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いじめを傍観していた私

初めて出会ったイジメ

私が最初にイジメに遭遇したのは、おそらく小学校の3年生くらいだったと思う。

イジメられていたのは私ではなく、転校してきた女の子。障害を持っていた子だった。

クラスでお調子者の男の子がいて、彼は臆することなく、彼女にひどい言葉を日常的に投げかけていた。

ある日、同じクラスのある女の子が、そのお調子者の言動に業を煮やして「やめなさいよ!」と諭したことがあった。
しかしお調子者の彼は反省することもなくその後も同じようにイジメを続けていた。

私にはかわいく映っていた女の子

そして中学生の時、仲の良い親友が、顔がちょっと特徴的な女の子に対してなんの遠慮もなく、ひどいニックネームでバカにしていたことがあった。
私はその女の子を「かわいい」と思っていたのだけれど、親友の言葉と態度に押されて「え?かわいいじゃないか?」とは言えずにいた。

生徒会長のくせに

同じく中学生の時、少数のヤンキー君たちが幅を利かせていた。
たしかあれは中学3年の時、そのヤンキー君のトップに立つ男子生徒が私たちのクラスにやってきて、私の同級生の男の子の髪の毛を使ってもてあそびはじめた。
そのいじめの被害にあった男の子は今にも泣きだしそうな顔で、それでも笑い顔を作っていたのを覚えている。

その時のクラスには確か生徒会長をしていたA君という男子生徒がいて、彼も教室に居合わせていた。
ヤンキー君のイジメが終わって私たちの教室から出て行ったあと、私の近くにいたクラスメイトの女の子が憤って私にこう言ったのを覚えている。

「A君って、こういう時なのに何にも言わないんだよね」と。
彼女の言葉の裏には”生徒会長のくせに”というニュアンスが見て取れた。


傍観者の私

どのケースも私は積極的に「やめろよ!」といじめを止めにかかってはいない。
かといって、誰かにこっそり「ああいう事はやめるべきだ!」と言った覚えもない。

ただ、傍観者としてイジメの光景を眺めていただけだ。

もし異議を表明したら、自分が仲間外れになってしまうのではないか?
あるいは、自分がイジメのターゲットになってしむのではないか?
という恐れが私を傍観者たらしめていたのは間違いない。


イジメの被害にあっている対象となる人は、もしかしたら少数かもしれない。
そして積極的にイジメに加担している人も少数のような気もする。

そして数として一番多いのは実は「傍観者組」なのではないだろうか?

私は今でも「傍観者組」であったことを、目にしてきたイジメを思い出しては自分を責めることがある。

そして自分を責めはしても、この傍観者気質は大人になってもあまり変わっていないように思う。

電車の中での出来事

大人になってから、イジメではないが、私の乗る電車の中で、それも割と私の近くで突然意識を失うようにバタンと倒れてしまった男性がいた。
一瞬誰も動かず、何が起こったのかと驚く。
そして、ちょっと間をおいて、一人二人と近くにいた人が声をかけたり、助け始めた。
私は近くにいながらにして眺めているだけだった。

電車での別の出来事。
お酒に酔って車内で嘔吐してしまった若い男性がいた。近くにいた別の40代くらいの男性の衣服を汚してしまったと記憶している。
するとその衣服を汚されてしまったにもかかわらず、彼は、嘔吐してしまった男性に「誰にでもあることだよ。お互い様。」と声をかけながら介抱しそして、新聞紙で男性と自身についた汚れを取り除いていた。

車内で他に手を貸す人は誰もいなかった。

周りに誰もいない時に、交通事故や、倒れている人に遭遇した時に救急車を呼んだり、手を差し伸べたことはあるのだけれど。

助けるということが、場合によってはとても勇気のいることなんだと思う。
この助けの手を躊躇してしまう自分と、イジメを傍観している自分には何か共通した心理が働いていると思う。

映画「ランボー」

シルベスター・スタローンが演じるランボーという映画、私は多分すべて観たと思う。
アクションが痛快というのもあるとは思うのだけれど、きっと、たった一人ーで多数に立ち向かう姿に魅了されているのだと思う。




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