映画「ジョーカー」が掘り起こしたもの

「怒られているときには笑わない方がいい」

大学時代、教授にお叱りを受けた際の態度にさらにお叱りを受けたときに教授が言った言葉である。

というのも、その日私は修論審議会で修論を見てもらう立場にも関わらずプロジェクターなどの会場設営を全くせず、時間ギリギリに表れたのだ。「いくら修了するための過程の一つとして強制的に受けさせられるものとはいえ、小学生とは違うのだ。見てもらう立場として準備くらいしておくのが常識であろう」というのが周囲の人たちの主張であった。

またこれか…いつもの【空気を読め】ってやつだ…

それに対してテンパった私は「労働基準法では制服への着替えなどの準備も業務とカウントされるので始業時間後にして問題ないのだから~」などといったわけのわからない言い訳をした記憶だけは「またやらかした」という感情と共にはっきり残っている。そうした様子にあきれられて話は終わったが、最後に教授は私に冒頭の注意をしてくれた。

「怒られているときには笑わない方がいい」

もっともなご指摘だが私は笑っていたつもりなどなかったので驚いた。いや、正確に言えば自分にそのような癖があるのは知っていた。昔からいじめられたり、怒られたりしたときにヘラヘラと気持ち悪く笑うことがままあったからだ。しかし、それについては自覚して制御していたつもりであったし、今回はやらかしてしまったことへの後悔や、空気を読めない自分へのいら立ち、空気を読むことを強制してくる理不尽に対する怒り、何度もこういうことを味わったせいで周囲の人を通じてその向こう側にある社会からすら拒絶されているような恐怖、そういった感情がないまぜになってはいたが「笑う」要素などどこにも見当たらないのにどうして笑ってしまったのか。

イギリスの詩人 ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」という本の中に次のような一節がある。

Excess of sorrow laughs. Excess of joy weeps.
悲しみ極まれば笑い、喜び極まれば泣く

私の笑いはまさしくこれであったと思う。「もうやめて!攻撃してこないで!」という悲痛な叫びであり、感情を殺しすぎて怒り方や泣き方が分からなくなってしまった副作用でもある。どうにも辛くなるとほほが引きつって痙攣を起こすのだ。それが他者からは笑っているように見える。実際、本人はこれっぽっちも面白くも楽しくもない。そこにあるのはただただ「早く終わって欲しい」という願いだけだ。

さて、どうして私は今更こんなことを思い出したのだろうか?

それは、先日「ジョーカー」という映画を見たからである。私はアメコミヒーローが好きで、ジョーカーは有名なバットマンに出てくる悪役でありその出自を描いた映画があると聞いて「面白そうだな」と深く考えずレンタルショップで借りてきた。結果は上記の通り、私の心の奥深くに埋めてあったタイムカプセルを掘り起こすに足る衝撃作であった。

あらすじ
突然笑いだす障害(トゥレット症候群の一種とみられる)を持つアーサー・フレックは、認知症の母の介護をしながら大道芸人としてギリギリの二人暮らしをしていた。道を歩けばおやじ狩りに会い、周囲の人には気味悪がられ、誰も彼の言葉には耳を傾けない。そんな中、職を失い、テレビで取り上げられて笑いものにされ、自分の思いもよらない出自を知っていく中で、徐々に彼は壊れていく。

この映画を見て最初に思ったのは「私と同じだ…」ということ。彼が笑いの発作を起こすのは、決まって強いストレスにさらされたときである。おやじ狩りで少年たちにタコ殴りにされては笑い、バスの中で「構わないで」と拒絶されては笑い、舞台に立っては笑い、己の辛く苦しい出自を知っては笑い、テレビで自分の動画が笑いものにされては笑い…そこにあったのは私と同じ「早く終わって欲しい」という願いだった。

「悲しみ極まれば笑う」彼はこの122分の中で何度泣いたことだろう。ついぞ彼の涙に気づくものは現れなかった。

また、彼が笑うのと対比して劇中で彼は何度も笑われている。彼は笑うたびに「何がおかしいんだ!?」と問い詰められるが、こんなにも一生懸命生きているのに「何がおかしいんだ!?」と言いたいのは彼の方であろう。
壊れていった彼はついに【自分の人生は喜劇である】という答えにたどり着き、すべてを諦めた無敵の人と化すことでバットマンの悪役ジョーカーへと変貌する。

この映画には幼き頃のブルース・ウェイン(バットマン)も登場する。彼は映画のラストでジョーカーの影響を受けた通り魔に両親を殺される。このため、ある意味では彼もジョーカーと同じく悲劇を背負ったマイノリティとなるわけだが、この後の人生で彼は社会とつながり自分を取り戻していく。
私が考えるに、元マイノリティが「私もかつては辛かった」と講釈を垂れるようになるのは、すでにマイノリティから脱しているからではないだろうか?社会とつながり孤独が解消された時点でマイノリティ(少数派)ではあってもマイノリティ(孤独)ではないのだ。だからかつての自分を忘れ講釈を垂れるようになる。

余談ではあるが、ジョーカーになる前のアーサーは何度か窓の外をボーっと眺めている。その様子には見おぼえ、というか「やりおぼえ」がある。授業中窓の外を眺めながら、今すぐにでもテロリストが学校を占拠して私もろともいじめっ子を惨殺してくれないだろうか?とか、隕石が降ってきてこの世界が終わらないだろうか?とか考えるときのあれだ。かつての私の延長線上にジョーカーは確かにいたのだ。もしかすると今もいるのかもしれない。

閑話休題。こうして笑いによってゆがめられ、吹っ切れたジョーカーは誰より自由に心の底から笑うようになる。そこに障害で笑い出す自分を必死で抑え込もうとしていたアーサーの姿はない。この後、バットマン本編でジョーカーは何度も例のセリフで問い詰められる「何がおかしいんだ!?」と。この映画でジョーカーの背景を知った者からすればそれはひどく滑稽に見える。

それでもバットマンはがなるんだろう「何がおかしいんだ!?」と

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