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13日目 御油宿~池鯉鮒宿

昨夜は豊橋のホテルに宿泊したが、朝6時前に雨音で起きた。幸いすぐ止むようだ。今日も元気に歩きます。まずは御油宿の紹介から。

㉟御油宿(愛知県豊川市)

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御油宿は一見こじんまりとしているが、本陣が最も多いときで4軒もあったそうだ。江戸時代においては今切の渡し、新居関所を避けて浜名湖北岸を迂回する姫街道の分岐点にあたる交通の要衝。また御油宿~赤坂宿間の松並木が旧東海道で現存する中では最も美しいとされている。

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愛知県を代表する調味料メーカー、イチビキの工場がある。名前は知ってたけど関東じゃ見たことないなぁ。醤油はヤマサ、ヒゲタ、味噌はマルコメ派です。

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昨日から道幅がとにかく狭い。江戸時代から一切拡張していないのではないか?

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さて、ここからが松並木。

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全長600mくらいあったかな。気持ちよく歩くことができた。生活道路にもなっているため、休日の朝でも自動車はちょいちょい通る。歩道は一応あるが気をつけねば。

そういえば戦時中にマツの油を航空機燃料にする計画があったことは有名だが、それが実用化されていたら旧東海道の松並木は消え去っていたかもなぁ。そんなことを思いながら松並木を抜けていった。

松並木を抜けるともうそこには赤坂宿。とても近い。距離にして2kmない。

㊱赤坂宿(愛知県豊川市)

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赤坂宿は御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱え、非常に活気のある宿場だったようだ。そしてこのあたりは坂がちな地形なため、東海道線は勾配のゆるい蒲郡経由となり、明治期の繁栄からは取り残される形となった。取り残されたからこそ雰囲気は残ったとも言えるが。

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相変わらず道幅が狭い。

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旅籠、大橋屋。ほんの数年前までは実際に宿泊することができたらしい。今は無料で中を見学できるようだ。

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脇本陣の跡地は広場になっていた。間口はそうでもないが奥行きがかなりあるね。どこの宿場もこんな感じだ。

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宿場の端の方。ここがいちばん狭かった。自動車1台ぴったりくらいの幅しかない。

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国道1号線と合流する。さらに右には名鉄。天気がちょいと怪しい。

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そして岡崎市へ突入。しかし次の宿場、藤川宿までは10kmほどある。御油宿~赤坂宿が2kmもない異常な短さだったのもあってかなり長く感じる。宿場間が長いので当然間の宿もあったが、特に見どころもなく通過していった。

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この眼科、慶應閥だな。

その後も道一本それたと思ったら国道1号線に戻ったりを繰り返す。そうこうしているうちに藤川宿に到着。

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住宅地になっているが、入り口だけは雰囲気を残している。

㊲藤川宿(愛知県岡崎市)

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藤川宿は愛知県岡崎市の東側に位置する。中世においては現在よりも北側に位置していたらしいが、戦国時代末期に現在の地に移ったらしい。現在は国道1号線沿いに道の駅藤川宿が整備されている。

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やはり道幅は狭い。昨日からずっとこの調子である。

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本陣跡。隣に岡崎宿があることから宿場全体として規模は小さめである。

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名鉄が通っていること以外は江戸時代からさほど景色も変わっていないように思える。資料館等もあったが、今回はスルーした。

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次の宿場、岡崎宿を目指す。松並木が続くのは良いが歩道がないのが少し怖い。この松並木は1kmの間にクロマツが約90本立ち並び、2020年に愛知県指定文化財に指定されたらしい。

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ようやく歩道と出会えた。遠くに見えるは岡崎市街地。御油宿から落ち着いた雰囲気の街が続いていたため、大きな街が見えると気分も上がる。

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乙川という川を越える。なぜか馬がいた。こっち向いてくれなかった。残念。

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白っぽい建物があった。どうやらラブホテルらしい。お城の形をしたラブホテルは各地で見かけるが、和風の城は初めて見たぞ。

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岡崎宿の東木戸。これより先が岡崎宿だが、二十七曲りといって他の宿場より複雑に入り組んでおり、中心部までは距離があるように感じる。

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オレンジの線が旧東海道。ここまで折れ曲がっているのは岡崎宿だけだ。ともかく岡崎宿に到着。

㊳岡崎宿(愛知県岡崎市)

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岡崎宿は現在の岡崎市の中心部に位置する。中世から宿場町、また岡崎城の城下町として栄えた。徳川家康の生誕地ということもあり、江戸時代に入ってからは別格の扱いを受けるようになったという。

現在の岡崎市は名古屋市や豊田市のベッドタウンとしての役割を果たし、現在では愛知県内で3番目に人口の多い自治体である。また豊田市のトヨタ自動車の関連産業から発展した製造業が盛んである。

またこちらも戦禍や戦後の人口増加の影響があって、当時の雰囲気をそのまま残すものはかなり少なかった。

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先述のとおり厄介な二十七曲りであるが、曲がり角にはこのような案内が出ており、迷うことはなかった。しかし直線で歩けばすぐ抜けられるのに抜けられないというフラストレーションは溜まる。

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岡崎城。立ち寄りたかったが、昨日各地に立ち寄りまくった結果到着が遅くなってしまったのと、本日は池鯉鮒宿まで早いうちにたどり着きたかったのでスルー。

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岡崎市八帖町名物の八丁味噌。味噌煮込みうどん食べたいなぁ。

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矢作橋を渡る。この橋には豊臣秀吉の逸話がある。日吉丸(幼い頃の秀吉)が12歳のときに奉公先から逃げ出して矢作橋の上で寝ていたところ、通りかかった野武士が頭を蹴った。日吉丸はこれを咎めて「侘びていけ!」と凄んだ。その度胸の大きさが買われて手下となり、武士としての道を歩むことになったという。すげえ。

と書いたは良いものの、この矢作橋の完成は1601年でとうに秀吉は亡くなっており、作り話とされているとかなんとか。なんでこんな話が家康のお膝元の岡崎で生まれたんだ?ちなみこの話を基にしたと思われるモニュメントも設置されていた。反対側に渡るのが面倒だったので撮らなかったが。

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安城市に入った。三河安城のイメージしかない。

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これトヨタのパクリだろ。

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このあたりに海軍の飛行場があったらしい。予科練の碑もあった。

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永安寺というお寺にあった雲竜の松。垂直に伸びずに途中から分岐して伸びている姿が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれているとか。樹齢は推定350年だとさ。

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幹は太いとか力強いなんてもんじゃないな。ちょうどよい形容詞が思い浮かばない。

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松並木を通り過ぎる。今日の気温は20℃あるかないかという具合で、長く歩いていても疲れを感じにくい。汗もそこまでかいていない。とても心地よい。

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そして池鯉鮒宿へ。

㊴池鯉鮒宿(愛知県知立市)

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池鯉鮒宿は現在の知立市の中心に位置する。今と昔で読みは変わらないが、漢字表記がまったく異なっている。知立神社の御手洗池に多くの鯉や鮒がいたことから「池鯉鮒」の文字を当てた。その他にも馬市があったりと、生き物に縁のある土地らしい。現在では名古屋市のベッドタウンとしての側面が強いようだ。

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池鯉鮒宿前後にはこのような案内板があって、道に迷うことはなさそうだ。跡地の碑は各所にあるものの、遺構はほとんど残っていないようである。街として発展する中で消えてしまったのだろう。

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ここにお城があったらしい。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの直前に、今川義元がここ知立城に本陣を置いたという。宿場の中心にあるため、城はその後休憩所としても利用されたが、1699年(元禄12年)の地震で倒壊してしまったそうだ。諸行無常の響きあり。

時刻は15時過ぎで、時間的にはもう少し歩ける気がしなくもないが、すでに40km近く歩いているため、本日はここまで。総歩行距離は39.8kmであった。

以上


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