【短編小説/うつ病/硝子の記憶】
硝子の冷たさ
手のひらで硝子のペンダントを握りしめるたび、指先から体温が奪われていくのがわかる。
その冷たさは、まるで「記憶」という形をした氷の欠片だった。
私がこのペンダントを手にしたのは、就職が決まった日のことだ。
母が、「あなたの未来を照らす光になれば」と言ってくれたプレゼント。
そのとき、母の期待が重くのしかかったことに気づいたのは、ずっと後のことだった。
「未来を照らす光」
その言葉が胸の中で何度も反響するたびに、私は自分を責めるようになった。
「私は光なんて照らせない」と。
忘れたい記憶
ペンダントは、私の過去の記憶を映し出す鏡のようだった。
その中には、忘れたいはずの断片が無数に閉じ込められている。
「最初の夜」
職場で初めて上司に怒られた日、帰り道で泣きながらこのペンダントを握りしめた。
「なんで自分はこんなに無力なんだろう」と、夜道を歩きながら繰り返した言葉は、冷たいペンダントに染み込んでいった気がする。
「窓のない部屋」
数ヶ月後、仕事に行けなくなった日々が始まった。
カーテンを閉め切り、光を遮断した部屋の中で、ペンダントの冷たさだけが私に「ここにいる」と教えてくれた。
それでも、胸にかけた硝子が重たくて、息をするのさえ苦しかった。
「別れの夜」
そして、彼が去った日のこと。
「君といると、僕も暗くなりそうだ」
その言葉を聞いたとき、私は彼の背中を見送ることしかできなかった。
泣きながらペンダントを握りしめたけれど、硝子は何の温もりも返してくれなかった。
海への道
私は、このペンダントを手放そうと決意した。
胸元に触れるたびに冷たく刺さる硝子の記憶。
それを捨てれば、私は前に進めるのだろうか？
波の音が遠くから聞こえる。
その音が、ペンダントの冷たさと共鳴しているようだった。
波打ち際に立つ
足元の砂が冷たい波にさらわれるたび、私は硝子のペンダントを見つめた。
その冷たさは相変わらず、私の中の過去を閉じ込めている。
波が引き、また押し寄せるリズムが、胸の鼓動と不思議と一致する。
「捨てるべきだ」
そう考えながらも、手は硬直し、ペンダントを握りしめたままだ。
目の前に広がる灰色の海が、まるで私を飲み込もうとしているかのように見える。
記憶の波が押し寄せる
ペンダントを手放そうとすると、次々に記憶が押し寄せる。
波の音が、それらを鮮やかに引き出していく。
「母との約束」
ペンダントをもらった日、母は私に言った。
「あなたなら大丈夫。どんな壁も乗り越えられる」
その言葉が、どれだけ私を追い詰めたか、母は知らないだろう。
私は「大丈夫」ではなかった。
ベッドの中で過ごした日々、職場での失敗、彼との別れ——
それらすべてが、母の期待を裏切った証だった。
「失った声」
一番最初に失ったのは、自分の声だった。
「本当は無理なんだ」
そう言いたかった瞬間が何度もあった。
けれど、言葉を飲み込むたび、硝子のペンダントが胸元で冷たく響いた。
その冷たさが私の代わりに言葉を発しているように思えた。
硝子の中の影
波打ち際に立ち続け、私は硝子の中を見つめた。
そこには、自分自身が揺らめいていた。
「どうして捨てられない？」
自分に問いかける声が頭の中で響く。
その時、波が足元をさらい、私のバランスが崩れた。
思わず握っていたペンダントを放しかけた瞬間、
硝子の中に何かが一瞬だけ浮かび上がった。
それは、泣きながら笑っている私だった。
その表情は、いつ、どこで見たものだろう？
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