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15日目 桑名宿~庄野宿

さて本日は桑名宿からスタート。亀山宿まで行ければ理想的だが、おそらく無理だと思うので、庄野宿を目指す。

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この道幅は当時のままだろう。朝早いため人通りもなく、気持ちよく歩くことができた。昔風の建築物等はない。

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伊勢神宮へ行く人も桑名を通ったそうだ。やはり分岐点にはヒト・モノが集まって自然と栄えるものなんだなぁ。

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突如現れる天武天皇の文字。

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天武天皇社。672年の壬申の乱の際に大海人皇子(天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなんで建立されたという。天武天皇を主神として御祀りしている全国唯一の神社。確かに他じゃ聞いたことない。

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遠くに四日市のコンビナートらしきものが見える。巨大建造物ってなんだかワクワクするんだよな。ダムとか好き。

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おそらく当時の道幅そのまんま。昭和中期の標準的な家屋が立ち並ぶ。江戸時代も似たような感じだったのかな。

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町屋川を渡ると桑名市を抜けて朝日町へ。てっきり桑名市の次が四日市市だと思っていた。どちらかの市に吸収されてもおかしくなさそうだが、調べてみると2005年~2010年にかけての人口増加率が全国1位だったらしく、単独でも十分やっていけるのだろう。

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道は新しくなったが幅は狭いまま。

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今度は朝明川を渡る。ここを超えると四日市市に突入。朝日町は30分ほどで抜けてしまった。どうやら三重県の自治体で面積が最小らしい。それなら納得。

四日市市には入ったが、宿場まではまだまだ遠い。桑名宿から四日市宿は4里近く離れているためなかなかしんどい。これほど離れていると旅人は間の宿の茶屋で休憩したであろうが、現代においては跡形もない。ただ歩き続けるのみ。

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珍しいものがあった。踏切上で鉄道が立体交差している。

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立派な常夜灯がある。三重県内では幕末の御蔭参り(伊勢神宮への集団参詣)大流行の際に設置されたものが多いそうで、それが現在でも残っているという。

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遠くに見えていたコンビナートもかなり近くなってきた。四日市宿はすぐそこだ。

㊸四日市宿(三重県四日市市)

43.四日市

四日市宿は現在の三重県四日市市に位置する。江戸時代は幕府直轄の天領であり、また東海道と伊勢神宮に至る伊勢街道との分岐点であったことから、人口も東海道の宿場の中では多い方だったらしい。おなじみ天保14年(1843年)の記録だと7,114人と記されている。

現在の四日市市は中京工業地帯の代表的な工業都市であり、近隣自治体から多くの人が働きに出てくる。人口も三重県内トップの30万人余り。四日市コンビナートから発生した大気汚染による公害、四日市ぜんそくの悪名で知られてしまっているが、現在はそれらを克服した環境問題推進都市だそうだ。海軍工廠があったためか、戦時中は空襲の被害をかなり受け、今では宿場の雰囲気はほぼ見られない。

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幅の広い道路は戦禍からの復興のしるしだ。

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桑名宿の商店街は人もまばらであったが、四日市宿ではそれなりに人がいた(写真は人がいないタイミングを見計らって撮影)。また人々の発音やアクセントが関西弁に変わったことに気づいた。近鉄四日市駅前には百貨店があり、自動車の往来も激しい。まさに三重県の代表都市の様相である。

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またしても狭い道。この後もこの道幅が続く。

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そしてこの道幅なのに交通量が多いのなんの。この場所で5分くらい眺めていたが、行き違うのにやっとの様子でほとんど進まない。なぜこの道を使うのか。

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日永の追分。ここが東海道と伊勢街道の分岐点である。現在でも交通の要衝らしく、交通量は多いように見えた。追分付近でほんの少しだけ国道1号線と合流するも、またもや狭い旧道へと戻る。

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四日市あすなろう鉄道の終点、内部駅。車体がなんだか細長いように見えるがそのとおりで、四日市あすなろう鉄道はナローゲージと呼ばれる線路幅が狭いレア路線。在来線の多くは狭軌(線路幅が1067ミリ)で、新幹線や一部私鉄は標準軌(線路幅が1435ミリ)を採用している。それに対してナローゲージは線路幅が762ミリと、標準軌の半分ほどの線路幅である。駅にはこのレア路線目当てと思われる乗客が何名かいた。

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杖衝坂。なんだか不穏な名前だ。杖をつくほど急な坂、ということだろうか。

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名前のとおり急坂だった。しかしさほど長くないため苦しくはない。この杖衝坂はヤマトタケルが東征の帰りに極度の疲労のため、腰の剣を杖にして登ったと言われているそうだ。また、松尾芭蕉がこの坂を馬に乗って越そうとしたところ、あまりに急なために落馬してしまい下記の俳句を詠み、それが句碑となって残っている。

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整備されているからか、落馬するほどの急坂には感じなかった。小夜の中山には遠く及ばない。

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ちょっとした広場だが、ここが東海道101番目の一里塚跡。しまった100番目を見逃したか。400km以上歩いたことに感嘆すると同時に、京都、三条大橋まで残り100kmないことに気づく。

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その後国道1号線と合流。うん、やはり400km以上歩いたんだな。

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ほどなく鈴鹿市に突入。実はこの旅で三重県に人生で初めて足を踏み入れたので、何もかもが新鮮で楽しい。

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そしてまた旧道の狭い道に入る。このあたりが石薬師宿の入り口らしい。

㊹石薬師宿(三重県鈴鹿市)

44.石薬師

石薬師宿は宿場ではあるものの、休憩地としての役割が強く、宿泊者は少なかったので経営は苦しかったそうだ。そもそも宿場としての成り立ちも四日市宿と亀山宿の距離が長すぎるために設けられたというもので、設置も元和2年(1616年)と遅めである。

現在も小規模な集落といった印象が強い。歌人佐佐木信綱がこの地の生まれだそうで、かの作品の碑が至るところで見られた。

本陣の跡もあるが現在は個人宅となっていた。名前を見るに江戸時代からずっとそこにその一族が住んでいるみたいだ。

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宿場の名前の由来となった石薬師寺。創建は奈良時代らしい。

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紅葉にはまだ少し早かったようだ。真っ赤に染まったタイミングで見てみたい。

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こんな農道にも案内板が立てられている。本当にありがたいことだ。その後は特に何事もなく庄野宿に到着。

㊺庄野宿(三重県鈴鹿市)

45.庄野

庄野宿は東海道45番目の宿場。隣の石薬師宿とは3km弱しか離れていない。また石薬師宿と同様に比較的小規模な宿場で、経営も非常に苦しい状態が続いたそうだ。それくらいしか書けることがなかった…。

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見どころはこの庄野宿資料館である。江戸時代に油問屋を営んでいた旧小林家の住宅を資料館にしている。入館無料でガイドの方が親切に内部を紹介してくれた。内部は撮影禁止のため画像はないが、現存する高札が展示してあった。旧東海道で江戸時代から残るものはたいていが19世紀のもの、例えば文政、天保、嘉永といったものが多かったが、ここの高札には天和(1681年~1684年)と書かれていた。17世紀のものは非常に貴重である。

いつもより文量が少なめだが、今回はここまで。総歩行距離は37.7kmであった。

以上

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