと思うのだがどうにも大谷は窮屈のようで、酒や女ばかりやっている。それなのに仕事もわりにしっかりやっているような感じがするから、自分の弱さをひけらかす姿も様になる。

そして愛人あきちゃん役の広末涼子。ませた文学少女みたいな雰囲気で、到底現実世界ではお目にかかれないアンニュイさ。あんな女の子に好かれた日には応えなければ男じゃない。そして女らしい強気さというか、傲慢さのようなものがある。ちなみにこの映画で一番好きなキャラクターだ。

さらに好みの話をしてしまうと、松たか子演じるさちだが、大谷は自分の家に帰ってくるだろうという妻ならではの姿勢が感じられて、なんと言うか…あきちゃんが椿屋で大谷を待つと言った時も、大谷が別の女と椿屋に来てお金を払った時も、どうってことはない。というか平気で大谷の浮気を指摘する。まあ端的に言うと、嫉妬するよね。

でもって堤真一が演じる闇が深くていやしい性格の弁護士役。人間らしいといえばそうなんだが。好きな女が働いてる店の料理の悪口言うんだからいけ好かない。
高学歴だとあんな捻じ曲がった人ができるのかなと勘違いしてしまったくらいだ。ここまで性格が悪くなければ、このキャラクターは必要なかっただろう。

ちなみに妻夫木聡の演じる若者は本当に好青年だった。原作ではさちをやり込めるのだが、映画ではひたすら爽やかで純真な青年だ。たぶんあんな子はひとりで小料理屋なんかいかないんじゃないか?
しかしこの好青年、全然嘘っぽくない。なんか眩しい。

とまあなんだかんだでほとんどの登場人物を紹介してしまった。
ちょくちょく先に触れてしまっているが、そろそろ内容についても少し書きたいと思う。

まず、太宰のファンでも楽しめるという事をはじめに言っておきたい。

ストーリー自体は原作に全く忠実ということではない、というかヴィヨンの妻ってそもそもが割と短い作品でどんなに丁寧に描いても2時間にはなるまい。

だが、その構想が素晴らしい。太宰の他の作品から少しずつ内容を引用しうまく織り交ぜながら物語に見事な起承転結をつけている。つまり、太宰のファンだからこそ楽しめるのだ。もはやカルトクイズになっている。まあ正直そこまで頑張って詰めなくてもよかったのではないかとも思う。

だが、そういったシーンの数々を太宰の作品を思い出し内容を照らし合わせながら見ていても、主人公のさちの行動に大きく矛盾を感じることはない。原作を知らない人でも独立したひとつの映画として見ることができる。

太宰の作品に出てくる人物や出来事はなかなか個性的で突拍子もないものが多い。この物語のさちだって、夫がお金を返しにくるかもわからないのに、もう心配ないからと言い張って店の手伝いをし始める。この滑稽さをどんな脈絡と表情で体現するのかが肝なのだ。これを失敗すると役者が役の前に出てきてしまって非常におかしなことになるがこのヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜では、かなりうまく行っている。
ここらへんが、太宰治のファンでも楽しめると思った所以だ。

というか、この映画の出来なら、これだけ太宰の持つ空気や色を映像に引っ張り出すことができるなら、こんなに多くの引用は要らなかったのではないかとすら思わせる。そしてまた映画の内容を思い出すと、それらの様々がひとつひとつ効いて味になっていることに気付く。素晴らしい作品である。

ただひとつだけ言いたいのが、椿屋を閉めたあとに大谷がきてさちと一緒に帰るシーンだ。名シーンだった。あそこは原作と同じだが、しかし、あれをやる前に、さちが“あすまた、あのお店へ行けば、夫に逢えるかも知れない”と思っているという心情を伝えてほしかった、いや、そう思っていることにしてほしかった。わたしが映画をよく見る方ではないので伝わってこなかっただけなのかもしれないが…。

あのシーンだけではまるで、さちがただ自分が人気者で浮かれているだけに見える。いや、まあ間違いはないんだけど、でもさちは大谷が好きなのだ。それは伝わる。だからこそ、そこは入れて欲しかった。

結構に長くなってしまったが、この映画の原作と大きな違いは主人公のさちだった。原作ではなかなか可愛らしくて落ち着いた感じが、映画では達観したような雰囲気だ。結末で持っている心情もだいぶ違うし、大西に対する愛の態度は同じでも、中身は全く違うようで面白かった。
文学としては前者のほうが儚くて良いが、この映画は後者でよかった。おかげで変にロマンチックになりすぎなかった。クリスマスおめでとうって言うの?って言う松たか子は本当に素敵だった。


見ているときは浅野忠信の大谷に気を取られていたが、こうして感想をまとめてみるとさちの事が多い。やはり嫉妬なのか…

#ヴィヨンの妻
#映画
#レビュー
#太宰治
#松たか子

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