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違うことを恐れない

とはいえ、全く違うものは理解不可能ですよね〜
お互いに。
共通点を見つけてからの話ですね。

「日本人は違うことを恐れるけど『違い』はとても大事」
と昔、さすらいの旅の途中で出会ったイタリア人(笑)が言ってました。

イタリア人って、法律とかあまり守らない(精神)らしいですね。
お上が言うことを真に受けないそうです。

昔の大阪人みたい。

なんやワレ!?😎

役割・立場

世の中にはさまざまな役割・立場が存在するじゃないですか。

だからみんな、同じになろうと思っても、なれないんですよね。
最初から、違うんです。
同じ日本人ということだけですね。共通点は。
世界に広げれば、同じ人間だということだけです。

「こんなのムリ〜〜!!できなぁーい!!」と言っても、すんなり出来ちゃう人がいる。「なにそれ簡単じゃーん!」と言っても、難しくて死にかけてる人も実は・・

いるんです!

(↑↑ カビラ口調)

違うからそれぞれのことをやって丸く収まる

みんなが同じことやってたら、日本全国1つのことしか出来ない集合体になってしまうじゃないですか。
それぞれバラバラのことやってるから、いろんなことが可能になるし、それぞれが好きなことをやってれば、バッティングしないでお互いのスキマが埋まるでしょう?

(パイロットが「俺には絶対、郵便配達はムリ!」と拒絶しようと、真っ赤なカブと黒いバッグを見たら興奮する人も当然、いるのですね。だからそんなこと心配しなくても、郵便配達は無くならないのです。)

お互いに違ってても心配することはないのですよね。
同じ人に出会いたければ、探す旅に出ればいいのですよ。そうしたら近い人は見つかるかもしれないけど、全く同じ人には一生出会えないでしょう。

どうせみんな違うのだったら「同じ」にこだわっても中途半端なだけです。

コミュニティの中では「同じ」を要求されがち

学校とかクラスとか、会社とか職場とか、特定のコミュニティの中ではしばしば、同じであることや同じ振る舞いを求められます。
それは秩序を維持してコミュニティをマネジメントするためには、ある程度必要なことかもしれません。

でも、自分が所属するコミュニティは1つと決まっていません。
たいていの人は、生活のなかで2つ以上は所属するコミュニティを持っているのではないでようか?
その複数のコミュニティが、全て同じことを要求するなんてことは、ほとんど無いと思います。それぞれに、それぞれが求める「同じ」があるのです。

違う自分を表現できる場

仮に、あるコミュニティの中で我慢して「同じ」を装っていたとしても、別のコミュニティに行けば「違う」自分を出すことは可能です。

少なくともそういう風に、違う自分を表現できる場があれば、人は救われるのではないでしょうか。

孤立していると感じるときは違う世界を探す

「孤立」はネガテイブな概念ですが、人間は元々みな違うから、お互いに全員が孤立(自立)しているのが自然な姿なんですよね。
だけど実際には、コミュニティからの「孤立」は存在するのです。

なにか、自分の考え方や価値観と、そのコミュニティに流れる空気との間に、食い違いが起きているのでしょう。
それはぶっちゃけ、自分に合わないコミュニティだと言えそうです。

繰り返しますが、本来ならばお互いに孤立(自立)しているのが自然の、ありのままの状態なのです。でも、集団になると何か一定のベクトルが生まれてしまうのです。

それは仕方のないことなので、孤立していると感じたら、受け入れてくれる別のコミュニティを探すことは自然の成り行きです。
そうしないと自分自身を肯定することができなくなるのなら、無理に今の所属コミュニティに自分を縛り付ける必要はないのです。

世界は広いのですから。
世界に向かって自分を解放すればいいのです。

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