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本を読まない人と話すのはなぜつまらないのか?

以前、僕は批判されるのを覚悟の上で、似たようなタイトルの文章をnoteに書きました。

しかし、さすがは文章を読むのも書くのも好きなnoteのみなさん。批判よりむしろスキをたくさん頂いてしまいました。本当に嬉しい。

やっぱり僕はnoteが好きです(笑)

きっと僕の拙い文章の中から、伝えたいことに共感して下さったのだろう。

こちらの文章は、今でも時々スキをつけて頂けるので読み返してみたところ、何だかモヤモヤするものがあったので、今回は受け入れてもらえるという前提でちょっと深掘りしてみます。

ただ、僕はこちら↓の本で定義されるところのバカの部類です。

関西人なので、バカと言われると生理的にカチンと来てしまうので、アホと言い換えたいのですが。

そこでここからは、頭のいい人の本を引用しながら話を進めていきます。

今回紹介する本は、『忘れる読書』という落合陽一さんの本です。

この本には僕が言いたいことが見事に言語化されていました。

誤解しないで欲しいのですが、僕は読書をしない人を差別しているのではありません。もちろん本よりも素敵な体験はたくさんあります。

そもそもつまらない話という判断も人によって違いますし、

話が面白いお笑い芸人さんの中には本を全く読まなくても、めちゃめちゃ面白い話をする人だっています。芸人さんは言葉を操るプロですから当たり前かもしれませんね。

先ほど、僕は自分のことをアホだと言いましたが、僕が考える頭のいい人というのは、つまるところ自分の思考を言語化するのがうまい人のことです。

そういう人に僕は憧れますし、そうなりたいなと思っています。

ただし、言語化がうまいというのは単に難解な言葉や思想を語れるということだけを指しているのではありません。

子どもでも分かるような易しい言葉でとてつもなく奥深い表現をする詩人もまたこの範疇に入ります。

結局僕が言いたいのは、日頃からいろんなことを考えている人が好きだということに尽きます。

そういう人は読んだ本の冊数が多くなくても、どこかで自分の考えたことを言葉や絵、メロディなどに具現化します。

人間の思考は母国語をベースとするので、言語がたくさん詰まった本は思考訓練の素材として最適です。だから本を読んでいる人は言葉の選択が上手です。その言葉を選んだ背景からその人が常日頃考えていることが窺えます。特に文章は顕著です。

だから、必然的に僕は本を読んでいる人が好きなのです。

そのことを落合さんは、言語化は最強のツールとして、言語化=抽象化と本の中で語っています。

僕が好きな岡田斗司夫さんは、まさに言語化に突出した頭のいい人です。

岡田さんが解説している本は、原著を読むよりも面白い!

それはなぜかと言えば、本来は面白い本だから岡田さんが解説しているわけだけど、いざ自分がその本を読むと面白さに気づいていないということが分かってしまうからだと思います。読み方が違うし、思考ベースのレベルの差に愕然とするのです。

だからお前はアホなのだ!

東方不敗先生のツッコミを思い出してしまう程に頭のデキの違いを痛感させられてしまう僕は、自覚できている分だけはアホではないかもしれないと慰めつつ、今日も本を手にします(ネタが昭和)

ところで、読書をしている人には単なる知識ではなく、教養があります。

この二冊によれば、Z世代と呼ばれる若者たちは、情報に囲まれて育っているので、手軽にカロリー摂取できるファストフードのように、自分にとって必要な情報を手取り早く手に入れる術を身につけているそうです。

それは時に、まとめサイトであったり、解説動画の早送りであったりと様々ですが、タイパやコスパを追求し、自分の中にまとまった『○○大全』なるものを教養と呼んでいるのではないでしょうか?

もちろん、現代に生きる僕も例外ではなく、いつしかテレビをリアルタイムで視聴しなくなり、隙間時間には興味のある動画を倍速で見たりもします。

ただ、先ほどのZ世代と違う点があるとすれば、仮に岡田さんの解説動画を見て面白い本だなと思えば、僕はその本を自分で読みたいと思うし、そこから岡田さんが拾わなかった部分にも目を向けます。

そうして自分の心に残ったものが抽象化され、自分の中の古典ができて教養と呼ばれるものに変わるのだと僕は思っています。

まとめサイトや他人の解説は使い方によっては有用ですが、元の情報を紹介者の手によって何倍にも希釈したものだと理解した上で参考にするのが賢明でしょう。文章というものは多分に主観的です。人の発言も同じ。

その人のフィルターを通したものを盲目的に信じてしまうのは自分の人生に目を向けないのに似ています。誰かの意見が素晴らしいと思ったら賛同するのは素敵なことですが、それをいかに自分なりに落とし込むのかがその人の魅力だと思います。

教養については、落合さんは次のように述べています。

互いの教養の「段階」が揃っていないと、会話に骨が折れることがあります。反対に、同じ教養を共有している人同士の会話は、ものすごく速いと感じます。

忘れる読書

そこで、とある批評家の方との会話を挙げています。

「デジタルネイチャーは、習近平的な話だね」

あなたはいきなりこんな会話をされたら、どう答えるでしょうか?

この会話には大きく二つの思考ベースが必要とされます。

まず、「デジタルネイチャー」というワードは落合陽一さんが提唱している独自の概念です。これは個人言語であり、一般的なものではないため理解が必要です。

つまり、この言葉を使っている時点で少なくとも話し手である批評家の方には日頃から落合陽一さんの意見に関心があることが分かります。

提唱している本人に使うというのは、よほど理解が深くないと失礼にあたるので持論もおありでしょう。

一方、習近平は言うまでもなく中国の国家主席の名前です。こちらもまた話し手なりの情報分析が必要とされます。

この二つを組み合わせるところが話し手独自の思考の面白さだと分かった人でないと会話は円滑に進みません。

そこで、落合さんは数十秒で、

ああ、私の言うテクノロジー的なアプローチでの国家戦略論と、習近平のイデオロギー的なアプローチでの国家戦略が似ているという意味で言ってるんだなと意図を察し、

「確かにそうですね」

と返したそうです。

「確かにそうですね」

あるいは僕も見栄を張ってそう返すくらいはしたかもしれません。

しかし、その後はー

考えるだけで恐ろしい(笑)

僕はゲームが好きなので、似たような会話例を作りますと、

「factorioって、モダンタイムズみたいだね」となります。

これにはゲームソフトとチャップリンの名作を観ていなければ答えることができません。

だいぶレベルが違うことが分かって頂けたでしょうか?

いや、むしろ分からなくていいんです。分からなくても寄り添ってくれる優しいあなたが僕は好きなのです(意味不明)

話はさらにズレますが、

若い人には何気に交わす日常会話の中にこういった経験が隠されていることを察して頂きたい。以下は老成年の主張である。

アクスタ、痛バ、と聞いてあなたは分かるでしょうか?

分かる人こそ、耳を傾けて頂きたい。

初老の僕はこれらの言葉を聞いて、スタバのチェーン店かと思ったのですが、空気の読めるイケメンの僕は、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という経験則から聞き返し、意味を知りました。販売員の僕は情報に敏感でなければいけないのです(泣)

パワハラという言葉はあるけれど、ヤンハラは無いのかと言いたい気持ちをグッとこらえている世代もいるのだとどうか分かって頂きたい。若者は知らず知らずのうちにガラスの老年を傷つけているのである。

話を戻します。

教養のベースが同じレベルにある人同士の会話は情報密度が高い。受け渡しのデータは極度に圧縮され容量は軽く見えるけど、解凍には有料ソフトが必要になります。

このことは共通の趣味がある人同士の会話を考えると分かりやすい。

職場の話は、部外者には通じにくい。自分は上司の悪口を言ってるくせに、電車の中で他の人が似たような話をしているとうざいと思ってしまうアレだ。

YouTubeでお悩み相談を見かけると自分の経験が無いことには関心はないけれど、同じような境遇に置かれた人の悩みだと共感して、時に参考となります。

そして、本にはそういう側面もあります。

もちろんweb上にはブログの文章もありますよね。

あるけれど、深度が違います。

たとえば、僕が書いた文章はここまでで2500文字。すでに脱落した人もいるでしょう。

ブログの文章には読む長さに限界があります。冒頭で過去記事のリンクを貼ったけれど、遡ってスキまで押す人はほとんどいないと経験から知っています。

しかし本であれば、過去の引用や要約にもページを費やせます。物理的には読み飛ばすこともできますが、気になればその箇所にいつでも戻ることができるので、一過性のものではなく、積み重ねて持論を展開することができるのです。

つまり、深掘りが可能というわけです。

また、本というのはブログに比べて一時保存がやりやすい。たとえば今、あなたがこの文章を電車の中で読んでいたとして、あっ、ちょっと面白いなぁーと思っていたとしても、誰かから電話がかかってきたり、目的の駅に着けば、なかなか続きを読む気にはならないのではないでしょうか。

しかし、本なら一旦しおりを挟んで、他の作業に移ることもできやすい。

たとえ積読になってしまっても、必要があれば本の存在を思い出せるはずです。

思い出さないとすれば、それは今のあなたにとっては価値の無いものでしょう。

本を読んであなたの中で濾過されたものだけが残り、アップグレードされたものが独自の思考を経て思想に変わる。

僕は会話に単なる情報伝達ではなく、そういう思想のやりとりを望んでいるのです。

この人の話は面白い。どうやったらそんな面白い発想が出てくるのだろう?

その人が薦めている本がある。

もしかしたら、何かの気づきになるかもしれない。

読んでみよう。

読書とはその体験の繰り返しです。

本は本を呼びます。かくして机の上には本の山ができ、電子書籍の本棚は無限に追加されていきます。

読書をしない人にはこの愉しさは分からないでしょう。

でも、でもよ。

あなたが大好きな漫画だったらどうですか?

たまたま同じ作品のファンを見つけたら、語り合いたくはならないですか?

同じような世界観の漫画や嗜好に合いそうな作品を薦めてみたくはないですか?

漫画以外の本も全く同じです。

僕は本との出合いは人との出会いと同じだと思っています。

なぜなら本は人が書いたものだから、です。

本にしてまで誰かに何かを伝えたいと深掘りした熱い思考の結晶が具現化されたものには、とんでもない出会いが詰まっています。

今までの自分では考えもしなかったようなワクワクドキドキがいっぱい詰め込まれているはずです。過去や現代の天才がまるで隣にいるように語りかけてくる体験を味わえるのが読書の醍醐味です。

僕が興味があるのは作り手の向こう側にあるものです。

だから僕は、大きな本屋さんで自分よりも背の高い巨大な本棚の間を散策すると、一生出会わない人達がこんなにもいるのかと興奮し、その素敵な出会いを見逃すまいと歩き疲れてしまいます(苦笑)

そして、その中の数冊を紐解いた時、僕の思考の旅が始まります。

さて今日はどんな思考の旅が始まるでしょうか。

最後までお読み頂きありがとうございました。

ちょっと本の内容が気になったという方は、僕の音声配信も聞いて頂けると一助となるかもしれません。お時間があればお付き合い下さいね。



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