お札の顔が渋沢栄一さんに変わる前に学ぶこと。
どーも!福沢諭吉さんが財布の中にあると安心するはずスラです。
福沢諭吉さんの代表作と言えば、何と言っても『学問のすすめ』ですね。
でも、タイトルとイントロの一節しか知らない方は多いのではないでしょうか?
そこで、今回は福沢さんがすすめた学問とは何か?について一緒に学んでいきたいと思います。
とは言え、明治の文章はもはや我々には古語に近いので、今回は現代語訳としてこちらの本から引用させて頂きます。
現代語訳『学問のすすめ』福沢諭吉著 檜谷昭彦訳 知的生きかた文庫より
まず、冒頭の一節は誰でも知ってますね。
ここだけ見ると、人には上下の身分差なんて無いんだよという諭吉さんの意見に見えますが、
その後は、
と続きます。これはアメリカの独立宣言を意訳したものといへり、です(笑)
つまり、諭吉さんが考えたことではないんですね。
その後はこう続きます。(以下は、抜粋です)
明治の初期の大ベストセラーですから、士族が廃藩置県により、仕事を失ったとは言え、まだその名残はあったのでしょう。ここで、諭吉さんは疑問を投げかけます。
さらに、
身分の差ではなく、「学ぶ」ことで差が生まれているというわけです。
だから、「学問」をすすめるのですね。
では、諭吉さんの言う「学問」とはどういうものなのでしょうか?
これ、初めて読んだ時はびっくりしました。
貴族のたしなみとしての和歌とか、風流とかそういうものを大事にしろという儒教精神の話かと思っていたからです。でも、諭吉さんはそんなものは役に立たないとぶった切ります(笑)
個人としての一家の独立が国家の独立につながるという訳ですね。サミュエル・スマイルズの『自助論』でも国民の意識の向上が正しい国家を創るとありますよね。
この頃、日本は鎖国を解かされ、外国からの侵略に怯えつつ、自国を守るためにも富国強兵を目指し、西洋文明に追いつこうと必死でした。そこで実学という考えが生まれるわけです。
渋沢栄一さんがパリで行われた万国博覧会に衝撃を受け、日本に資本主義の礎を創ろうとした時代ですね。
少し前まではお侍さんがふんぞりかえっていた時代でしたが、
今となっては当たり前の考えですが、ここから始まってるわけです。
そして、学問とは単に実学にとどまらず、もっと広い意味だと定義します。
読書好きの僕には耳が痛いですが、本を読むことだけが学問じゃないよと言ってるわけです。読書はあくまでも学問の一部だと。
ところで、諭吉さんのお父さんは福沢百助と言い、学もあったのですが、身分格差により、世に出ることはありませんでした。諭吉はそういう世の中が嫌いでした。
そこで、彼はそんな世の中を痛烈に批判します。
そして、この「学問」さえ頑張れば、誰でもチャンスはあるよ!という思想が当時の若者の心に響き、みんなこぞって上京することになるのです。
学生の時は、勉強しろ!って小うるさい本かなと思って読みもしませんでしたが、ちゃんと独立して食えるようになれ、って本だったのですね。
これって、現代で言えば、今の世の中、会社に依存するだけじゃ安心できないよね。みんなもいろいろと考えたでしょ?だから、食うためにも学びなよ、って感じの本だと思います。
もっとも、諭吉さんはあくまで日本のことを憂いているので、国民が学問を志し、個人の独立を図れば、日本が強くなり、列強諸国にも対抗できるという、国家独立につながる思想として書いているのですが。
現代の日本は危うい立場とは言え、一応独立していますよね。しかし、国力は下がり傾向。それはなぜかと言えば、個人の力も落ちているからです。
国家は国民に力があってこそ元気になります。
そのためには、一人一人が自己修養に努め、経済力をつけるしかないというわけです。
その後は、自らの資質を活かし、法律を守り、政府に政治を任せ、一身一家の生活の安定だけで満足せず、社会に貢献しようという主張が続きます。
学問を現実社会に活用するにはどうすればいいのか?について、諭吉さんはこう言っています。
蘭学でオランダ語を学ぶも、世の中は英語の時代。いち早く時代の流れを読んだ諭吉さんは、オランダ語を介して、独学で英語を学びました。今では簡単に辞書で調べれば意味が分かりますが、言葉は単なる置き換えに過ぎません。
日本に新しい概念を作る難しさもあったことでしょう。
そんな実体験を基に、自分の目で見て、耳で聞き、自分の頭で考え、本を読んで知識をインプットし、人と話しながら、世に発表するアウトプットの大切さを説いています。
この時代、著作物を出すなんてスーパーエリートだけだったでしょうが、今の我々はこうしてネットに書き込み、オンラインで人と話すこともできます。環境は恵まれているのに、学びは薄いと嘆かれそうですね。
僕たちの恵まれた環境は、先人たちの遺産によって成り立っています。諭吉さんに依るとー
なんと広くて深遠な考え方でしょう。ついこの前まで国内の争いで覇権を争っていた小国の島国で育った人が、世界だけでなく人類全体の文明まで考えているなんてスゴイ!
そりゃ慶應義塾で学びたいと思いますよね。今の大学生とは熱意も違います(笑)
さらに諭吉さんがスゴイのは、西洋文明だけを学んでいてもダメだよ!と論じている点です。
福沢諭吉という人はどこまでも学びに貪欲な人でした。世の中が西洋社会に憧れを持っている中で、こんなに冷静なバランス感覚を持っている人ってどれだけいたでしょうか?
思えば、日本人は元々いいとこ取りを自分流にアレンジするのが得意です。
野中根太郎さんの『老子』のあとがきにもこうあります。
この後、「老子」を祖とする道教が、中国から入ってきた仏教に影響を与え、日本独自の仏教が普及したと続くのですが、それはともかく。
僕は日本語っていろんな表記があって面白いなーといつも思います。ふりがなの文化ってのも面白いですよね。
僕がよく使っている電車のホームの看板には高圧電流という文字が書いてあるのですが、その上のふりがなには、「あぶないでんきがながれています」と書いてあって、子どもにも分かりやすいなと感心すると共に、日本語ならではの表記だなと面白がってもいます。
外国の方にとっては、文字がありすぎて何これ?って感じでしょうが、これこそが日本人の学びの精神の表れではないかと思うのです。
先人の遺産をどんどん取り込み、より使いやすくアレンジし、次の世代へ受け継いでいく、時代の流れに合わせながら、ところどころ突き出している岩をつぶさに見つけ、ぴょんぴょんと飛び移る軽妙さこそが日本人の持ち味ではないかと思うのです。
だから僕は日本語が好きだし、そんな文字の並びがたくさん見られる本が好きなのでしょうが。
ところで『学問のすすめ』って本は、諭吉さんの人柄が見れて結構面白いですよ。先にも紹介しましたように、封建制度への批判もたくさんありますし、くだけた口調で国民に向けて問いかけるところや頭でっかちな学者への文句もあります。
諭吉さんにならえば、読書だけが学びではありませんが、現代人にとって読書はますます疎遠なものとなっています。それは学びの薄さにもつながり、実生活に役立てる機会も減っています。
孔子先生もこう言っています。
論語も、読まなければ活かしようがありません。
さしずめ現代は、「論語読まずの論語知らず」ですね(笑)
渋沢栄一さんは『論語と算盤』で有名なように、儒学を重んじましたが、諭吉さんは否定してるところがあるので、日本の国家を憂う気持ちは同じでも、2人の結びつきが感じられないのは、考え方の相違かもしれませんね。
読書とは人との出会いです。現実には到底会えないような有名人や過去のスーパースターにも会える時空を超えたタイムマシンです。
この人が現代にいたら、どう考えるだろうと思うと何だかワクワクしませんか?封印を解けるのはあなたしかいません。
福沢諭吉さんって、本当に学ぶのが大好きなんだろうなと思いました。
今回改めて読み直して、その気概に満ちた向上心を少し分けてもらえた気分です。
今日は何だか肌寒いですね。もっと紹介したい気持ちもありますが、キーボードを打つ指が冷たくなってきたので、お風呂に入って温まります。
読書の愉しみは自分だけのものですしね。もしお読みになって、何か気づきがありましたらコメントよろしくお願いします。
こんなに長い文章を最後まで読んで頂いて本当にありがとうございました。またです!
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