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ロスジェネ氷河期世代が50歳を迎える今、今と若き日のギャップを考察する


50歳を目前にして、ふと過去を振り返ることが増えてきた。若い頃、夜中まで友人たちと一緒に遊び、何も気にせずラーメンを食べに行ったり、徹夜で「桃鉄」や「ボンバーマン」に熱中した日々が懐かしい。徹夜でゲームをした後でも、翌日は元気に学校や仕事に行けた。エネルギーに満ち溢れ、体力的な限界など感じたことがなかった。そんな日々が、今ではまるで遠い昔の出来事のように思える。

若さの象徴だった「徹夜でゲーム」と「夜中のラーメン」

夜中にラーメン屋で友人と大笑いしながら食事をする光景や、みんなで集まってゲームの対戦に夢中になっていた時間は、当時の自由と若さの象徴だった。日常生活の中で、あの無邪気さと無限のエネルギーを感じられる瞬間は、特別なものだった。

夜通し続ける「桃鉄」や「ボンバーマン」の対戦は、ただの娯楽以上に、友人同士の絆を深める重要な場だった。勝ち負けにこだわりながらも、実際には笑い合い、悔しさも含めて楽しんでいた。あの頃の「ゲーム」というのは、単なるエンタメではなく、人間関係を強固にする装置だったのだ。

今は「年に1, 2回」しか会えない現実

ところが、今ではあの頃の友人たちと集まる機会は年に1、2回あるかないかだ。スケジュールを合わせるのも一苦労だし、体力的にも夜遅くまで起きていることが難しくなってきた。集まること自体が億劫に感じることさえある。かつての「いつでもどこでも」的な自由は、今や幻想のようだ。

また、友人たちと会っても話題は仕事や家族、健康の話が中心になり、昔のような無邪気なゲーム大会や徹夜の盛り上がりはもうない。自然と話のトーンも穏やかで、どこか静かになっている。そんな今の現実を受け入れながらも、心の中では「もっと気軽に遊べていた頃」が懐かしく、少し寂しい気持ちになる。

50歳を前に感じる体力の限界と社会的な制約

若い頃は、体力が無限にあるように思えた。しかし、年齢とともに体の変化を感じざるを得ない。少し遅くまで起きていると翌日には疲労感が残り、徹夜なんて考えるだけで恐ろしい。仕事のストレスや家庭の責任、健康の維持といった日常の問題が、自由な時間や遊びに対するモチベーションを抑え込んでいる。

50歳という年齢は、若さと老いの境界線に立っているように感じる瞬間がある。体力的にも精神的にも、以前と同じことができなくなっている自分に気づく瞬間は、特に友人たちと過ごす時間で顕著だ。昔は自然にできていたことが、今は努力や計画を必要とするのだ。

「仲間内で集まることの意味」は変わっていない

それでも、たまに友人たちと集まる時間は特別だ。集まる回数は減ったとしても、その時間の価値はむしろ以前よりも高くなっているように感じる。限られた時間の中で、昔話に花を咲かせたり、互いの近況を報告し合う瞬間は、どこか温かく、安心感を与えてくれる。

また、集まること自体がかつてよりも希少価値を持つようになり、友情の深さを再確認するきっかけにもなっている。年を重ね、生活環境が変わっても、友情そのものが失われたわけではない。むしろ、時間の流れの中で友人関係が成熟し、新しい形で深まっているのだ。

まとめ 寂しさの中にも、今を楽しむ意義

50歳を迎えるということは、過去を懐かしむ一方で、今の自分や環境を見つめ直すチャンスでもある。若い頃のようなエネルギーや自由な時間は失われつつあるかもしれないが、それに代わって得たものも多い。昔のように気軽に友人と集まることは難しくなっているけれど、その一度一度が特別な瞬間として心に刻まれる。

若さにしがみつくのではなく、今の自分と友人たちとの関係を楽しむことが大切だ。寂しさを感じる瞬間もあるだろうが、それは過去の自分と今の自分を比較する自然な感情だ。そして、その寂しさを抱えながらも、これからの人生の中で新しい楽しみを見つけていくことで、50代以降の生活も豊かなものにできるだろう。

ロスジェネ氷河期世代として、過去の輝かしい思い出を胸に、今を楽しみ、これからも友情を大切にしながら生きていくことが、何よりも大切なメッセージかもしれない。

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