やらない理由を探すと自己肯定感が下がる
コロナ後遺症になって72日目。
この病気になってから、もう何をするにも怖さが付き纏う。4日出かけたら4日寝込み(つまり1外出につき1寝込みがついてくる計算)、眠れない日々が1週間続いてと今までにないような不安定な日々。
そろそろよくなったかと思えばまた悪化して、病院に行ったら貧血なんかも併発してて、鉄を体内に注入したらなんとか良くなって。
こんな状態なら、何もしないことが正解だという気すらしてくる。今までなら、落ち込んだときや停滞を感じたときは動いて解消!が王道パターンだったのだが、いまやその選択は取れない。
◆ お掃除するといいですよ
満足に予定も立てられない中、数少ない話し相手は2週に一回通っている整体の、何をいってもポジティブに打ち返してくれる整体師のお姉さん。
昨日「もう何をしたくても、家でゆっくりするしかないんですよねぇ」といつも通り弱音とも言えないほどのつぶやきをこぼしていると、「夏は水回りを気合を入れて掃除すると、気分も上向きになるかもしれませんよ~」といつも通りポジティブに返してもらった。
そういえば後遺症になってからは部屋の掃除もさぼり気味。せっかくアドバイスをもらったし、せめて部屋の掃除だけでも気力を振り絞りやってみることにした。
いつもは雑になりがちなベッドのすのこのしたも、よく見たら汚れていたので丁寧に掃除機をかけた。一度ではきれいにはならない。次第に汗が出てしんどくなってくるのだが、根気を入れて除菌シートを使って、細かいところまで何度も何度も丁寧に拭いた。
ああ、やり切った。
… 。
やろうと思ったらできたな。
やろうと思えばできるのに、後遺症になってからずっと怖くて、やらない理由ばかり言葉にしていたのかなぁ。
◆ Do or Do
いや、色々なことをやらなかったから、掃除ができるほどに回復したのかもしれない。休養は大事だ。それはもちろん。
ただ、やれないなりに、家で過ごすしかないなりに、その時間で何をやり切ったのかはもっと大事なのかなぁ。達成感とともにそう気付く。
やりたくてもやれない、もうできない、タイミングを逃した。そんなことは
山ほどある。なんでもそうだ。帰ってこない喪失感で、あとに残るものは惰性になる。
でも。やれない理由を探してやらないことが続くと、自分を肯定できなくなっていく。ただの、人生の奴隷になるからだ。いつだって理由なんて気にせず、やりたいようにやる。そんなときは人生の主役であり、華だ。それはいつでも作りだせるはずだった。「だって」これまでそうだったよね。
家でしかできないこと、一人でしかできないこと。外に出られないから仕方なくではなくて、もっと本気になろう。やれないなりに、やりたいことをやろう。
やれないからやる、じゃないんだ。
人生はいつも、やるか、やるかだ。
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