自由の牢獄
タイトルは知っているけど、いつか読もうと思って読んでみたら、またいつか読みたいと思える素敵な本に出合えましたシリーズ。
ところで、いつも迷う表現が、
「出会う」と「出合う」です。
本と「出あう」場合は、出合うが正しいのかもしれないけど、僕としては書いた人に出会うという感じなので、どうも出合うに違和感を覚えます。
どっちでもいいじゃないかと思えばそれもそれですが。今日は出合うにしてみました。
さて、
本を読んでいると、自分が漠然と考えていた事がすでに誰かに言葉として表現されていてびっくらこいたという経験は少なからずあります。
まぁ、映画や歌でも、ああこの感じ分かるなぁと共感するアレですね。
そういう意味では、この『自由の牢獄』という話は、僕には頭をハンマーでガツンとやられた感があります。
若い時にありがちな、俺にしかわからねえゾ的な優越感を打ち砕かれたような。
つまりは、そういう感覚って結構みんな持ってるんだよと高みから引きずりおろされたような感じ。
そもそもこの本の存在を知ったのは、受験生時代のこちらの参考書にあった大澤真幸さんの「もうひとつの<自由>」という講演録です。
かいつまんで書くと、あまりにも選択肢が多いと束縛されてしまうという寓話です。
親に勉強しなさいと監視されていると目を盗んでゲームをしたくなるけど、いざ大学生になるとあり余る時間が足かせとなって、何をしていいか分からなくなるような状態。
君は何にでもなれると言われると逆に自分は何をしたいかと自問するアレ。
自分探しって、自分の中に何か無いと出てこないのに、何も貯めずに何かが湧いて出てくるような幻想に駆られるアレ。でも、こちらは探す事すらできないさらに前の段階。
目の前にどこでもドアがズラッと並んでいて、どこへでも行けるのにドアすら開けない状態。
まぁ、どこでもドアの場合は思い浮かべた所に行けるので一枚の扉だけでいいのだけど。思い浮かばずにドアノブに手もかけられない状態を描いているわけです。
で、そんなミヒャルエンデさんの代表作の一つが、
タイトルはよく聞くけど、ちゃんと読んだことなかったんですよね。
都会から外れた淋しい場所に、今ではすっかり廃墟と化したすり鉢状の劇場がひっそりとあります。
ある日、そこにくしゃくしゃの真っ黒巻き毛をしたみすぼらしい身なりの少女が住みつきます。
少女の名はモモ。
モモはとっても聞き上手で人々は少女の元に訪れ、話を聞いてもらううちに晴れ晴れしい気持ちになります。やがて評判は伝わり、どんどん人々が集まってきます。
ところが、ある日を境に人々は集まらなくなります。
モモはどうしてみんなが来なくなったのか理由を聞き出すために、人々を訪ね歩きます。
実はかつて廃墟を訪れた友人たちは、みんな目の前の忙しさに時間のゆとりを失くしていたのですが、モモと話すうちに昔の気持ちを取り戻し始めます。
まぁ、ここまではありそうな話だとゆったりした気持ちで読んでいたのですが、ここから物語はまるでドラえもんの長編映画に出てくるタイムパトロールとバトルするような展開になっていくのです。
黒の組織ならぬ灰色の男たちが登場します。彼らは人間の時間に対してある計画を企てます。
しかし、その計画を実行するには、モモという存在が邪魔である事に気づきます。
そこで、彼らはモモを孤立させる作戦に出ます。果たしてモモは彼らの人類に対する野望を阻止する事ができるでしょうか?
こんなに映像が頭に浮かぶ作品も珍しい。僕は基本的に文字から映像を展開できないタイプなので、論理だけを追いかける方なのですが、これはこのままアニメ化して欲しいくらい興奮しました。
児童文学おそるべし。侮るなかれ。もちろんこの作品も寓話です。
子どもの時に読んでいれば、きっとよく分からずにストーリーの面白さにひかれたと思いますが、今読むと時々本のページを閉じて考えたりするくらい読むのに時間のかかる作品でした。
印象深いところを抜粋してみると、
道路掃除のベッポさんがモモに語りかけるセリフ。
「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。
そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。
だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだ残っているのにな。こういうやり方はいかんのだ。
いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。
するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。
ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれていない。
これがだいじなんだ。」
なるほど。
あと、物語のある場面で出てくるなぞなぞ。
「三人のきょうだいが、ひとつの家に住んでいる。
ほんとうはまるですがたがちがうのに、
三人を見分けようとすると、
それぞれがたがいにうりふたつ。
一番うえはいまはいない、これからやっとあらわれる。
二ばんめもいないが、こっちはもう出かけたあと。
三ばんめのちびさんだけがここにいる、
それというのも、三ばんめがここにいないと、
あとの二人は、なくなってしまから。
でもそのだいじな三ばんめがいられるのは、
一ばんめが二ばんめのきょうだいに変身してくれるため。
おまえが三ばんめをよくながめようとしても、
見えるのはいつもほかのきょうだいの一人だけ!
さあ、言ってごらん、
三人はほんとは一人かな?
それとも二人?
それともーだれもいない?
さあ、それぞれの名前をあてられるかな?
それができれば、三人の偉大な支配者がわかったことになる。
三人はいっしょに、大きな国をおさめているー
しかも彼らこそ、その国そのもの!
そのてんでは三人はみなおなじ。」
今日もこんなネットの片隅の戯言にお付き合い頂いてありがとうございました。
書いている間は、夢中になって、あっという間に時間が過ぎていきますが、その時間が愛おしい。
そしてこれからも。
これがなぞなぞの答えです。
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