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シンガポール・エコシステムの歩き方:大学編

シンガポール教育機関×イノベーションの可能性

シンガポールが従来の優遇税制による大企業誘致に加えて、政策的にスタートアップに力を入れ始めた2014年から、今年で約7年。過程において「オープン・イノベーション」がブームになったこともあり、幅広い業種の日系大企業が新規事業の創出を目的にシンガポールを活用する動きが増えています。私自身は、コンサルティングの立場で数多くの新規事業を支援するとともに、自分でも当地で起業したことから、複眼的に様々な事例を至近距離で見てきました。

昨年からのコロナ禍で、従来の働き方が変化し、雇用の多様化が進む中、当地でも今までのやり方に加えて、新しい取り組みでイノベーション創出を目指す動きが出てきています。ディープテックへの更なる注力、国民の起業の裾野を広げるプログラム(ベンチャービルダー)開始などは、その一例で、幾つかの取り組みには参画する機会を得ました。こういった機会を通して改めて感じたことは、ローカル色が強まるのと反比例して、日系企業の方々に出会う比率が著しく下がるという点です。色々な理由で接点を持ち難いものと推測しますが、現地コミュニティと常に良い形で接点を持てるか否かは、当地で新規事業を進めていく上で非常に重要なポイントと考えます。本稿では、イノベーションに関連するコミュニティの中でも、特に現地大学の側面から、実体験とともに現場感を持った考察を展開していきたいと思います。

当地イノベーション・エコシステムのキープレイヤー

シンガポールは小さな国なので、スタートアップやイノベーションに関連する主要プレイヤーを掴むこと自体は難しくありません。エコシステムの主な構成要員は、政府機関、アカデミア、VC、インキュベーター、アクセラレーター、専門メディア、イベントオーガナイザー等で、依頼すれば当地の政府機関が具体的な名前とともにオリエンテーションしてくれると思います。例えば、政府系機関のSGInnovate(旧InfocommInvestments)は、下記の概要図を出しています。

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シンガポールのスタートアップ・エコシステム
SGInnovate(旧InfocommInvestments)作成

従って、多くの方々が基礎的な知識を持っている一方で、「シンガポールのエコシステムをどのように活用するのが良いのだろうか」という質問が常にあがり続けていることも事実です。「新規事業」や「イノベーション」と言っても、各社ごとにおかれた状況と目的が異なるため、この問いへの回答は1つではありません。筆者の印象では、代表的な活用方法として、知識やネットワークの拡大が期待できて「取り掛かりやすい」という理由から、当地の主要イベントに出展・協賛したり、現地の国立大学とアイデアコンペ等を行うケースが多いように感じます。毎年行われるInnovFest(春)、SWITCH(秋)等、当地の大型イベントの情報は掴みやすく、協業候補となる大学も、シンガポールの主要な国立大学は数校しかないので、協業先の選定自体に迷うケースは少ないと思います。

大学との連携。その目的は何か

当地の大学というと、まず真っ先にシンガポール国立大学(通称NUS)と、2001年に設立された同校内の産学連携機関であるNUSエンタープライズを思い浮かべる方が多いように思います。NUSが当地のスタートアップ業界で果たしてきた役割は非常に大きく、特に直近ではPatSnapやCarousell等、同校の卒業生が創業した「ユニコーン」も登場しており、間違い無く当地エコシステムの最重要プレイヤーの1つです。そのため、日系大手企業が何か協業をする際も、NUS一択になりがちな傾向がありますが、大学ごとに得意分野があるので、目的に合わせて連携先を選ぶのが良いでしょう。

ここで改めて、当地大学との協業目的を整理してみたいと思います。一般的に、大学との協業アングルは次の4つだと言えます。

①大学発スタートアップ:投資先や共創パートナーのソーシングチャネルの1つ。
②知財(IP):大学が有する知財を自社の新規事業に活用。
③アイデア:大学主催のイベントに協賛、もしくは独自に企画し、参加者の学生から事業アイデアを募集。
④インターンや社員:現地法人の有期インターンや正社員として採用するルートの1つ。


イベントの罠。残ったのは名刺の山と集合写真だけ

上述の①と②は、多額の投資資金や法務的な複雑さを伴うこと、また社内調整に時間が掛かることから、取り掛かりやすい③と④での大学連携が多いように見受けます。④に関しては、任せたい仕事が明確であれば、採用方法として非常に有益です。特にインターンから正社員への登用は、仕事の能力やパーソナリティーが分かった上での採用になるため、ミスマッチのリスクが殆どありませんし、既卒の場合は人材紹介会社を起用すると発生する高額なコミッションが係らないため、上手く活用出来れば、非常にコストパフォーマンスの高い方法と言えます。

一方、③はどうでしょうか?③を大別すると、MBAや学部生を対象に、課題を与えてソリューション提案を競わせるものと、InnovFest等の大学が企画運営に深く関わっているスタートアップイベントに合わせて参加者とのミートアップ付きで行うものの2パターンありますが、どちらにしても、これらのイベント系から新規事業が立ち上がり、早期に収益化されたという話を聞くことは少ない印象です。

イベントは実施の前と後にSNS等のメディアを通した告知活動が行われるため、行うこと自体で充実感を持ってしまいがちです。そして、何よりも参加を通して多くの新しい出会いがあるため、人脈拡大の観点で何となく満足してしまう側面が否めないと思います。しかし、目的が曖昧なまま、多くの人に出会っても、有意義な人脈にはなりません。日本のビジネス文化には、「まず名刺交換とご挨拶」というスタイルがありますが、シンガポールだけでなく海外では一般的に目的ありきで人と会うため、何百枚と名刺を交換しても、相手のことをよく知らず、相手も自分のことをある程度分かっていなければ殆ど意味がありません。「新規事業の創出」の手段としてイベントに取り組む場合は、この点を十分にふまえて、明確な目標設定と実施後のフォローアップ体制を組み込んだ企画運営が不可欠になります。

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リアルイベントの罠(写真はイメージです)

Acqui-Hireのススメ

大企業で新規事業が進みにくい理由は幾つかありますが、中でも大きなボトルネックは、情報やアイデアを得た後に、それを推進する人材の不足と体制が創り難い点だと思います。巨大企業の現業で長年働いてきた人材が「起業家」のようにゼロからチーム創りをして新規事業を推進するのは、ほぼ不可能です。この問題の解決方法として、従来のイベントに「Acqui-Hire(アクハイアー)」を取り入れて実施してみるのは一考に値すると考えます。

このAcqui-Hireとは、Acquisition(買収)とHire(雇用)を掛け合わせた造語で、元々は人材獲得を目的とした買収という意味です。大企業が新規事業の立ち上げにおいて、優秀な人材やチームを獲得するために、小さなベンチャー企業をまるごと買収する手法で、2000年代半ばに米グーグルが始めたのが最初だと言われています。既に関連分野でスタートアップしている小さなベンチャーを探し、安い買収価格でまるごと買収することで、事業リーダーや開発チームを手っ取り早く確保でき、サービスを迅速に立ち上げられます。上手く活用すれば、これに係る投資費用は早期に回収できます。

この手法を応用し、大学等と実施するアイデアコンペに予め組み込んでおくことで、新規事業アイデアと実施チームが同時に獲得出来ます。筆者が数多くのコンペに携わってきた中で、「アイデアとビジネスモデルが得られれば、後は自社で行う」とおっしゃる日系大企業は少なくありませんでしたが、こういったイベント後に自社の既存メンバーのみで早期に円滑に新規事業が立ち上がったケースは、残念ながら皆無に近いです。日本国内でも難易度の高い新規事業を、海外でゼロから人材を集めて立ち上げるのは合理的な経営判断とは言えません。グーグルやアマゾンといったシリコンバレーの名だたる企業も、新規事業に適切な人材を確保するのに苦労していることからも、新しい手法を活用するのは非常に理にかなっていると言えるでしょう。但し、一般的な社員の採用とは異なる給与・インセンティブ設計が必要になりますので、こういった点を熟知しているプロフェッショナルから助言を得ることをお勧めいたします。

せっかくオープンイノベーションで「アイデア」というリソースを得たにも関わらず、その実施は従来型のクローズドイノベーションで・・・ということで無く、ぜひ一気通貫で行い、シンガポールを効果的に活用した東南アジアでの日系企業の新規事業成功例が一つでも多く生まれることを期待したいと思います。

筆者略歴: 中村 有希(なかむら あき)
イントレプレナー(社内起業家)とアントレプレナー両方の経験を持つハイブリッド。ディズニー社にてアメリカ国外で初のコンテンツビジネス(モバイル事業、TVアニメーションクロスプラットフォーム展開等)立ち上げメンバーとして新規事業を推進。その後、シンガポールを拠点に大企業向け新規事業・スタートアップへのハンズオン支援に従事。自身が新興国ビジネスで直面した多くの困難から、アジアの人的ネットワークからの知見で新規事業を支援するExpertConnect Asiaをシンガポールにて起業。イントレプレナーと アントレプレナー 両方の経験を活かし、シンガポール国立大学、南洋工科大学、RI、HCI等の現地教育機関の起業支援組織で講演・寄稿を定期的に行い、次世代育成にも活発に携わっている。

※本稿は筆者がJR東日本がシンガポールで運営するOne & Coに2021年8月に寄稿したものをより多くの方に読んでいただく目的で共有するものです

#日経Comemo #シンガポール #スタートアップ



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