50歳の僕はまだ失敗すらしていない。
先日、堀江貴文さんの動画を見て、そうだな、確かにそうだなと思った。
https://note.com/exile3972/n/nb024c6d5ddb3
堀江貴文さんと言えば、僕と年齢は変わらない。
しかし、説明するまでもなく、僕とは違って時代の寵児、革命家だ。
僕は、正直言って彼が苦手だった。
一つには同じ年代だということ。
ホントにつまらない話だけど、そして全くもって失礼な話なのだけど、どこかでライバル視していたのだと思う。
簡単に言えば、やっかみだ。まぶしくて見たくなかったのだ。弱い自分と対峙したくなかったのだ。
たとえば、同世代には他にも中居正広さんや木村拓哉さんがいる。そうSMAPだ。今では解散してしまったけど、時代を象徴するとんでもないスーパースターの集団だった。
若い時というのは、同年代の活躍している人を羨望の眼差しで見てしまう。
ところが、50歳にもなると(なってか)彼らがいかにスゴい人であるかがようやく分かる。
いや、実感としてはもうずいぶん前から分かっていたのだけど、単純にプライドが邪魔をして認めたくなかっただけなのだと思う。
もう彼らは、スタートしてからかなり先を走り、先頭集団として走り続けている。
50歳にして何も持たない僕と彼らとの距離はもはや測りようもない。
しかし、ようやく今の年齢になって思うことがある。
それは、人生とは競争ではないということだ。
僕はどこかで彼らと同じトラックを走り、周回遅れの自分に焦りを感じつつも、毎日毎日、怠惰に過ごしながら、孤独と虚無と衰えていく自分の顔を鏡で見ては嘆き、やり場のない憤りを感じ、諦観し、自分の人生を傍観者として見るとはなしに見つめてきた。
ああ、このまま何もせずに年だけ取っていくのだなぁと。なんてつまらない人生なんだろう、と。
若い頃ブログが流行り、文章を書いてみたことがある。
さらに若い学生の頃、まだネットが無かった時代には(信じられる?)ノートにその時の気持ちを夢中になって書いていたことがある。
今読むと、実に幼稚な自己中心的なことしか書いていない厨二病なるもので全くもって微笑ましい(苦笑)
でもそんなある日、僕は熱中していたブログを辞めてしまった。そしてノートに自分の思いを書くことすらしなくなった。冷めてしまったのだ。
読書は趣味なので、相変わらず本は読んでいたけれど、読んでいるそばから内容はこぼれ落ちていった。
自己啓発の本を読んでは、何の成功体験もしていないのに意識ばかりが高くなり、人をどこかで見下すようにもなった。きっと言動や態度にも出ていただろう。
スポーツもしていないのに入門書を読んで分かったように語る人に説得力などあるわけもなく、僕は毎日どこにぶつけていいか分からない気持ちを抱きながら悶々と過ごしていた。
自分には何かの才能があるはずだ。
なぜ人は自分を認めてくれないのだろう?
僕はまだあるはずの才能を見つけきれていないだけだ。
いつかジョジョのスタンド能力のように発現し、僕は成功者になるはずだ。
そう思うだけで、何も実行しなかった。
若い人を見ると羨ましい。
彼らにはまだまだ未来がある。
幼い子どもを見て、この子が二十歳になった時、自分はいくつなんだろう?と思うことがある。
けれども、自分が若い時はどうだったか?
まだまだ時間がある、そう思っていた。
だって自分は若いのだ。
本に書いてある成功者の年齢と比べればまだまだある。この時、自分と同年代の有名人は排除している。自分よりもうんと年の離れた人だけを見て先延ばしをしていることに僕は気づいていない。
いつかはきっと。
そう思って頭の中で夢想し、「いつか」は「後で」になり、明日になり、永遠にその「いつか」は訪れなかった。
そんな僕が今はこうしてnoteを書いている。
先ほど投稿履歴を覗いてみた。
毎日つぶやき投稿をして、たまにはこうして長めの文章を書いてきて、約3年が過ぎていた。気づいたら、もうそんなになるんだな。
全期間の投稿をふりかえってみると、いつしかとんでもない数になっている。
飽き性の僕が、よくもまぁ続いたものだ。
一体、何があったのか?
気になる人がいるかもしれないので思うままに書いてみる。
僕はある日、本屋さんでnoteについて書かれた本を目にした。
グリーンをベースにシンプルな、そしてどこか学生時代を思い起こさせてくれるnoteというネーミングにふと気になって立ち読みをした。
その時は、ふーん、今は記事単体でも有料にできるブログみたいなものがあるんだなぁ。それが僕の感想だった。
なぜ、その時その本が気になったのか?と考えてみると、そう言えば僕はほんの少し前にはてなブログを始めていた。
正確には、かつていろんなブログをやっていて(と言ってもほとんど誰にも読まれなかったけど)そのうちの一つである、はてなブログをちょっとだけ再開していたのだ。
でも当たり前だけど、誰も読んではくれない。
ただ、僕はそれで良かった。
ちょうどその頃、僕は仕事のことでいろいろと悩んでいて、どこかに全く関係ないことでも自分の意見を書くことができる場所が欲しかったのだ。
おそらく、あまりにも文章を書かなかったので、書きたいという意欲がたまっていたのだと思う。
そんな折に、noteという存在を知った。どうにも気になって結局その本を買い、読んでいくうちに何だか楽しそうだなと思って始めてみた。今ではプレミアム会員になって、こうして文章を書いている。
出会いとは不思議なものだ。あの時、僕がnoteを知らなかったら、今の僕はいない。たぶん、またブログを辞めてしまって、悶々の日々に戻っていたような気がする。
さてnoteに何か書いてみたいと思って、はじめのうちはブログの過去記事をコピペしてみたのだけど、すぐにネタが尽きてきた。
今の時代に合わないもの、その時の気持ちが戻らないもの、とにかく今書くことが思い当たらない。せっかく始めたのに、何か変わるきっかけになりそうな気がするのに書くことが無い。
ちょうどその頃、読書好きな僕が、何の本を読んでいいのか分からなくなってしまったことも重なっていた。
僕は小学校の頃からミステリ小説が好きだった。
江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを図書室で借りては、漫画を読むように夕暮れ時におやつを食べながら汚い手でページをめくっていた。
本の中の少年たちのように怪人にさらわれるかもしれないと本気で思い、自分なりに集めた探偵グッズを持ち歩く、空想癖全開のなかなか痛い子どもだった。
中学生時代は、赤川次郎さんにハマった。
特に三毛猫ホームズシリーズが好きで、あれは「さんもうねこ」ではなく「みけねこ」と読むんだよと友達に言われた時の小っ恥ずかしさは今でも忘れられない。
当時は3日に1冊くらいのペースで赤川次郎さんの作品を読みあさっていたと思う。その頃他にハマった作品は星新一さん、読書あるあるだ。
星新一さんに関しては、最近また熱が再燃し、電子書籍を大人買いして、今では1冊読み終えるごとに音声配信を残している。まだ4冊目であと30冊もあるんだけれど、少しずつでも読んでいって残していきたい。
大学生の時は、もっといろんな作品が読みたいと、とにかく海外の有名なミステリと賞を取っている人の作品をたくさん読んだ。
そして、社会人になった。
とりあえずミステリ小説だけを読んでいても単なる読み物として終わりそうだったので、もう少し実生活にも役立ちそうな本はないかなと思い始めた。そこで、竹内均さんが好きだった僕は、訳書の『自助論』を読んでみた。
self-help 自助の精神
「天は自ら助くるものを助く」から始まるこの本は、当時の若者に国を支えるのは一人一人の人生を全うする事というテーマで、あらゆる人の体験談が書かれた本であり、僕にとってはバイブルになり、今でも時々読み返す。
それからは、ナポレオン・ヒルの名著『思考は現実化する』を読んでみたり、
スティーヴン・R・コヴィーの『7つの習慣』を買ってはみるものの、途中で挫折したり(今では読み終えて、やはり名著だと思います)
流行りのベストセラーを読んでみたり、ミステリ小説では森博嗣さんにハマってみたり、
そんな時にビジネス系YouTuberが流行りだして、メンタリストDaiGoさんやイケダハヤトさん、サラタメさん、マコなり社長、鴨頭さん、西野亮廣さん、岡田斗司夫さんなど、いろんな方の考えに触れるようになって、
いつまで自分はベンチを温めているのだろう?と真剣に思うようになりました。
フェンスの網目越しから他人の活躍ばかりを傍観し、憧れとやっかみと焦りと老いと。おまけに腰痛も出始めて(笑)
座りっ放しの自分にほとほと嫌気がさしたのです。
大した努力もせずに、頭だけはデッカくなって、他人の批評だけは一端に気取る。
お前はまだ走ってもいなければ、シューズすらも履かず、道具代が無いから、もう若くはないからと言い訳だけにはクリエイティブな能力を発揮するつまらない人間。
アドラー心理学では、それを目的論と呼んでいます。
『嫌われる勇気」を読んだ時、ああ、これはまさしく僕のことだと思いました。
お金が無いからできないに代表されるようなトラウマのせいにして(フロイトの原因論)何も始めない僕は、たとえお金があったとしてもまた別の何かの理由をこしらえて、若くない、才能がない、と結局はやりたくない(という目的)を正当化し、時間を無駄に過ごしてきたのです。
考え方や価値観が変わる本に出会えた時(出合えたよりさらに強い気持ち)僕は読書に救われたと心から感激します。
おそらくこの時から僕の読書に対する姿勢が変わったのでしょう。
学び直しの始まりです。
今までの僕は読書こそしてきましたが、読んだそばから忘れていく読み捨ての読書でした。
最近読んだ本に落合陽一さんの『忘れる読書』があります。
かいつまんで言うと、忘れていった内容のいくつかが自分の中に残り、混ざり合って初めてその人だけの考えになると言った内容です。
その意味では、僕がこれまで無駄にしてきたと思った数々の本の内容も何かしら僕の中に溜まっていて、いつか発芽するのでしょう。
読書をしてきた効用として、僕が言えるのは、選書力かな。
自分に合う本は何か?
今の自分の悩みに一筋の光をもたらしてくれるかもしれない本はどんな本か?
類は友を呼ぶように本は本を呼びます。
自分が好きな本、あるいは自分が強烈に嫌な本には心を動かす何かがあります。
人にいくら本を薦めても、大抵は心に響きません。
なぜならその本は、僕の心をざわつかせた本であり、あなたの本ではないからです。参考程度にはなっても、あなたの本になるのかはあなたにしか分かりません。
それでも僕は僕がいいなと思った本をこうして紹介しています。
少しでも誰かの気づきになれば嬉しいからです。
でも本当は、その本を読んだあなたの感想を僕は聴きたいのです。
人に本の内容を紹介するということは、その人の主観が入ります。
僕は僕の言葉で中身を温め直し、作り上げた料理にはいろんな具材が混ざっています。ただのあらすじだったら、書いていても楽しくありません。それはいずれAI技術が山ほど生成してくれることでしょう。
そんな夾雑物をあなたなりに取り除いたものが残る読書なのだと思います。
僕がnoteを始めて約3年、それ以外にもYouTubeやstandfm(音声配信)などいろいろと試してきました。
これと言った結果は出ていませんが皆無ではありません。ごくたまにですが、感謝されることもあります。
そんな僕がいろいろと試行錯誤してみて、分かったことがあります。
それは自分の思ったことを表現するのは、苦しくも楽しいということです。
ある本を読んで面白いなと思った時、僕はこれをどう伝えようかと考えます。
伝えたい内容がまとまったら、noteで文章にするのがいいのか、動画や音声配信がいいのかと考えるようになりました。
動画を初めて作った時は、どうしていいか分かりませんでした。何のソフトがあるのか、どんな機材がいるのか。編集ソフトやマイク、オーディオミキサーなるものをネットで調べながら、いくつか買っては失敗し、現在があります。
その中で客観的に自分を見つめるという経験はかけがえのない財産になりました。
自分では明るく話しているつもりでも、声が小さい、抑揚がない、そもそも何を言っているのか話が明確でない、無駄な相槌が多い、今でも日々勉強中ですが、始めた頃より改善されてきたという実感はあります。
こうして僕は、自分の中で誰かに伝えたいものが表現できる場所を見つけましたし、これからも何かのSNSを通じて自らの理想に近づくために模索していきます。
データだけで見れば、誰も見ていないに等しいです。
でも、僕はそれを失敗だとは思っていません。むしろ、その経験が後につながる途上にあるのだと思っていますし、実感しています。
『嫌われる勇気』の中には、「お前の顔を気にしているのはお前だけ」という言葉が出てきます。
これは対人関係の中に競争を持ち出し、縦の関係に固執するよりもみな横並びで前を目指して歩いていこうよという考えの根底にある戒めです。
他人の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れずに勇気を持って、自分の人生に向き合い、互いに人生を歩んでいく。
誰かを評価するということは、縦の関係であり、承認欲求はそれを妨げるものである。
ざっくりとですが、こういったアドラーの考え方は僕にとっては衝撃でした。
だって、親や先生・上司に評価されるのが組織社会ですから。
もちろんだからと言って、自己主張だけを通そうというのではありません。
ここからは、実際にお読みになって自分の本棚の一冊になったとしたら紹介した甲斐もあります。
冒頭の堀江貴文さんの言葉もまさにそれではないでしょうか?
自分が失敗だと思うものは、誰も失敗だと認識すらしていないのだから、それは失敗ではない。成功はその先にあるけど、諦めた時に試合は終了する。もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、あなたが今やっていることは本当にやりたいことだろうか?
いろいろ混ぜたな〜。
まぁ、ひとことで言えば、自意識過剰ですよね。
誰も自分のことなど、自分以上には見ていません。
僕は今いろんなSNSを使いながら、自分の意見を残していっています。
誰も見ていなくても、僕はあえてみなさんの見えるところに残しています。
それは備忘録のためであり、適度な緊張感を保つためであり、未来の自分の考えのベースになるものをすぐに見られるようにしたいからです。
つまりは、自分のためです。
そして、ほんの少しでも誰かにおすそ分けできるものがあったのなら、こんなに嬉しいことはない。
SNSを利用している以上、多くの人に褒められたいという承認欲求を否定することはできません。
僕が表現していて楽しいことが誰かの心の一部になったとしたら、僕はとんでもなく嬉しい。
そしてまた、誰かのおすそ分けが僕の一部となって共に前へ進んでいけるのなら、僕の人生は、孤独で、空疎な色の無いものではなく、その瞬間だけでも生きていて良かったという温かい気持ちに包まれるのです。
その繰り返しが自分の人生を形作っていくのだと、今の僕はそう思っています。
僕は本当に恵まれた環境に生きています。
これまで失敗らしい失敗をしたことは無く(というのは何もやらなかったということの裏返しでもありますが)今のところは平穏な生活です。
落ち込んだりもしたけれど僕は元気なのです。
たとえば『夜と霧』のような本を読むと、理不尽な時代に生まれなかったことに幸せを感じずにはいられません。
今こうしてあなたに文章を読んでもらえること、自分の好きなことを自由に書ける喜び、日々経験する様々な思い、その全てを大切にすることが生きていることなのだと思います。
もしも僕から若いみなさんにアドバイスできることがあるとすれば、
年を取ったって、悩みはそんなに変わらないよ。成功している人ばかりじゃないけど、何とか自分の楽しいことを見つけて生きていこうよ。そんな感じかな(笑)
お金があればできることというのは確かにあります。
僕のように一人で生きている人間ならまだしも、家庭があれば金銭的な問題はどうしても付きまといます。
でもね、でもよ。
まずは自分の人生に向き合わないと何も始まらないし、何も始められない。
心のバランスは健康と共に大事なものです。
人の評価を気にしているうちはまだ自分の応援席のド真ん中に立っていないんだ。本当に自分を応援するのなら、人生について悩んでいる暇なんて無いはずなんだ。
瞬間的には楽しいと認識するかもしれない、でも楽しかったと思った時、もうそれは終わっている。
あなたが落ち込んでいる時、あなたを一番励ましてくれるのはかつてのあなたです。
あの時あんなに打ち込めた。
あの時の辛い自分に比べれば、今の自分なんて大したことはないじゃないか。
あなたの力になってくれた人がいた。
あなたを支えてくれる文章があった。
自分で自分の背中をなでることは物理的には不可能でも、頭の中ならできます。
愛する人、愛するもの、大切にしたいものを一人で背負いながら歩んでいく。
人は孤独です。でも、孤独と向き合うことでしか自分も人も支えられません。
孤独と向き合った人は強い。そういう人は必ず誰かの力になります。
noteに文章を書く時、あなたは孤独です。でもたくさんの孤独がつながると優しい気持ちになれます。あなたも僕も同じなんだと。
人を批評することに時間を費やすなんてもったいない!
どうせなら、僕は誰かにおすそ分けすることに時間を使いたい。
自分が何をしていいか分からない。
だけど、僕には何かやりたいことがあるはずだ。
そんな若かった自分に言ってやりたい。
とにかく、今やりたいと思っていることを少しでもいいから始めろ!と。
野球がしたい?
道具を揃えるお金が無い?
100円のゴムボールくらい買えるだろ!
相手がいない?
壁にボールをぶつけてみたら?
そのうちどうしてもやりたくなって、ネットで仲間を探すかもしれない。
たとえ一流選手にはなれなくても、ボールを投げるくらいはできる。
投げた自分はきっと楽しい表情をしているよ、と。
長くなりました。
若者に説教じみたことを言うおじさんにだけはなりたくないと思っていたのに、いつの間にかそんなおじさんになってしまったただの戯言です。
ここに書いていることは自戒です。笑いたければ笑うがいいさ。
最後に僕の大好きな歌詞を書いて終わりにします。
スキはログインしていなくても押せます!ワンちゃんでも押せるほど簡単です。励みになりますので、ここまで読んでくれた記念に押して下さい。いくつになっても勉強は楽しいものですね。サポート頂いたお金は本に使いますが、読んでもらっただけでも十分です。ありがとうございました。