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アカデミー賞でのロバート・ダウニー・Jr.とエマ・ストーンを人種差別だと断定する愚かさ

強い言葉で釣ってごめんなさい!
今は車椅子と映画館の話題など新しい炎上で忙しそうですが、1週間前のアカデミー賞で人種差別だと炎上した事件を覚えて/知ってますか?

11日に行われたアカデミー賞で『オッペンハイマー』で助演男優賞のロバート・ダウニー・Jr.と『哀れなるものたち』で主演女優賞のエマ・ストーンについて、昨年『Everything Everywhere All at Once』で同賞を受賞しオスカー像を手渡す役を担当するアジア系俳優キー・ホイ・クァンミシェル・ヨーを無視しており人種差別ではないかとの疑惑が浮上し、炎上状態になった。

映画好きとしてもSNSの炎上のあり方としても落ち込み腹が立つ件だったのでこの文章を書く。
まずは何が起こったかを(個人的解釈も入れつつ)まとめ、続いて炎上やアクティビズムとカルチャーについて考える。
細かく章を分けるのでザッとでも読んでもらえたらありがたい。


ロバート・ダウニー・Jr.の場合

通常は、昨年の受賞者からオスカー像を受け取りハグなどしてマイクへ向かう。今年のアカデミー賞では、演技部門で過去に受賞した5人をプレゼンターとして舞台に立たせる形式を2009年以来久々に復活させた。
5人体制であれば全員と挨拶するのが最善だろう。しかし彼はステージに上がった時から一番遠いティム・ロビンスを見ていて、手前で拍手するマハーシャラ・アリ、クリストフ・ヴァルツを素通りし、キー・ホイ・クァンと目を合わせず像を受け取った。
共演経験のあるティム・ロビンスと握手し、一歩戻って共演経験がありロバートの紹介を担当したサム・ロックウェルと拳をぶつける。その際キーがロバートの名が書かれた紙を渡そうとする素振りをするが(ほかの受賞を見ると紙を渡すことは段取りに含まれていないようだ)、ロバートは気付かなかったようで、そのままマイク前へ行った。
2人は退場時には話し、紙はその時に渡された。

僕も正直「ちょっと嫌な感じだな」と思った。腕を広げ「やったぜ」とステージに上がるロバートに対し、小柄な中国系ベトナム人キーが視線が合わないまま像を渡し腕をタッチする姿は「像を渡すスタッフ」という扱いに見えてしまった。
でもロバート・ダウニー・Jr.っていつもそんな感じじゃね?手前2人も挨拶ないし差別と言い切れるのか?偏見も混じってないか?と思い少しクールダウンしたが、Xでは燃えていた。

レイシストだ、失望した、もう見ない…… なかなか強い言葉が多かった。
英語の投稿でもロバート・ダウニー・Jr.を批判し数万いいねがついたものがある。だが「無視してる」「失礼」というレベルが多い。
アメリカのメディアでも取り上げられているが、政治的正しさや差別指摘の本場の割には、失礼だった、品格に欠けるという評価にとどまり、人種差別だと書いたものは見られなかった。
さらに結びは、テイラー・スウィフトがセリーヌ・ディオンを無視したと非難された先月のグラミー賞に似ているが、どちらも後に2人が抱き合う写真が出てファンを安心させました、となっている。

確かにキーとロバートが肩を組む写真などが鎮火に貢献している。しかし日本では、ステージで透明化したのは許せない、後からやっても遅い、きっとスタッフに指示されたからだ、と怒りが止まない人も多いようだ。
米メディアが白人偏重なのではないか、一般視聴者が怒っているのではと、試しにXで「Robert Downey Jr racist」など調べてみると、一番に出てくるのは韓国人の200リポストの投稿だった(その後韓国語でバズっている投稿も見つけたので韓国でも炎上はしているようだ)。アカデミー賞などのアカウントに差別だと英語でリプライしている人もいたが、ほとんどが日本人だった。

エマ・ストーンの場合

ステージに上がると動転した様子で「見て、ドレスが壊れた」と見せながら(そんなことしなくていいよ~)手前のシャーリーズ・セロンとジェシカ・ラングを通り過ぎ、ミシェル・ヨーに話しかけながらオスカー像を受け取ろうとする。
しかしミシェルはジェニファー・ローレンスの方を向くと、像ごとエマを引っ張り誘導している。エマはきょろきょろしながらジェニファーの前に進み、ジェニファーは像が自分の目の前まで来たところで拍手を止め、エマの胸に押し出すように渡しながらおめでとうと言う。その際、サリー・フィールドはジェニファーを引き留めるように袖を引っ張ったがジェニファーは気付かずハグ、エマは続いてサリーともハグ。
正面を向くが「まずい、手前の2人をスルーした」というように振りむき2人と握手、さらにミシェルと改めて握手してマイクに向かった。

スピーチでは動転した様子を見せつつも、まずステージ上の女性たちを称え、次にノミネートされた女優、特に『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』で先住民族にルーツのある俳優として初めてノミネートされ最有力候補だったリリー・グラッドストーンを強調し、賞をシェアしたい、光栄ですと話した。

ミシェル・ヨーとオスカー像の関わる部分を抜き出せば5秒ほどの出来事だ。個人的には初見からミシェルが引っ張ってるよな?と思ったんだけど、これが切り取られ「エマはミシェルから受け取らずわざわざジェニファーの前まで持って行った」という解釈が投稿されたため「エマ・ストーンも差別かよ」と燃えた。

ミシェル・ヨーはインスタでコメントを出した。
「おめでとうエマ!!混乱させたけど、あなたの親友のジェニファーも一緒に、オスカー像を手渡すこの素晴らしい瞬間をシェアしたかったんだ!!彼女は私の親友であるジェイミー・リー・カーティスを思い出させた。いつもお互いのためにそばにいる!!」
https://www.instagram.com/p/C4Y5tIEi2ae/?utm_source=ig_web_copy_link

エマ・ストーン炎上に貢献した投稿とアカウントのいくつかは、その後の展開もあってか、数日後には消されていた。

ほかの出席者は?

親しい人の存在・不在
ミシェル・ヨーに大興奮しハグする様子がバズったアリアナ・グランデは、映画『ウィキッド』での共演者だ。エマ・ストーンとの対比で褒められていたけど、そもそも皆知り合いに会ってはしゃいでるようだ。それが裏目に出たパターンがエマやロバートと考えられる。
全員と丁寧に握手し模範とされた主演男優賞のキリアン・マーフィーは、ロバートやエマと違い、共演者や親しい俳優がいない状態だったという指摘もあった。もともと落ち着いた人が、ほかの受賞者を見た後最終盤の発表で、礼節がマストの環境に置かれたのだ。

白人の大御所俳優だったら?
オスカーを渡す役が白人の大御所俳優だったら同じことをしないはずだ、という投稿も見られた。
では『ホールドオーバーズ』で助演女優賞を受賞した10人目の黒人女性となったダヴァイン・ジョイ・ランドルフはどうだったか。
手前2人を通り過ぎ、昨年の受賞者、白人のベテラン女優ジェイミー・リー・カーティスからさっと受け取って、そのまま隣の黒人女優ルピタ・ニョンゴにハグしている。

この振る舞いはロバートほど尊大な態度には見えないものの、同じくらい丁寧ではない。白人のベテラン女優相手なのに。彼女には、無礼だとの非難の声は上がらなかった。知名度や人気の違いだろうか?彼女が「下位」の黒人でジェイミー・リー・カーティスが白人だからか?なんかいちいち白人黒人とか書くのも馬鹿らしくなってきた。

差別と断定するのは短絡的ではないか

数秒をスマホの画面で見ただけでなにが分かるだろう?情報が増えるほど、数秒の切り抜きで怒ることが愚かに思えてくる。

キーがオスカーを渡す大事な役なのに軽視されたことは悲しいが、ロバートは交流した2人とは関係が深くスルー気味な3人とは関係が浅いこと、紙を渡すという必須ではないアクションで呼吸が合わなかった様子がぱっと見では無視と映ることなど周辺の情報が無視されていることにはやはり疑問を感じる。
エマはスピーチでネイティブアメリカンのリリーへ敬意を示した。エマとジェニファーは親友で、ミシェルは気遣いのつもりだった。エマは以前からパニック障害だと明かしており、受賞スピーチでも言及した。そして受賞前にはミシェルとジェニファーがなにやら話し合う様子、スピーチ直後にはミシェルとエマが抱き合う姿が見られた。
そういった背景情報や空気感があってやっと状況が把握できるんじゃないか。

エマとジェニファーが視線を動かしミシェルを気にかける時間があと0.5秒でも長ければSNS上の反応も違ったと思うが、そのほんの少しが出来なかったことで人種差別と責めるのは過剰だ。

ロバート・ダウニー・Jr.は多少傲慢、エマ・ストーンは落ち着きがなく環境に翻弄され悪印象になってしまった、というところが限界で、差別であると決めつけるのは短絡的だ

ロバート・ダウニー・Jr.については、アジア人を軽視しているマイクロアグレッションと捉えられることにある程度同意する。
失礼を詫びたほうがいいと感じたし、スタッフから注意くらいはされていいかもしれない。しかし「アジア系だから」キーと目を合わせなかったのかは、誰にも分からない。たった数秒で人間の心を見極めるのは不可能だ。
無礼だと言うならともかく、人格や差別意識を決めつけたり、差別だという主張に同調しない者を糾弾するのは異常な現象だと思う

無意識に出てしまうのが人種差別なんだ、と指摘する人もいた。まあそうだなとは思ったけど、だからってその場にいない、画面越しにちょっと見ただけの僕たちがこれは差別だとジャッジできる理由にはならない。

意識より行動が問題と言っても「軽んじられる」という状態はマイクロアグレッションの中でもフィジカルな暴力や不用意な発言と違ってさらに主観的で曖昧、その場にいる人の関係性や状況に左右される。ましてや今回のような数秒で人格を断定しキャリアが終わるほどの重いレッテルを貼っていいとは思えない

腐っても業界最大のセレモニーの生中継で賞をもらって、時間がないなか、ハプニングが起きやすい形式で迎えられる。ほとんどの人間が人生で一度も経験しないようなプレッシャーのかかるシチュエーションだ。
あなたは完璧にこなせるんですか?自分でも説明できないことして後から「なんでああしたんだろう」って後悔したことない?そこまでミスを許さない余裕のなさって何?そういうステージだからこそちゃんとしないとって何?誰でも失敗するでしょう。お前は何もしてないから失敗をしないんじゃないか、だから偉いってわけ?
そんな風に腹が立って、これを書いている。

映画が描いてることって、良い奴だけど悪いことをする、嫌な奴だけど助けてくれる、そんなつもりなかったのに失敗してしまう、といった簡単には割り切れないことじゃないの?
それなのにどうして反射的に単純化して断定できるんだ。映画、好きなんですよね?

止まらない中傷、炎上を形作る有象無象

海外で透明化された経験があると投稿する人も見られ、その心情を尊重する必要を感じたが、「イケてる女子が私を完全スルーして他の子とハイタッチしに行った苦い過去を思い出させたので有罪」という投稿もバズっていたことから分かるように、差別と関係ない個人の体験を投影している人も多いのだと思う。
映画もアカデミー賞も興味ない人が断片だけで寄ってたかって来ることがおかしいし、それを喜んで受け入れるのも愚かだ。「天使」ってやつとかさ、もっともらしいこと言ってるけどただの炎上屋さんですよコレ。
『オッペンハイマー』が原爆開発を描いているから許せないと見てもないのに言う「愛国者」の方々も参加している。「アジア人差別を擁護しちゃう頭ホワイトウォッシュ」と言ってウケてるアカウントを見たら中国、韓国、クルドを差別するツイートのオンパレードだったりする。

そして直後は差別だと強く非難した人たちが、心中を決めつけるのは良くないとの声や、ミシェルが引っ張っているという見方が出て「意識は関係なく行動が問題だ。注目される場だから許されない」と方向修正した様子には、自分の意見を取り下げることができないだけじゃないかと疑ってしまう。

さらに、ミシェル・ヨーが状況を話したというのに、火消しをした、スタッフが裏で手をまわした、業界で生き残るためにフォローをした、と主張する層がかなりいてげっそりする。
なかには「エマストーンの壊れたジッパーど真ん中に持ってくるの本当笑うw」「それに対し自分の腕に光るリシャール・ミルを見せつけててかっこいい」「浮腫んだ背中と対照的な引き締まった腕」「白人と戦うには、こうやって強かにやるのよ、ということ」という反応があり、しかも結構ウケてて、唖然とした。

そんなのもう陰謀論レベルじゃん。批判も元気出すのも悪意ベースか。すごいな。誰もがあんたみたいに性格悪いと思うなよ。
スピーチの第一声で「ドレス壊れてます、”I’m Just Ken”(ライアン・ゴズリングが披露した「バービー」挿入歌)のパフォーマンスの時だと思う」と自分から話し観客を笑わせたんだから、インスタくらいで恥とかないよ。
本人の言葉を無視して見え方に拘り、自分が傷ついたんだとまで主張する厚かましさ、何なんですかね。

ハリウッド映画に出演する俳優で日々差別などについて発信している松崎悠希もこう投稿している。

何かが変だ。ここまで勝手な想像で中傷してるの日本だけじゃない?そのテーマに興味ない人まで「味方」にして、ちょっと意見が異なるだけで言葉尻を捕らえて「敵」にして、いい変化を作れるのだろうか?
自分は関係ない、正しい事しか言っていないと言う人もこの騒ぎの一部だ。本当にこれが世の中をいい方に動かすと信じることができるのか?

拡散する炎上

自分が正しいと信じて疑わず、対立する意見とみなすとすぐに擁護だ、名誉白人だとレッテルを貼り敵に仕立て上げる人が多すぎる。

特に危険性を感じた例を紹介する。
フォロワー2~3万人のXアカウント3,4個、YouTube登録者数11万人を持つコンテンツ考察YouTuberで芸人の大島育宙は、人気ドラマの感想・考察などで人気がある。
彼はエマ・ストーンについては差別と言い切れないとしつつ、ロバート・ダウニー・Jrは「明白に迂闊な差別」とし、「自分が特権的な立場にいること」「授賞式の舞台は差別が根深く残る現実世界を批判するためにお互いの功績を讃える対等な場の表現でもあること」という前提を忘れ仕事の手を抜いた、として批判。

一方映画ジャーナリストの宇野維正はロバートとキーがハグする写真を載せた投稿を引用し「今日のロバート・ダウニーJr.の振る舞いにゴチャゴチャ言ってた人たちは、自分たちの薄っぺらい「傷つきやすさ」と無自覚な攻撃性に気づいたほうがいい」と投稿。
個人的には前述した内容から差別と断定することに疑問を感じていたし、彼がアメリカ中心の政治や経済、戦争を危惧する話題や作品をシェア・批評していたことを知っているので、名誉白人だとか批判がついているのを見て首をかしげた。
(ただ挑発的な物言いが多く、批判やそれに反応した人をブロックしすぎて普段の活動が伝わりにくくなっているとは思う。音楽と映画、社会の繋がりを説明しストリーミング配信作品まで批評する人は希少で才能があると思うからこそ、炎上を控えてほしいと感じている。)

大島はそのアカウントの一つで宇野の投稿のスクリーンショットと共に数十個の投稿で非難し、「ブロックするというのは「これからも差別保全運動やってくぞ!」という宣言だと思います。風化させる気は本人もないみたいなのでみんなでキャンセルしましょう」と呼びかけた。

また「レイシストを積極的に起用し続ける人もまたレイシスト」「ヤバいので仕事を振られないでほしい」と書き、差別疑惑について話した26分のYouTubeの後半でも悪影響で名誉白人的だと非難した。

キャンセルを煽ったと批判されると「大昔の文脈や規模が違う場での発言を掘り起こしてるのではなく「今世界に積極的に差別保全発言をする人は大きな媒体には不向きだ」という話」として問題があるキャンセルカルチャーとは別物と主張した。

自分の意見や言葉の使い方が正しいという前提に立ち、意見を聞き入れたりはせず、自身の過去の投稿と同調する反応を中心にリポストする。また批判しやすいものを選んで誤用・デマ・嘘つきと呼んだり関係ない投稿をスクリーンショットで持ち出して揶揄する。以前間違いを指摘したフォロワーにそうするのを見て驚いたが、今回はさらに危険だと感じた。

本人は否定すると思うが、彼の発言への反応に対するスタンスは敵・味方の二元論に見えてならない。個人的には、3万フォロワー10万人登録者の人物がこのような発言をするのは危うく、ほかの誰より彼の行動のほうがよっぽど文化を毀損し人を攻撃していると思う。このような行動はSNSが憎悪を煽る側面を体現している。差別はなくすべきだが、映画やポップカルチャーの役割は「正しさ」を競うゲームではない。

彼が批判の傍らリポストしていた過去の投稿を紹介する。

良い文章だと思う。本当に。大島さんにも読んでもらいたい(?)。
作品に対しては慎重さと新しい視点を持って発信することもあると感じるし、口が上手く根気強さがあるのは才能なのだから、他人の意見も取り入れ、複雑さを含めて映画やそれに関連する話題を取り扱ってほしい。応援してます。

憎悪を増幅するシステム

私たちが見ているのはその人の一部にすぎない。それを地位、人種でしか見ないのは、自らが人の属性に拘泥していることの表れだ。「差別というほうが差別」「逆差別」というのはクソみたいなネットスラングで論外だが、過剰に傷つきたがっている、くらいには思ってしまう。
アジア人だからみんな当事者だとか、意識していなくても行動が問題だとか、本人は大丈夫でも見ていて不快だとか言うけど、そんなこと言ってたら無限に怒り傷つくことができてしまう。

すべての発言、行動には加害のポテンシャルがある。差別は悪意があるとは限らず無意識に行われるというのであれば、自身の発言も無意識に暴力性を持つと認識するべきではないか。差別など倫理に反する行為をした人には法律も関係なくどこまでも攻撃していいのか?差別の「疑い」のレベルで中傷していいのか?

警察や軍が法的に暴力行使が認められている(政治学でいう暴力装置)ように、 正しさを標榜しようがフォロワー数やインプレッションを持って制裁を呼びかけるのは力であり、加害になりうる。いや、自分が正しいとの確信を除き何もお墨付きがないのだからもっと悪いかもしれない。私刑装置だ。
この働きが見過ごされてきた問題を明るみにする効果も確かにあったが、法や対話をすっ飛ばす弊害も大きい。SNSで正しさをアピールして適合しないと判断した相手を集団で糾弾しようとする流行を文化大革命になぞらえる人が出るのも頷ける。

差別との戦いや政治的正しさを訴えていた政治家やアーティストも、キャンセルやWokeが激化し危険になっていると指摘するようになった。ファン層でも「もう2010年代じゃないんだから時代遅れ」という反応が増している。また、東欧や中東で戦争が勃発して以降は特に、アカデミックな言論の自由が侵害されるということでも批判されている。
大島は「アメリカの空気とか一切知らないのかな」「「キャンセルカルチャー」という言葉を覚えたてで「諸悪の根源」みたいに誤解して忌避してる人はかなり勉強が遅れてるか、かなり強い現状追認思考」と話していたが、むしろこのような主張は現在のカルチャーを知らないか、無視している。

オバマも2019年の時点でこう話している。

この純粋さを重んじる考え、自分は決して妥協しないという態度、自分は常に政治的にウォークだという思い込みは、早々に忘れるべきだ。世界は厄介な状況だ。いくつもの両義性が存在する。真に善い行いをしている人にも欠点はある。君たちが争っている相手にも愛する子供がいるだろうし、君たちと共通することも確実にあるはずだ。
最近は特定の若者がこのカルチャーに毒されていて、ソーシャルメディアを通じてますます過激になっていると感じることがある。つまり、『俺はできるだけ他人を非難して、相手にいい加減にしろと言い放って、世の中を変えるあいつの行いは間違っているとか、あいつは文法すら知らないで喋っているとツイートしたり、ハッシュタグしてやるんだ。世の中のために良いことをした俺は気分が良くなって、あとは傍観者を決め込む。なあ、俺ってものすごくウォークだろう? だってアンタをこれだけ非難したんだから。じゃ、俺はテレビでお気に入りの番組でもみるかな』というような態度だ。
こんなものは行動主義じゃない。こんなやり方で世の中を変えることなどできない。そうやって気に入らないものに石を投げつけているだけなら成功には程遠い。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/32334

それからもう何年も経っているにもかかわらず、日本ではこの感覚は海外のポップカルチャーに特に詳しい人にしか共有されていないようだ。
都合の悪い事は無視するかのように、キャンセルカルチャーという言葉を使う人、警戒する人は差別主義者だトーンポリシングだと責める声が、増していくようですらある。確かに、起源からしても右派が問題を矮小化する際によく聞く言葉であり注意が必要だが、世界には敵と味方しかいないわけじゃない。バランスを考えようというのは差別の加担だろうか?

傷つく事と文化

絶対誰も嫌な思いをしない行動ってあるのか?特に観客に問いかける、新しいものの見方を提供するアート/ポップカルチャーについて、誰も嫌な思いをしない、傷つかないものってあり得るのか?それって、存在価値ありますか? 映画や音楽、その周辺での批判を見ているとそんな疑問が湧き、反射的に何かを裁こうとする人の多さに戸惑う。

創作者や批評家の中には今回の件について懸念を示す人も多くいた。

「切り取られて炎上する部分が一番の話題になって、私がオンタイムに観た印象と全然違って伝わっていく」「他者の内心を決めつける癖はやめた方が良い」「人間に関わる物事は時間をかけないとわからない」「人種差別がアメリカに根強いのは事実だが、その深刻さを知っているなら余計に、その言葉を使うにあたっては慎重になるべき」「「◯◯だと思う」ってだけでなにかを決めつけるのは危うい」「ひとつの事象にはいろんな文脈があって、根強い差別意識の表象と見るのは可能だし、当事者には個別の事情や思いもある。大局的な話をするのと、当て推量で個人攻撃するのは別にしたほうがいい」「正しくありたい、のではなく、正しくないと他人から思われたくない、というさもしい気持ちが、少なからぬ人々の言動をおかしくしている」

まとめ 二項対立と煽動から抜け出したい

アカデミー賞は数あるネタの一つに過ぎない。反射的に怒り、情報が間違っていても冤罪でも訂正がなされず、次から次へ炎上を渡り歩いていく。どうしてこう炎上が多いのか、ここまで白黒思考ばかりなのかとXを眺めてしまう。そうすると常に炎上を追い求めるような人や、その傍らストレスやメンタル不調を呟く人の多さに気付く。
精神科医のYouTubeによると、不安や怒り、認知の歪みに対処するには、事実と解釈、事実と感情を切り分けることが重要らしい。SNSで日々炎上に加わる人はこれができない。起こったことは何か、自分が事実だとしていることは実際には解釈や感じ方じゃないか(「これが正しい」ではなく「こう思う」「こうしてほしい」ではないのか?)と自省する必要があるんだと思う。

自身もSNSが大好きだから認めたくないが、「みんな」「世間」のいる数センチの画面から出て、もっと現実世界の複雑さに向き合う必要がある。生活では得られない情報を得るメディアとして便利だからこれからも使い続けるだろう。でも社会的なイシューに関しては気付きをくれるなんて段階は過ぎて、行き過ぎることも増えた。行き過ぎなんてない?嘘だ。限度がある。

それなりにリベラルな人からも「クレーマーみたい」とか「行き過ぎないようにフェミニズムを~」という言葉が出てきてぎょっとすることがあるが、それは彼・彼女が馬鹿で差別的だからとは言い切れない。ソーシャルメディアでのアクティビズムにはそう思わせる何かが確かにある。完璧を、思い通りを求めるあまり味方を減らしている

数秒や数十字で断罪し、そのテーマに関わりや興味のない人まで動員し、時に人を死なせるシステムは病的だ。この構造が作る過剰な怒りとその扇動者に流されていてはいけない
ものを考えるにはそれなりの時間と情報が必要だ。特に映画などのカルチャーが好きな人には、その複雑さや両義性と対極にあるSNSの騒ぎに反射的に反応せず考えるようにしていきませんかと言いたい
悪意まみれの装置への依存を脱して血の通った関係を探し、物事を指先でなく体で地道に進める人に敬意を持ちたい!

ロバート・ダウニー・Jr.の『オッペンハイマー』後の次回作は韓国の巨匠パク・チャヌクが監督するベトナム戦争下のスパイドラマ『シンパサイザー』だ。悪役複数を一人で演じ、プロデューサーも兼任する。
内心はどうあれ、映像作品ならではの重層的な語りでアメリカの欺瞞とアジア人のアイデンティティーに迫ることを期待し、楽しみに待つ。


最後に『Everything Everywhere All at Once』の監督コンビの一人、ダニエル・クワンの言葉を、14日に公開された講演の動画から引用しよう。

ストーリーはパラドックスを調和させることができる。相反する2つのものを組み合わせるとき、それは実に創造的で美しい創作行為となる。
私たちが映画でやろうとしているもう一つのことは、二項対立を超越することだ。これVSあれという考え方は、現実の世界ではありえないことだ。実際にはもう少し3次元的、4次元的なものなんだ。私たちが惹かれる物語というのは、両方のことが同時に真実となり得るようなことを上手くやってのけるものだ。
誤った二分法(実際には他にも選択肢があるのに、二つの選択肢だけしか考慮しない状況)では不十分で、実は世界はとても複雑だ。それで私たちは、同性愛嫌悪の母親を主演にしたクィアな祝典、ブロックバスターに匹敵するインディーズ映画、平和主義のカンフー映画を作ったらどうなるだろう、と考えた。このような矛盾こそ、映画が本当に輝くところだ。『バービー』のような巨大企業のコマーシャルなのにフェミニストのマニフェストになっている映画も、矛盾を追いかけることでしか生まれない。
そして最後に、他のすべてが失敗した場合、パラドックスの間に美しいシナジーを見出すことができなかった場合、私たちは不確実性に耐えざるを得なくなる。 F・スコット・フィッツジェラルドいわく "一流の知性とは、相反する二つの考え方を同時に心に抱きながら、それぞれの機能を発揮させる能力があることだ" 
私たちの映画が上手くいくかどうかまだ分からないが、それに取り組んでいる。 しかし、多くの美しい物語は、完全に言葉を失わせる。言葉では表現しきれないこともあるからだ。
それが、私たちが探すべき美しい作品だと思う。


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