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ファービーのねだり方

あれは、保育園の時かな?
それとも小学校低学年?

とにかく、ある時ファービーが流行った。
喋るお人形!画期的だった。
そして、とても欲しくなった。

母に頼んで、おもちゃ屋さんに連れていって貰う。
様々な色のファービーが目をクリクリさせながらずらーっと並んでいて、その中でデモ機のファービー数匹が、
「ファービー、お腹空いたー」とか
「ファービー、眠たいー」とか
ひたすらに喋っていて、本当に生きているみたいだった。


母は、
「一回帰って本当に欲しいか考えてみて、また今度買いに来ようか?」と言った。

一度は納得して、車内に戻ったけれど、、
どうしても、今日、欲しくなった。

「やっぱり欲しいから今日買いたい」と言うと、微妙な反応だった母に、私は何て言ったのか覚えている。

「兄弟居なくて寂しいから、
ファービーが欲しい!」

私はその時本心ではない言葉を言った、という気持ちが強かったので、その瞬間のことをとても強烈に覚えているんだと思う。

それは、その前後で出会った大人達に何度か言われた言葉の受け売りだった。

「一人っ子?可哀想。
兄弟居なくて、寂しいでしょう。」
と。

正直、寂しい自覚は全く無かった。
だって、兄弟が居ない生活しか知らなかったから。
だって、祖父母に毎日可愛がられていたから。

でも、自分は“可哀想”なんだ!
という意識は少し持つようになった。

それで、秘密兵器みたいにその言葉を使って、ファービーをねだった。

夕方と夜の間で、もう暗くなった雨の中、
帰り道をおもちゃ屋さんに再びUターンした母。

後部座席から、言葉数少なく重たそうにハンドルを握り直す母を見て、この言葉は母を傷つける要素もあることに改めて気付いた。

ファービーがレジ袋に入れられるのを見ながら、嬉しさと同じくらい後ろめたさが残った。



ところで、我が家でファービーは割りと早めに、ただのぬいぐるみになった。

、というのも、家族で夕食を食べていると、隣のリビングで
「ファービー、お腹空いたー、ファービー、お腹空いたー」と繰り返して、くちばしをツンツンさせてあげないといけなかったりして、母がうるさくて、落ち着かない、ということで、一旦電池を抜いたのだ。

そして、一旦電池を抜いてしまうと、飽き気味だった私も電池を入れ直すことはなく、、ファービーは他のぬいぐるみたちと一緒に静かに並ぶ一体になった。

ファービーには本当に悪いのだけど、、、
母が「うるさいわねー」と電池を抜くところを見て、何故だか少し安心した。

ファービーがただのぬいぐるみになって、私は例の罪悪感から解放される気がしたんだと思う。

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