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18日目 水口宿~草津宿

京都もかなり近づいたが、三重県から先は宿場間の距離もだいぶ空き、また旧宿場に現在はホテルもなにもないパターンが増えるため、旅程が非常に組みにくい。流石に50kmを1日で進むのは厳しいため、2日に分けて進む。

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本日のスタート地点、水口宿の最寄り駅の近江鉄道水口石橋駅。近江鉄道は西武グループ企業のためか、西武鉄道のお古の車両を使っている。学生時代は西武線沿線に住んでいたので非常に懐かしい感じがした。

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滋賀名物の飛び出し坊やも東海道バージョンとなっている。飛び出し弥次喜多?

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ちなみにオーソドックスな飛び出し坊やがこちら。滋賀県内の至るところで見られた。

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住宅地を抜けて両脇に水田を眺めるようになる。江戸時代は道の両端は土手になり松並木があったようだ。そういえば三重県以降松並木をあまり目にしていないような気がする。

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あってもせいぜい数本で、並木と名乗るには寂しいものばかりだ。マツは食害もあったりして保存が大変らしい。

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木戸があると思ったら、ここは横田渡というそうだ。架橋が許されなかったために江戸時代は船で行き来していたという。

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巨大な常夜灯。案内板によると、文政5年(1822)に増加する旅人の目印となるよう、地元や京都・大坂を中心に寄進によって建てられたもの。高さは10.5mあり、東海道中でも最大級の常夜灯だそうだ。うんデカイわ。

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そして湖南市に突入。

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野洲川を渡る。当時は渡し船、現在は立派な横田橋。

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あのコンクリート製の基礎はなんだろうか。あちらにも橋があったのだろうか。

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大沙川隧道。大沙川は東海道の上を流れる天井川(川底が周辺よりも高い位置にある川)で、奈良時代に寺院の造立が流行した際、このあたりの木々が切り倒されて禿山となり、大雨のごとに土砂が流れ、川底が上がり天井川になったらしい。このトンネルは明治17年に滋賀県下最初の道路トンネルとして建設された。アーチ状に積まれた石が特徴的。

そんなこんなで江戸から明治の雰囲気を感じつつ、石部宿に到着。淡々と歩いているが15kmほど離れているので結構時間はかかる。

51 石部宿(滋賀県湖南市)

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丸囲い文字って50までしか出せないんだな…。

石部宿は東海道51番目の宿場で、京都を出発した旅人がここで最初の宿泊をすることが多かったそうだ。現在は湖南市に属し、湖南市全体としては隣接する栗東市の栗東ICと竜王町の竜王ICを活用して湖南工業団地が造成され、大手メーカーの工場を多く有している。

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しかし旧街道沿いはあまり風情や街並みは残っていない。

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碑や案内板はあるがそれくらいである。完全に住宅地となっているようでホテルもないため、現在は京都を出発しても手前の草津宿で1泊せざるを得ないのではないか。さすがに京都から水口宿を1日で歩くのは辛いだろう。

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道が鉤手に折れ曲がっている。ここが石部宿の西端だ。

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雰囲気を残せていない分、案内を充実させているのだろうか。これはかなりお金と手間がかかってそうだ。

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田畑とともに進む。この風景は江戸時代からそのまんまだろうなぁ。

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東海道、中仙道(中山道)と書かれた道標があるが、分岐点はここではなく草津宿じゃないのか?なぜこんなところに。

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六地蔵付近で突如歴史的建造物が現れた。江戸時代初期から製薬・販売で知られた商家の大角家の邸宅らしい。大角家は和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄え、草津宿と石部宿の間の宿としての役割も担ったとか。すごいな。和中散の名は、徳川家康が腹痛を起こした際にこの薬を献じたところ、たちまち腹痛が治まったので家康直々名付けたとかなんとか。春秋の特別公開期間以外は非公開で、また公開期間も要予約。

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遠くに街が見える。草津市の中心部だろう。

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ほどなく草津市に突入。「草津」という地名を聞くと関東圏の人は温泉地である群馬県草津町を思い浮かべ、関西圏の人は滋賀県草津市を思い浮かべるのではないだろうか。市章は草冠を模したものかな?

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草津宿はすぐそこだ。

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現在は広場となっているが、ここも昔は天井川である草津川が流れていたらしい。草津みたいな大きな街に天井川があると、大雨で氾濫したらそれはもうひどい被害が生じたことだろう。

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そして草津宿に到着。

52 草津宿(滋賀県草津市)

52.草津

草津宿は東海道52番目の宿場であるとともに、中山道69番目の宿場。日本橋から南北に走る街道の合流地点で、古くから交通の要衝として賑わった。戦国時代には現在の大津市にある瀬田の唐橋を押さえるために、大津・草津を支配下に置くことが重要視された。

現在の草津市も鉄道では東海道線、草津線が走り、道路では国道1号線、名神高速道路、新名神高速道路が通るなど、変わらず交通の要衝である。また京都まで20分、大阪まで1時間弱という地の利を活かしてベッドタウンの役割も担っており、人口も年々増加している。

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こちらが東海道と中山道との分岐点。

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右 東海道いせみち(伊勢路)、左 中仙道美のぢ(美濃路)

こちらの道標は文化13年(1816年)に全国の人々の寄進によって建立されたもので、高さは4.45mある立派なものだ。横田橋でも似たような話があったな。

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このトンネルから先が中山道。当時はトンネルはなく、土手を登り天井川を渡って中山道へ向かっていたという。

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謎オブジェ。

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草津宿では本陣の見学ができる。東海道で本陣の見学ができるのは草津宿と二川宿だけだ。中の展示もかなり充実していた。部屋の撮影はOKだが展示物はNGとのことだったが、面倒だったので撮影はやめた。

草津宿には本陣が2軒あったそうだ。交通の要衝と言われる割には数が少ないように感じたが、京都三条大橋とは25kmしか離れていないことから、ここで1泊するならば京都まで(江戸方面に進むなら石部宿、守山宿まで)進んでしまったのだろう。

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ホテルにチェックインするとケネディが出迎えてくれた。東海道を歩いていたはずなのに急に雰囲気変わったな。

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草津名物うばが餅をいただく。永禄年間(1558~1569年)に生まれた。近江源氏佐々木義賢は時の織田信長に滅ぼされたが、その中に3歳になる曾孫がおり、義賢は滅ぼされた際に乳母に曾孫を託す。その後郷里草津に戻った乳母は餅を作っては売り、曾孫の養育費とした。それがいつしか姥が餅と呼ばれるようになり、草津名物となったらしい。

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部屋が高層階だったので琵琶湖が見えた。長く歩いてきた東海道も明日で終わりである。そんな事を考えながら床に就いた。本日の総歩行距離は29.5km。

以上

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