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お札の顔が渋沢栄一さんに変わる前に学ぶこと。

どーも!福沢諭吉さんが財布の中にあると安心するはずスラです。

福沢諭吉さんの代表作と言えば、何と言っても『学問のすすめ』ですね。

でも、タイトルとイントロの一節しか知らない方は多いのではないでしょうか?

そこで、今回は福沢さんがすすめた学問とは何か?について一緒に学んでいきたいと思います。

とは言え、明治の文章はもはや我々には古語に近いので、今回は現代語訳としてこちらの本から引用させて頂きます。


現代語訳『学問のすすめ』福沢諭吉著 檜谷昭彦訳 知的生きかた文庫より

まず、冒頭の一節は誰でも知ってますね。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

ここだけ見ると、人には上下の身分差なんて無いんだよという諭吉さんの意見に見えますが、

その後は、

「ーといへり。(と言われている)」

と続きます。これはアメリカの独立宣言を意訳したものといへり、です(笑)

つまり、諭吉さんが考えたことではないんですね。

その後はこう続きます。(以下は、抜粋です)

つまり、天が人間を生み出した時から、万人は皆同じ地位・資格を持ち、生まれながら平等であるということだ。尊いとか賤しいといった身分上下の差別などない。

しかし、広く人間社会を見渡すと、賢愚・貧富さらに貴族や身分の低い人など人間の暮らしにはまさに雲泥の差がある。

明治の初期の大ベストセラーですから、士族が廃藩置県により、仕事を失ったとは言え、まだその名残はあったのでしょう。ここで、諭吉さんは疑問を投げかけます。

なぜなのだろう?

さらに、

その理由は誠にはっきりしている。

『実語教』という修身の本には、「人、学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」(学問をしなければ才能が備わらない。知恵なきものは愚か者である)とある。

つまり、智人と愚人の違いは、学ぶか学ばないかによって決まるのである。

身分の差ではなく、「学ぶ」ことで差が生まれているというわけです。

だから、「学問」をすすめるのですね。

では、諭吉さんの言う「学問」とはどういうものなのでしょうか?

学問とは、ただ難しい文字を知ることではない。

わかりにくい古文や和歌を読み、詩を作るような、世間に役たたぬ学問を指しているのではない。

これ、初めて読んだ時はびっくりしました。

貴族のたしなみとしての和歌とか、風流とかそういうものを大事にしろという儒教精神の話かと思っていたからです。でも、諭吉さんはそんなものは役に立たないとぶった切ります(笑)

いま、われわれが学ぶべきものは何か。

現実的でない学問は二の次にしてまずやらねばならぬのは日常業務に必要な実用の学問である。

この学問が身についてこそ、それぞれの立場で自分の務めを果たし、家の仕事を営むことができるのである。それが「一身の独立」である。ひいては家の独立であり、国家の独立につながるのである。

個人としての一家の独立が国家の独立につながるという訳ですね。サミュエル・スマイルズの『自助論』でも国民の意識の向上が正しい国家を創るとありますよね。

この頃、日本は鎖国を解かされ、外国からの侵略に怯えつつ、自国を守るためにも富国強兵を目指し、西洋文明に追いつこうと必死でした。そこで実学という考えが生まれるわけです。

渋沢栄一さんがパリで行われた万国博覧会に衝撃を受け、日本に資本主義の礎を創ろうとした時代ですね。

少し前まではお侍さんがふんぞりかえっていた時代でしたが、
 

日本の人民には、生まれる前から決まっているなどと言う古い身分制度は、なくなったのである。今後は自分の才能と品格、自己の立場によって人間の地位が決まるのだ。

今となっては当たり前の考えですが、ここから始まってるわけです。

そして、学問とは単に実学にとどまらず、もっと広い意味だと定義します。

学問と言う語は意味が広く、抽象的・具体的両方の意味がある。

その目的はみな、知識・見聞を広め、物の道理を理解し、人間としての責任を自覚することにある。

知識・見聞を広めるためには他人の意見を聞き、自分の考えを深め、書物も読まなければならない。

だから学問をするには当然文字を知る必要があるが、昔の人が考えたように、文字を知ることが学問だと言うのは大きな間違いである。

文字は学ぶための道具であり、建築に使うトンカチやノコギリと同じだ。それらは家を建てるのに欠かせぬ道具だが、その名前だけ知っていても、家を建てようとしないものは、大工とは言えない。

同様に文字を知っていても、物の道理を十分に心得ぬものは、学問に志す人間とは言えない。

ことわざにある「論語読みの論語知らず」である。

つまり、世を渡るのも学問であり、商売の帳簿をつけるのも、時代の情勢を見極めるのも学問なのである。単に和漢洋の書物を読むことだけが学問ではないのだ。

読書好きの僕には耳が痛いですが、本を読むことだけが学問じゃないよと言ってるわけです。読書はあくまでも学問の一部だと。

学問は、ただ本を読むだけで事足りるものではない。学問の本質は、学問を自分がどう活用できるかにかかっている。現代社会に応用できないような学問をしていては、無学と言われても当然である。

ところで、諭吉さんのお父さんは福沢百助と言い、学もあったのですが、身分格差により、世に出ることはありませんでした。諭吉はそういう世の中が嫌いでした。

そこで、彼はそんな世の中を痛烈に批判します。

徳川幕府の世では、政府をお上様と崇めていた。お上の御用と言うことで、旅中の宿の代金はタダだし、権力をかさに着て、渡し場に銭は払わず、人足に賃金を与えず、逆に酒代をとることさえあった。

話にもならない。

大名や役人の思いつきで費用がかさみ、財政が苦しくなると税金を多くとり、それを「御国恩に報いる」と言った。

「御国恩」とは何か。人民が平和に生活でき、悪人の心配もなく世渡りができることが、政府の御恩と言いたいようである。

しかし、法を設け人民を保護するのは、政府の商売であり当然の義務である。それは御恩ではない。もしそうだと言うなら百姓町人は年貢や税金をもって人民の御恩だということになる。

どちらも互いに恩を受けているのだ。一方だけが礼を言い、他方が礼を言わぬ理屈はない。

なぜこんな悪い習性ができたのか。

それは人間平等の精神を誤り、貧富強弱の差を悪用し、政府が権力の勢いで、弱い人民の権利を妨げたからである。

人間たる者は、常に平等の資格と権利を持つと言う精神を忘れてはならない。これがもっとも大切なことなのである。

今すぐにでも学問に志し、才能と品格を磨き、政府に対抗して、同等の資格と地位に立つだけの実力を持たねばならないのだ。これが私のすすめる学問の目的である。

そして、この「学問」さえ頑張れば、誰でもチャンスはあるよ!という思想が当時の若者の心に響き、みんなこぞって上京することになるのです。

学生の時は、勉強しろ!って小うるさい本かなと思って読みもしませんでしたが、ちゃんと独立して食えるようになれ、って本だったのですね。

これって、現代で言えば、今の世の中、会社に依存するだけじゃ安心できないよね。みんなもいろいろと考えたでしょ?だから、食うためにも学びなよ、って感じの本だと思います。

もっとも、諭吉さんはあくまで日本のことを憂いているので、国民が学問を志し、個人の独立を図れば、日本が強くなり、列強諸国にも対抗できるという、国家独立につながる思想として書いているのですが。

現代の日本は危うい立場とは言え、一応独立していますよね。しかし、国力は下がり傾向。それはなぜかと言えば、個人の力も落ちているからです。

国家は国民に力があってこそ元気になります。

そのためには、一人一人が自己修養に努め、経済力をつけるしかないというわけです。

その後は、自らの資質を活かし、法律を守り、政府に政治を任せ、一身一家の生活の安定だけで満足せず、社会に貢献しようという主張が続きます。

学問を現実社会に活用するにはどうすればいいのか?について、諭吉さんはこう言っています。

オブザベーション(observation)とは物事を観察することである。リーズニング(reasoning)とは物事の道理を推測して、自分の考えを作ることである。

だが、この2つの工夫だけでは、学問研究の方法として完全ではない。本も読まねばならぬし、著作もせねばならぬ。人に意見を述べ、議論もせねばならぬ。

以上、すべての手段を尽くしてこそ、学問研究をしていると言えるのだ。

すなわち、観察・推論・読書は知識を蓄積する手段、議論は知識交換の、そして著作・演説は知識を広める手段なのである。

これらの中には個人の努力でも上達できるものがあるが、議論と演説については、どうしても相手が必要である。こうして演説会が必要になるのである。

蘭学でオランダ語を学ぶも、世の中は英語の時代。いち早く時代の流れを読んだ諭吉さんは、オランダ語を介して、独学で英語を学びました。今では簡単に辞書で調べれば意味が分かりますが、言葉は単なる置き換えに過ぎません。

日本に新しい概念を作る難しさもあったことでしょう。

そんな実体験を基に、自分の目で見て、耳で聞き、自分の頭で考え、本を読んで知識をインプットし、人と話しながら、世に発表するアウトプットの大切さを説いています。

この時代、著作物を出すなんてスーパーエリートだけだったでしょうが、今の我々はこうしてネットに書き込み、オンラインで人と話すこともできます。環境は恵まれているのに、学びは薄いと嘆かれそうですね。

僕たちの恵まれた環境は、先人たちの遺産によって成り立っています。諭吉さんに依るとー

親から譲り受ける財産を遺産と呼ぶ。だが、遺産はせいぜい土地や家財にとどまり、ひとたびこれを失えば跡形もない。

しかし、文明はそうではない。

祖先全体を一人の人間とみなせば、その人がわれわれ人間全てに譲ってくれた遺産なのだ。この遺産は莫大で、土地や家財とは比べ物にならない。

人類の歴史がようやく始まった頃は、まだ人間の知恵も十分に発達してはいなかった。ちょうど、生まれたばかりの赤ん坊に知恵の発達がみられないのと同じだ。

西洋諸国の文明の進歩は素晴らしく、まさに日進月歩の勢いだ。電信、蒸気汽関、その他の機器は、世に出るとすぐに改良され形を変えていく。

有形の機械だけが新奇なのではない。

人間の知識が深まれば、それに伴って交際も広くなる。交際が広くなれば、人間の心も広く穏やかになる。

国際法の効力が一般化すれば、軽率に戦争を起こす国もなくなる。経済学の議論が高まれば、政治・経済の仕組みも変化する。

学校制度、書物の体裁、政府の方針、議会での政策の決定、みな改まり水準が向上する。その進歩は計り知ることもできない。

ためしに西洋の歴史書を開いてみたまえ。そして、人類の始まりから17世紀までを読んでみよう。次に200年飛んで、19世紀を開いてみたまえ。文明の進歩の早さに驚かぬものは、まずいないだろう。

それが同じ西洋の歴史とは、到底信じられないことだろう。

この進歩の原因は何か。

それこそ全て、古人の遺産であり、先人がわれわれに残した恩恵なのである。

昔から多くの有能な人物は、心労を重ね世のために力を尽くしてきた。その彼らの心中は、ただ生活の豊かさだけを求め、それに満足するものだっただろうか。

そんな事はない。

彼らは社会における人間の義務を重んじ、高く大きな理想を抱いて努力したのである。

現在、学問に励む者はみな、こうした先人たちの遺産を受け継いで、進歩の先端に立っていられるのだから、さらに文明の発展に尽くすべきであり、そのためにはどんなに努力しても足りることなどない。

そして、われわれが先人に捧げた、この感謝の念を、数十年後の社会の人々から、同じようにわれわれも受けたいものである。

まとめれば、われわれの責務は、現代社会に活動の跡をいきいきと遺し、これを遠い後代に伝えようとすることにある。

なんと広くて深遠な考え方でしょう。ついこの前まで国内の争いで覇権を争っていた小国の島国で育った人が、世界だけでなく人類全体の文明まで考えているなんてスゴイ!

そりゃ慶應義塾で学びたいと思いますよね。今の大学生とは熱意も違います(笑)

さらに諭吉さんがスゴイのは、西洋文明だけを学んでいてもダメだよ!と論じている点です。

現在の進歩主義者が、日本の旧習を嫌って西洋の文明を文物をことごとく信用するのは、実に軽率の極みである。日本の旧習を盲信し、欠点までも真似しようとしているのだ。

だからといって、日本のあらゆる現状が今のままで良いのかと考えると、極めて疑わしい。新しい西洋の思想や文物がどんどん流入する、新旧混乱の世の中で、西洋と日本の文明を比較し、信ずるに足るものを信じ、疑わしい点に疑問を持ち、どれを取り入れ、何を捨てるか、正しく選ぶことが大切なのである。

福沢諭吉という人はどこまでも学びに貪欲な人でした。世の中が西洋社会に憧れを持っている中で、こんなに冷静なバランス感覚を持っている人ってどれだけいたでしょうか?

思えば、日本人は元々いいとこ取りを自分流にアレンジするのが得意です。

野中根太郎さんの『老子』のあとがきにもこうあります。


日本人の一番の特質は、諸外国(それは中国であろうと西洋であろうと)の良いと思われるものを取り入れて、うまく咀嚼の上、自分たちのものにしていくことであると思う。論語も受験のための勉強ではなく、私たちの道徳にして血肉化させていったのである。

だから日本人は八百よろずの神を信じるし、今でも仏教や儒教も尊重し、また西洋の学問も学ぶことが定着している稀有な国なのである。クリスマスを祝った上で正月には神社に詣でるのが自然となっている面白い人々である。

そもそも日本人は漢字から仮名を作り、漢字と仮名を併用してきた。漢字と仮名の表音文字や表意文字双方の利点を生かし、柔軟で幅広い思考ができることになったことで日本人の特質をさらに伸ばしていった。

この後、「老子」を祖とする道教が、中国から入ってきた仏教に影響を与え、日本独自の仏教が普及したと続くのですが、それはともかく。

僕は日本語っていろんな表記があって面白いなーといつも思います。ふりがなの文化ってのも面白いですよね。

僕がよく使っている電車のホームの看板には高圧電流という文字が書いてあるのですが、その上のふりがなには、「あぶないでんきがながれています」と書いてあって、子どもにも分かりやすいなと感心すると共に、日本語ならではの表記だなと面白がってもいます。

外国の方にとっては、文字がありすぎて何これ?って感じでしょうが、これこそが日本人の学びの精神の表れではないかと思うのです。

先人の遺産をどんどん取り込み、より使いやすくアレンジし、次の世代へ受け継いでいく、時代の流れに合わせながら、ところどころ突き出している岩をつぶさに見つけ、ぴょんぴょんと飛び移る軽妙さこそが日本人の持ち味ではないかと思うのです。

だから僕は日本語が好きだし、そんな文字の並びがたくさん見られる本が好きなのでしょうが。

ところで『学問のすすめ』って本は、諭吉さんの人柄が見れて結構面白いですよ。先にも紹介しましたように、封建制度への批判もたくさんありますし、くだけた口調で国民に向けて問いかけるところや頭でっかちな学者への文句もあります。

諭吉さんにならえば、読書だけが学びではありませんが、現代人にとって読書はますます疎遠なものとなっています。それは学びの薄さにもつながり、実生活に役立てる機会も減っています。

孔子先生もこう言っています。

子曰く、君子はひろく文を学び、これを約するに礼を以ってすれば、また以ってそむかざるべし。

孔子先生は言われた。君子(立派な人)は、広く書物を読んで学び(こうして他者、先人に教養と学問をよく学び)、それを実生活で礼(儀作法)を失わないように実践していけば、正しい道(人生)を歩んでいけるだろう。<野中根太郎訳>

論語も、読まなければ活かしようがありません。

さしずめ現代は、「論語読まずの論語知らず」ですね(笑)

渋沢栄一さんは『論語と算盤』で有名なように、儒学を重んじましたが、諭吉さんは否定してるところがあるので、日本の国家を憂う気持ちは同じでも、2人の結びつきが感じられないのは、考え方の相違かもしれませんね。

読書とは人との出会いです。現実には到底会えないような有名人や過去のスーパースターにも会える時空を超えたタイムマシンです。

この人が現代にいたら、どう考えるだろうと思うと何だかワクワクしませんか?封印を解けるのはあなたしかいません。

福沢諭吉さんって、本当に学ぶのが大好きなんだろうなと思いました。

今回改めて読み直して、その気概に満ちた向上心を少し分けてもらえた気分です。

今日は何だか肌寒いですね。もっと紹介したい気持ちもありますが、キーボードを打つ指が冷たくなってきたので、お風呂に入って温まります。

読書の愉しみは自分だけのものですしね。もしお読みになって、何か気づきがありましたらコメントよろしくお願いします。

こんなに長い文章を最後まで読んで頂いて本当にありがとうございました。またです!


スキはログインしていなくても押せます!ワンちゃんでも押せるほど簡単です。励みになりますので、ここまで読んでくれた記念に押して下さい。いくつになっても勉強は楽しいものですね。サポート頂いたお金は本に使いますが、読んでもらっただけでも十分です。ありがとうございました。