本を読むとはどういうことなんだろう?
今回紹介したい本はこちら。
この本を読んで読書とは何だろう?という疑問が言語化された気がしました。
「本」と言っても、いろんなジャンルの本があるので定義づけは難しいけれど、ここでは文章で綴られたものを指したい。具体的に言えば、小説や実用本の類だ。
と、ここまで読んで「おっ、具体的というキーワードが早速出てきたゾ」と思った人は、ここからの話は不要かもしれない。
なぜなら、その人にはすでに頭の中に具体⇄抽象という概念が双方向で働いているからだ。
本を読むとは、情報を得るものというイメージが強い。たくさん本を読んでいる人は知識の量が多いと思われがちだ。
しかし、いくらたくさん本を読んでも一向に頭に残らないことはある。
例えば、自分のレベルと合っていない難解な本や興味のわかない本などがある。
基礎からの積み重ねが無いと理解できないものはいわゆる勉強の範疇だ。前提となる知識が無ければ専門用語が出てきただけでお手上げになる。
野球に興味のない人が野球の本を読んでもつまらないだろう。
と、思うじゃん?
ところが、本が好きな人はそうでもないのだ。
えっ?
何言ってんの?
と思った人はもう少しお付き合い頂きたい。
図らずも難しい本に出会って(僕は本は人だと思っているのでこの字を使う)しまった場合、ああこれはまだ自分のレベルに合っていないなと思う。
それは知識のレベルもあれば興味のレベルもある。
そこから興味を持ったら、自分なりに勉強して再読する場合もあるし、興味が無くても、いつか興味が出るかもしれないと一応本棚の片隅に置いておく。
そういう本がある時、頭の中のランキングに急浮上したりするから不思議だ。
これはたぶんいくつものフォルダに整理していくうちに、アンテナが自然に立っているからなのだろう。当たり前だけど、思いつかないものは思いつかない。
フランス語が分からない僕が、フランス語を目にしてもそれが何なのかは分からない。よってフランス語特有の概念を知る機会はなかなか無い。
ところが、ひとたび頭の中のフォルダに名前がつくと、勝手に集まってくる。その中で情報量が多くなったものがある日ふと浮かび上がるのだ。
なんだ、やっぱり情報量=知識の話ではないか。
そう思った人に今日の本題を語りたい。
この本で細谷さんは、知識や情報の量的な拡大というのは「横軸」であると言う。それらは個々の具体的なものだ。
一方で抽象というものは「縦軸」である。これは演繹と帰納の関係だ。
抽象というのは自由度が高い。
簡単に言えば、応用が利くということだ。具体的とは英語でconcreteと言うと知った時、僕はなるほど〜と思った。
具体的とはそれ以上応用が効かない固いものだ。コンコンと叩いても容易に崩れないコンクリート。
よく指示待ち人間などと言うけど、本書の中では社内の会議室でイベントが終わった後の関係者同士の会話というのが出てきて分かりやすい。
Aさん
「本は本棚に返して、お皿は食器棚に戻して、イスと机は倉庫に返して、文房具は総務部に持って行って、残った飲み物は冷蔵庫に・・・」
Bさん
「つまり片付けろってことですね?」
この逆が自分では考えられない指示待ち人間だ。
数学者の吉田耕作さんに「あなたの話は具体的なので分かりにくい。もっと抽象的に話して下さい」という有名な言葉があるらしい。いかにも数学者らしい名言だ。
話が通じない人というのは、具体と抽象がうまく切り替えられない人だと言う。
俗にバカの壁という言い方があるけど、上層階にいる人は下層階に降りることができるが、逆の人はそもそも上の階があることさえ知らないから上がりようもない。
これは単なる無知という話ではない。コミュニケーション能力が高い人は間違いなく、この切り替えを行なっている。
自分が今どの層に向けて話しているのか、場の空気に合わせているのだ。
たとえば「虫」の話をしていたとしよう。一匹ずつの虫の話というのは具体的であり、レイヤーで言えば下層にあたる。
メタ思考という、より上段の視点から考えを整理していった結果、生物というフォルダに収まるとすれば、話が通じない人は今どの層の話をしているのかが見えてない人と言える。互いに違う階層で話していることに気づいていないのだ。
堀江貴文さんと言えば、あまり人の話を聞かない感じがするけれど、興味がわいた話なら熱く語る。おそらく彼は、人の話を聞いた瞬間にこのピラミッドを組み始め、頂点が見えた時点で急速に醒めてしまい、相手の話を遮ってしまうのだろう。
その話は知ってるよ、と。もうすでに自分なりの結論は出ていると。
横軸と縦軸では、世界が異なる。抽象化が共通点を見つけることだとすれば、具体化は相違点を明確化することだ。抽象化が数多の事例の中から特定のものを抽出するという行為であるとは、同時に不要なものを捨てるという意味でもある。
横軸の世界では情報「量」が重要だが、縦軸の世界では「幅」、多様性が重要だ。取捨選択する価値観は単なる知識の積み重ねでは生まれない。
本を読むという行為は、文字を読むということだ。文字は抽象化された記号。それが理解できる言語であれば、人はそこから何らかのイメージを持つ。
しかし、その文字を単なる情報や知識として扱っている限り、それらは断片的であり、応用は効かない。
それはまるで計算ドリルに書かれた数字をそのまま計算機に入力するだけの行為であり面白くないゆえに頭には残らない。
インプットとアウトプットが同じで0に近ければただ時間を浪費するだけになる。だったらネットで調べるのと変わらない。
小説を読んでいて、ただの絵空事や他人の話でしょと思っていたら心に響かないだろう。そうではなくて、ある境遇に置かれた人の心情から読み解けば他人への理解も深まり、人生に役立つかもしれない。
僕は小学校の頃に江戸川乱歩の少年探偵団にはまり、大学生くらいまではミステリ小説ばかり読んでいた。
それはそれで楽しかったけど、ある時もうちょっと身になる本は無いかと思い、いろんな本を読み始めた。
しかし、全然頭に入らない。
それもそのはず、と今は思う。
そもそも本から何かを学ぼうという目的意識が無かった。
例えば参考書ならテストで点を取るためという目的があるから、それなりに効果がある。
でも、漫然と読んでるだけでは読んだそばから忘れてしまう。
だから今では、何か一つでも学びがあればという思いで本を読むし、気づきが無いなと思ったらやめる。だからどんどん積読が増えてしまうのが悩みではあるけれど、読み散らす効果というのもあるのでは?と思う。
フォルダの話で書いたように、何かに興味を持った時、そう言えばこんな本があったゾとか行きつけの本屋さんのどの棚に行けばそういった本が並んでいるかという道標が頭の地図に記されていくのだ。
本を読むというのは、様々な情報にラベルを付けて自分の中の本棚に収めていく行為に似ている。その本棚は本を読むたびに入れ替わり、思わぬ結びつきを生み出していくから楽しくてやめられない。
世界的に有名なゲームデザイナーの小島秀夫さんの本の冒頭に同感する文章があるので引用して結びとしたい。
世界中に、本や映画や音楽は無数にある。
それらを全て体験するのは、到底無理だ。だから、自分が死ぬまでに、どんなものと出会えるか、というのが僕の人生において、重要な意味を持っている。
出会いと言うのは、偶然で運命的なものだ。
どこで何が、どんな縁でつながっているのかわからない。だから僕は、ただ漠然と待っているのではなく、自らの意思で行動し、選択した上での出会いを大事にしたいと思うのだ。
これは、人との出会いと同じだ。
だから、僕は毎日本屋に通う。
出会いを創るために通い続けるのだ。
毎日、いろいろな本とすれ違う。何か引っかかる本、訴えかけてくる本、素通りしてしまう本、それぞれに違う絆がある。それを確かめていくうちに、自分にとって意味のある出会いを見つけられるようになる。
自分の感性が磨けるようになるのだ。本も映画も音楽も人が作ったものである以上全てが当たりであるはずがない。むしろ9割がハズレだ。しかし、残りの1割にはものすごい作品が存在している。
僕も物創りをなりわいにしている以上、その1割に入る作品を作り続けたいと常に思っている。
そのためにも、僕は誰かが作った1割の当たりを引くための感覚を鍛え、磨き続けていたいのだ。だからと言って、特別なことをしているわけではない。
本屋に行く。絆を感じた本を買って、読む。
それがハズレだったとしても、落胆する必要は無い。それは当たりを引くための訓練の一環なのだ。
だからそれを読んでいた時間は、無駄では無いのだ。次の出会いにつながるための重要な時間だとも言える。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。何かの気づきになれば幸いです。
音声配信でも語ってみました↓
スキはログインしていなくても押せます!ワンちゃんでも押せるほど簡単です。励みになりますので、ここまで読んでくれた記念に押して下さい。いくつになっても勉強は楽しいものですね。サポート頂いたお金は本に使いますが、読んでもらっただけでも十分です。ありがとうございました。