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本を読まない人と話すと退屈なのはなぜだろう?

こういうことを書くとインテリっぽく思われるかもしれませんが、noteをやっている人は読書好きの方も多いと思うので書きますね。

まぁ、タイトルそのままなんですが、なぜ本を読まない人と話すと退屈なのか僕なりに考えますと、結局のところ刺激になるものが少ないということに尽きると思います。

読まない人の話は、基本的にテレビやネット、ニュースが中心です。あとは共通する話題、たとえば職場の話や誰かのファン同士の話など、いわば身内話になりがちです。

もちろん僕もそういう話をしないわけではありません。

たとえば、人気ドラマやスゴイ試合を見たら、一緒に盛り上がりたいし、共通の話題は楽しいものです。

しかし、自分が読んだ本の話をしても、面白がられることは少ない。

そういう話をすると、「自分は本を読まないので〜」と避けられる口調になります。だから、その人に合いそうだなというつもりで本の話をしても、大抵はその場で終わってしまいます。

「読みますね!」とは、まずならないし、そういう返事をしてくれたとしても、「読みましたよ」と言われたためしがありません。

だから、こちらも自然に本の話をしなくなります。

僕の理想は、相手が興味のありそうな本の話をしつつ、そう言えば、こんな本を読んだんですよ〜と、互いに刺激を受けそうな会話を望んでいるのですが、

本を読まない人は基本的に自分の知ってる情報を共有したり、同意を求めているので、相槌をうてば終わってしまいます。

先に挙げた読まない人の会話ネタはそういうものが多いですよね。

知らないニュースを知っても、驚きこそすれ、その場で話は終わってしまいます。

ではなぜ、本を読んでいる人の話に興味をひかれるのかと言えば、本の内容を話すには要約力が必要とされるからです。

また読んでない人にある程度分かってもらうためには、単なる要約ではなく、その本に対する理解も必要です。

内容を深く理解すると、おのずと自分の意見が生まれます。

なぜその本を人に説明したいのか、どの部分が面白かったのか?を語ることになります。

本になる文章というのは、それなりの数の人が見て作られています。話し言葉のように一過性のものではなく、言葉にも重みがあります。

これは何も実用書の話だけではありません。

小説だったら、登場人物の置かれた境遇や心情、セリフに感銘を受けたのかもしれませんし、タレントのエッセイ本でも、その人独自の感性を感じる考え方や紡がれた言葉が心の琴線に触れる場合もあるでしょう。

大切なのは、自分の言葉で誰かに伝えたいという熱意です。

そこには、紹介する人の体温があります。

ネットニュースを誰かに伝え、賛同してもらっても、そこには体温は残りません。

おそらく数分後には、もう忘れてしまうでしょう。

しかし、他人が語る本の紹介はふとした時に思い出すものです。

たまたまその本を本屋さんで見かけて、手に取った時、その人のことを思い出すのは体温が残っているからでしょう。

その人の温もりを感じつつ、読んでみて自分はどう思うのか、どう感じたのかをその人に話せば、そこにはもっとぬくもりが残り、一生忘れられない思い出となります。

実際は、そんなにあるものではないでしょうが、中身の無い会話よりは余程楽しいものであることは間違いありません。

自分の周りにいる人との出会いは限られたものです。しかし、本は無数に存在します。さらにそこから広がる人の思考は無限大です。

考える素材はたくさんあるのに、スマホを触れば誰でも知っている情報をただなぞるだけの消費型の会話では何だか虚しさを感じます。

時にはたわいない会話もいいでしょう。しかし、僕は毎回それだったら退屈で仕方ありません。

そういう意味で言えば、テレビの垂れ流しもつまらない。

見たい番組ならいいのですが、見終わってもダラダラと見るともなしに見てしまうと後悔します。だから僕は、基本的に録画したものしか見ません。

リアル放送を見ると、ついダラ見してしまいそうになるからです。

最近はYouTubeも目的の動画を見たら、たとえ気に入ったチャンネルであっても連続して見るのはやめます。

だって、僕の机には読みたい本が積み上がっていて、すでにどう考えても一生読みきれないからです(笑)

昔は買った本は最後まで全部読まないといけないという強迫観念に駆られていました。

しかし、今はその時に興味を持った本は買うけれど、飽きれば読むのをやめるし、ずっと読まない本もあります。

ただ、買ったことはなんとなく覚えていて、何かの本を読んだ拍子に急に読みたくなることがあるんです。

そもそも一度、興味を持って買った本ですから、何かしら心がひかれたテーマではあるわけで、読書好きな方なら分かると思いますが、何かの本を読んでいる時に別の本に興味をわくことって、しょっちゅうあるんですよね。

僕にとって本は人との出会いと同じです。

それは著者との対話です。

へー、そんな事思うんだ。ふ〜んと思いながら、ページの端を折ったり、線を引いたり、自分の考えを書き込んでみたり、ノートのように扱います。

そういう本との対話が僕の心のどこかに残ります。

そして、別の本を読んだ時に、ん?これって誰か言ってたなぁと思って、本棚をひっくり返し、その本のページに行き当たった時は何物にも変えがたい快感を得るのです。

できるだけ自分の価値観を変えてくれる本と出会いたい、ただそれだけの思いで巨大な本屋さんの棚を散策するのが大好きです。

ビジネス書もタイトルはザッと眺めますし、読んだりもしますが、人の発想法や考え方にひかれることが多いですね。

僕は○○しろ!という本にはひかれません。

命令するということは、その人の方が上にいるようですし、まるでそれこそが真実みたいに断定されるのは、盲目的で思考を中断しているので、読書好きな人には合わないと思います。

本を読まない人ほど、そういう本にひかれるので、アドバイスを求める人に向けて書かれているのでしょうね。

しかし、読書をするとは、自分の頭を使って考えながら読むという行為です。いろんな本の中から自分なりの気づきを得る読書が好きです。

僕にとって「本を読まないので〜」という人は、「私頭使わないので〜」と言っているのと同義です。

使わないというのが言い過ぎなら、「深く考えたりはしないので〜」「あいにく自分の考えを言語化する習慣がないので〜」と言い換えてもいいかもしれません。

あえて強めに言えば、本を読まない人の会話は刺激がないから、つまらないのです。

本を読まない人は文章にも表れます。これは字が汚いということではありません。

文章を書かない人の文は、読み返さないから余計に分かりにくくなります。

おそらく、もう一度読み返してはいるのでしょうが、読み返しても何がダメなのか、何から直していいのか、客観的に見る目が養われていないので、他の人が読んでも分からないというのが本当のところではないでしょうか。

また、本を読まない人は語彙力がありません。それはつまり言葉に対して疑問に思う機会が少ないことを意味します。

だから、文章を書くと語彙も表現もワンパターンになりがちです。

ところで、先日読んだ本に面白いことが書いてありました。

竹村俊助さんは編集者ですが、この本の中で、

現代ほど「書ける人」が有利な時代はないとおっしゃっています。

なぜなら、今はSNSの発達により、初対面がテキストということが決して少なくないからです。

ある人を知って、もしその人がブログやツイッターをやっていると知ったら見てみたくはなりませんか?

これまでは、人前でうまく話せる、いろんな人と仲良くする人が有利とされてきました。しかし、それは生まれつきの性格や才能が影響します。

一方で、「書く」という行為は後天的に身につけることができます。名文を書くには才能が要るかもしれませんが、誰でもある程度練習すれば、文章は書けると竹村さんは言います。

文章には書く手本が必要です。ネタが無いなら、本を読めばいいのです。

本を読んでいる人が少ないということは、誰でも知ってるネタではないということです。売れている本がいいとは限らない。自分が面白いと思う本なら紹介のしがいもあります。

始めは引用でもいいのです。読書を続けていると自分の頭で考える楽しさが分かるようになります。

時には自分では考えもしなかったことが書かれていて、生き方さえも変わることだってあります。いろんな人の思考が自分の中に流れ込み、あなただけの考えがきっと生まれます。

誰かのコピペのようなnoteはつまらない。

どうせコピペするのなら、そこにちょっとでも自分の意見を足しましょう。

そのためには多くの人の意見を聞いて自分で考える必要があります。

読書は最適なツールです。一人の人間が膨大な時間をかけて考えた事を安価に短時間で知ることができます。

自分で本を選ぶ楽しみを知らないなんてもったいない。もしあなたが面白い本に出会ったら、ぜひnoteに書いて、おすそわけして下さいね。

補足:竹村さんはnoteもされてます↓




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