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神に名乗る 220920
割に有名な寺と神社を参った。神仏に参ったつもりだったが、神は弱々しく、あるいは存在を感じ取れなかった。
いや、こちらの感受性が鈍いだけだ
だが手を合わせる人々の礼拝の、なんと上滑りなことだろう。きっと私だけではない。みな何にどう祈るか、いまいちわからずにそれでも手を合わせてる。
まるでタスクをこなすように
かくいう私も寺社仏閣の境内の木々の雰囲気やらに惹かれて、土地を回るごとにお参りに行っている。御朱印帳も持ってたけれど、気づけばまるでスタンプラリーのように御朱印をもらっている自分がいて、なんだか嫌気がさしてやめた。
手を合わせるときかつては祈っていた。
合格しますように、ばあちゃんが元気になりますように、明日晴れますように、、、
今は祈る自分もいない。
信仰心がないとか、神を否定したとか、そういうのではなく、なんとなく祈れないでいる。
どこかで祈るときはまず名乗りあげるものだと習った。だから今は祈ることもなく名乗っている。
(岐阜生まれ、九州の〇〇町に住む〇〇というものです…)
これでいいのかわからないけれど
もう何に手を合わせてるかもわからないけれど
僕は鳥居をくぐる時は帽子を脱いで一礼するし、境内の真ん中は神の通り道とされてるらしいので歩かない。賽銭は手持ちがあれば放るし
なければそのまま手を合わせる。
神や仏が見える時代に生まれたかった。民俗学をやっていて妖怪が生きていた時代の話をよく聞く。そういう時代が羨ましい。
いま僕に見えるのは立派な木造建築とその周囲の木々のみであり、そこに神仏や木の精霊は感じとれない。森のなかの小さな神社にこそ感じはするが少なくとも有名とされる大きな寺社仏閣、あそこには人の欲の塊みたいなものしか見えないのだ。
そして無欲のふりして我を名乗る自分こそが欲深き人間であることも知っている。知っているから少し後ろめたく、その後ろめたさを隠すために手を祈りながら心の中で名乗る。
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