その個性は魅力か障害か(『パーソナリティ障害』読了)

世の中には極めて個性的な人がいる。
その中でもよろしくない方向に個性が発揮される状態が持続している人間は、時に医学では「パーソナリティ障害」と診断される。

こと他者の内面と容易に繋がれる今のSNSの時代で、そうした"極めて個性的な人"はよくみられる気がする。精神科医ではない私が勝手に診断することはできないが、時々メディアやネットを騒がす人々に言語化できない違和感を覚えたことがある人もいると思う。

Kindle Unlimitedの終了期限が迫った今を機に、パーソナリティ障害の本を読んだのでその要旨を少し書き止めたい(結局、思ったより分量があり期限を延長するはめになった)。


診断基準が確立するまでの歴史 

パーソナリティ障害の特徴、つまり、自分へのこだわりと傷つきやすさ、そして、信頼したり、愛することの障害は、パーソナリティ障害が自己愛の障害であることに由来している。
…(中略)…それは、人間が生きていく上で、もっとも基本的な能力である。…(中略)…だが、重い自己愛の障害を抱えている人にとっては、生き続けることは、大変な試練と苦行の連続なのである。

西洋精神医学における「パーソナリティ障害」概念の原型は、1835年にブリストル癇狂院の医師プリチャードが提唱した「背徳狂(自然な感情や情愛、性癖、気質、習慣、道徳的な素質、本性的な衝動の病的な倒錯)」である。これはヴィクトリア朝の強い倫理観を反映した、道徳性の乏しさを強調したものだった。

1905年にドイツ精神医学の礎を築いたクレペリン(1856 - 1926)「精神病質人格」を定義し7つのカテゴリーにわけた。「不道徳」のような価値判断をさしはさまない初の客観的な医学的概念となった。

「精神病質」概念を発展させたシュナイダー(1887-1967)さらに10のタイプに分類しなおし(個人的にこの分け方は疑問が残るが)、今日のパーソナリティ障害の分類の土台となった。このころの概念は本来の治療とは程遠く、予防も治療も困難な素質という意味合いが強かった。

同時期にウィーンの開業医であったフロイト(1856 -1939)のヒステリーや神経症の研究から出発した、精神分析治療はパーソナリティ障害に対して初の医学的治療の試みとなる。フロイトの後継者であるバリント(1896 - 1970)コフート(1896 - 1970)が更にその道を開拓する。

1950年代末のアメリカで経済的繁栄と民主主義が爛熟期を迎え自己本位な空気が強まる頃、精神病と神経症の境界の患者が目立つようになる。カーンバーグ(1928 - )はこの状態を1967年に「境界性パーソナリティ構造」の名のもとに理論化し、パーソナリティ障害が治療の現場に本格的に現れた

1980年に出されたアメリカ精神医学会のDSM-Ⅲ(診断と統計のためのマニュアル第3版)で初めて「境界性パーソナリティ障害」が初めて採用されるとともに、臨床疾患とパーソナリティ障害が階層的に並列診断されるようになった。(なお、2013年に出版されたDSMーⅤでは新たな診断基準が収載されている)。

この他、幼少期の母親との関係に着目したフロイトの末娘アンナ(1895 - 1982)、イギリスの児童精神科医ウィニコット(1896 - 1971)メラニークライン(1882 - 1960)、PTSDとパーソナリティ障害の病因論を説いたハーマン(1942 - )などが研究の発展に貢献した。

パーソナリティと障害の分かれ目

著者は
「年齢や環境によってパーソナリティは変動する。診断基準に当てはまっていても適応上差し支えない範囲のものはパーソナリティの範囲に留まり、病的なレベル(かつ成人早期から続いて、他の疾患や薬物の影響で起きていないもの)はパーソナリティ障害となる」
と述べている。

また、「この障害を克服したものはとても魅力的なパーソナリティとして円熟する」とも言う。そうした意味でどこかに明確な線を引くことは難しい。それでもそのままでは当人や周囲を明らかに破滅に導いてしまう危険がある場合、それは障害となるのかもしれない。

ただし病名に縁のない者でも、傾向自体を理解することは役に立つと思う。傾向のある者は現状を把握して進む方向を決めることができるし、周囲にこの傾向がある者がいた場合の理解は客観的な視点を持つことに繋がる。
そうした理由で、各タイプの傾向について書き留めようと思う。

各パーソナリティ傾向と向き合い方

各パーソナリティタイプの要点として特徴、エピソード、接し方(支援の方法)および克服の記述を一部抜粋する。特徴は”マイルド”な部分のみを参照しているため、ここでの記載に当てはまっても障害というわけではない。

注)載せたものはあくまで傾向の把握を目的とした情報であり、診断および治療・支援のために適切かつ十分な情報は載せていないため、この要旨のみで自己判断することは避けてほしい

1.境界性
・自己否定感が強く、極度の見捨てられ不安がある。深い愛情飢餓感は対人関係の不安定さに通じ、理想化とこき下ろしの両極端を揺れ動く。親や養育者の役割がうまく機能せず、かつ親から精神的自立を果たせなかった場合にリスクがある。他のタイプで対応を間違えると併発する。

・接する際は、いい時も悪い時もできるだけ一定の態度で接する。冷静な目で気長に見守り、現実的な視点に引き戻す存在が重要。最悪のパターンは最初のうちは熱心に話を聞き、当人が依存的になると疲れ果て途中で投げ出してしまうことで、最後には見捨てられるという人間観を強化してしまう。

・克服のためには、他人が愛情飢餓を満たすことではなく、自分自身が変わることによってしか乗り越えられないと当事者が心の底から理解することが一歩となる。その場その場で人との関係を消費してしまうのではなく、絶やさない灯火とすることで人生を繋ぐ。

2.自己愛性
・人並より優れた才能や能力を有するが、内心(自己の重要性へ)の特権意識が現実とは釣り合わないほどに肥大している。マスターソン(1926 - 2010)は自己否定による落ち込みを避けるための防衛機構と指摘する。傲慢さ、尊大さ、妥協を許さない心は、創造的な営みにおいては強みとなる。

・このパーソナリティ障害の傾向がみられるシュールレアリズムの画家サルバドール・ダリ(1904 - 1989)は亡くなった兄と同じ名前を付けられ、自分自身の死のイメージを掻き立てられるとともに自己を脅かされた幼少期が、彼のパーソナリティに影響を与えたのではと推測される。

・接する際は、当人の欠点は問題にせず賞賛する側に回ることで、すばらしさがわかる人物の立ち位置となる。すばらしい自分を映し出す鏡のような存在になれば当事者の反発心は弱まる。義理や道理ではなく不安や嫉妬心、功名心を刺激することは動いてもらう動機付けとなる。

・克服には、チームプレイが求められる活動、献身的活動等を通し自己への囚われを昇華する過程を経る。現実的な処理能力に難点があるため、弱点を補完できるマネージャー的存在をパートナーとすることで本来持っている能力を活かす、または破綻から身を守ることに繋がる。

3.演技性
・異性関係も含め他人を魅了しなければ自分が無価値になると思い込み、自分自身であろうとするより周囲にアピールする役柄を演じる。他者の評価が重要だが、ナルシシストのように生身の自分を愛していないために空想の自分を作り出す。

チャールズ・チャップリン(1889 - 1977)ココ・シャネル(1883 - 1971)などに傾向がみられた。現実でないものをありありと感じ表現する能力でもあるため、すぐれたアーティストや作家は演技性的な能力を持つ。その能力が利己的に用いられた場合に問題となる。

・接する際は、演技や嘘を面と向かって指摘しないことが原則となり、またその態度によって当人の望むままに振り回されないことが重要。当人の庇護者として行動を起こすと病的傾向を強化してしまうため、メリットや満足ばかり与えることのないよう配慮が必要となる。

・克服には、外面的なことや、他者の気持ちではなく自分と向かい合う時間を積極的に持つ練習をする。周囲の気持ちに合わせて反応したり振る舞うのではなく、内省によって人格の形骸化を防ぐ。また新たな刺激や興奮を求めず、平凡な時間にも楽しみを見いだせるようになることも弱点を補う。

4.反社会性
・他者に対する冷酷な搾取を行い、人を全く信じない、良心の欠如などがある。タブーな観念が育っていないか壊れているため、社会的な規範や通年を軽視したり、時に敵視する。独善的な押し付けを受けて育ったことなどが背景にいると考察されている。

・接する際は、当人の挑発的な試し言動に乗らずニュートラルに接することが基本となる。冷静さを維持し、一定の態度で根気よくやり取りを続けることで信頼関係が築かれる。

・克服には、危険を求める衝動を社会化したルールの中で満たす方法がある。宮本武蔵(1584-1645)などはそうした要素を剣の道に昇華した。命知らずで危険を求める傾向を活かし、格闘技や武道、スカイダイビング、自衛隊員など、職業なり趣味なりで衝動を昇華する。他者を愛することでそうした衝動を卒業するものもいるとされる。

5.妄想性
・親密な関係において常に裏切られるのではないかという想いにかられ、適度な距離で親しさを楽しめない。十分な根拠なく猜疑心を抱く。秘密主義で、人間関係を心のつながりではなく上下関係や力の関係で理解しようとする。

古代ローマの帝王ネロ(54 - 68)からスターリン(1878 – 1953)まで、独裁者に多く、万能感と不安感がそれを助長する。自身の地位と権力を守ることが第一の関心事であるため、部下からの信用を得られない。民主主義、報道の自由はこうしたパーソナリティの暴走を防ぐ有用な機能として働く。

・接する際は、ほどよい距離を忘れない。親身になって接すると他人を信じられない心が逆説的な反応を起こしていく。あくまで中立的立場を示し、抵抗勢力がなくなることで当人のパラノイックなエネルギーが減少するのを待つ。

・克服のためには、仕える相手を間違えないことである。権力志向的な一面を活かし秩序や階級、法といった分野で適性を発揮することもある。また戦いに明け暮れず、許す勇気を持つ。

6.失調型
・頭で生きている。奇妙でユニークな思考や直観は常識を超越するため、周囲には風変りに映る。アスペルガ―と似る点も多いが、前者は客観的で観察的、実験的な一方、失調型は超越的で非論理的。直観や創意に富み学者や研究者、文学者等で画期的な業績をあげることもある。マイペースなため独立自営も向いている。

・技術革新に係る仕事で活躍する人にはこのタイプが少なくない。精神分析学者のユング(1875 - 1961)などもこの傾向と推定。現実的な能力を持つ人の助けがあると活躍できるが、環境に恵まれないと現実との接触を失うこともある。統合失調症と近いか同じ遺伝的素質を持ちながら、環境因子や発病を抑制する他の素因で発症していない状態と考えるのが一般的である。

・接する際は、当人のペースを尊重する、抽象的思考ができる強みを伸ばす、発想をよく聞いて当人のユニークで有用な部分を活かすことなどがあげられる。現実的、日常的な問題の処理が苦手なため、間を取り持つコーディネーター的な役割となりリアリティ・チェックをすることが重要。

・克服には、日常的な雑務(園芸や料理などの家事、ペットの世話、子育て等)などにより現実的な対処能力を上げること。ある程度のまとまった期間職業的な実務を経験することも非常に重要。世間との交わりを必要最小限にする程度の引きこもりも破綻を防ぐ。環境の変化もこのタイプには有用。

7.シゾイド
・対人接触を求めず、孤独こそ最良の棲み家とする。静かで淡々とした生活を好み、清貧に生きることが多い。概して禁欲的で、俗世の醜い生存競争から遠ざかりたいと思っている。恋愛においてもプラトニックで精神的な関係を求めようとする。感情も淡泊で希薄な傾向。

・起伏やムラが少なく、淡々と同じ生活を続けられる才能を持つ。対人関係に時間やエネルギーを割かない分知識や情報の面では優れる。コンピューター関係の職種などに向いている。

・接する際は、相手の聖域(孤独な居場所)を侵害しないよう不用意に接近したりあからさまな親しみを示すことは避ける。少し遠めで感情を抑え淡々と、慎重に時間をかけることが安心した関係の出発点となる。同好の友や協力者として、互いの世界を尊重しつつ侵犯しないつかず離れずがよい。

・克服には、無理に世俗的な成功を目指さず自分の特性にあうライフスタイルや職業を選ぶこと。孤独に取り組む仕事(自然科学の研究者、プログラマーなど)や精神的な世界を追求する仕事(僧侶や芸術家)が向く。

8.回避性
・失敗や傷付くことを極度に恐れ、失敗するくらいならやらない方がいいと思う。こと対人関係を求める一方傷付きを恐れ、付き合いが希薄で深まらない。長く続く引きこもりで見られやすいものではシゾイドと回避性がある。無気力で、スチューデント・アパシーもこの範疇に入る。

・しばしば身近にいる自己愛性の人のネガのように存在する。華やかで賞賛を求めスポットライトの中心にいる自己愛性が家族におり、比較して自分を劣った存在だと誤った認識を持ち育つケースが少なくない。親が本人に対し否定的な態度をとってきたことが多い。トラウマ体験によっても生じる。

・接する際は、当人の主体性、気持ちを尊重する。周囲が先に口出しをせず、余分なものはできるだけ与えずに主体性を育ませる。初期のうちに重症化を防ぐには、一時的に休養させストレス源から離し、自然回復力を働かせる。否定は厳禁で、当人の気付かない長所を褒め積もり積もった挫折感や劣等感から救い出すことが有効。

・克服には、今まで当人がやってきたことや周囲の期待に無理があったと認め、失敗したり躓いたことにはこだわらず一から始める。当人の望みややりたいことが突破口となることもある。いったん回避の砦が出来上がるとそこから外界に出ていくことは難事であるため、必要に迫られて背に腹は代えられずという状態になることが有効となる場合もある。

9.依存性
・主体性を放棄し他者に委ね、些細なことでも身近な人物に頼る。いつも誰かといなければ不安になったり空虚に感じ自分を紛らわすことができない。自分の意志や気持ちではなく、周囲の状況に合わせて人生を決定する。自信がなく、周囲の評価に振り回される。

・受動的で他者に頼り切るタイプと、能動的でリーダーシップをとってくれる人を求める献身型があり、後者は頼る相手を間違えると不幸な結果となる。断ることが苦手で、背景にはその人自身が人に頼らないと生きていけないと思っていることがある。

・接する際は、自分で判断したり折衝するようにさせることが重要となる。すぐに答えを求めたがるが、教えると答えを人に頼るようになる。当人の気持ちを口に出して確認させる習慣をつくることが有効。

・克服には、気持ちを口に出して確認し自分の意志を確認すること、献身欲求を満たせる奉仕的な仕事につくことがあげられる。仕事という枠組みの中で行うことで過度な気遣いや見合わない献身に限界を設定することができ、是正から自立へ向かう。

10.強迫性
・もっとも障害らしくなく、対人関係・仕事においても責任と義務を大切にし信頼できる。自分に厳しく、善悪がはっきりしており、完璧主義で神経症にもっともなりやすい。努力すれば必ず成果や見返りが得られると確信を持っており、報われない状況で非常に強いストレスを感じる。

・絶えず何かをしていないといられず、計画通りの実行が最善だと信じ突発的な出来事を認められない。時代の安定期には堅実さが高く評価される。度が過ぎると他の価値や流儀を認められなくなり、こだわりや努力を周囲に押し付けてしまう。物だけでなく人との関係や仕事や環境など捨てることが苦手であり、逆に言えば配偶者がどのような状態でも面倒をみる。

・接する際は、責任の範囲や役割分担を明確に決める。当人の流儀を変えさせようとすることは難しいため、当人の秩序愛を注ぎ込む領域を決めることで安心させる。決まりや取り決めがあると当人は安心して取り組むことが出来るため、完璧主義や支配欲求が再現なく広がり、仕事を抱え込み疲労することを防ぐ。

・克服には、休むことも仕事のうちと捉え八割程度を心掛ける。また結果というのは偶然的な要素や複数人の関わりで生じたものであり、意図したものでない限りアクシデントだとして責任を一人で背負わない。世の中は基本的にいい加減なカオスとして、一つの秩序や基準でくくらない。

障害はどこから生まれるのか(論評)

パーソナリティ障害と呼ばれる人間が社会から嫌悪され、孤立されて当然の存在だとは思わない。極端な個性が障害になってしまう背景には、当人が受け入れざるを得ない歴史があり、助長する環境があり、拒絶あるいは許容によりそれを助長する人間がいる。
私自身、無関係ではいられない場所で生きてきた経験があるからこの本に触れた。

著者も言うように、あるパーソナリティが障害になるかどうかは時代にも周りの環境によっても変わる。(ここにパーソナリティがどこまで本人の意志といえるのかという話もあるが、一旦置いておく)。
またパーソナリティ障害の傾向があったとして、それが才能として十分に生かされ世に貢献するなどして適応している場合、単なる障害には留まらない。この障害を持つ人の中には非常に魅力があり研究やビジネス、芸術分野で才能を発揮している人も多く、その逆もしかりだと感じている。

本書ではパーソナリティ障害が生まれる要因には遺伝的素因や社会に広がる自己本位の風潮、核家族化があげられている。ここに考察を加えるのならば、私はミクロとマクロな世界のギャップがあることがこの障害を生むのだと思う。
極端なことを言えば通りすがりに人に切りかかられる時代、人がばたばたと死ぬのが当たり前だった時代であったのなら、たとえ家庭等が不健全な場所であっても外の世界も安全ではなく、そこに生じるギャップは少ない。

一方で現代の日本社会はマクロでみれば比較的"健全"だ。国連やWHO等の世界的な組織が立派な理念を掲げ、会社は社会貢献を謳い、道徳に基づいた教育があり、弱者を助ける福祉があり、ある程度成熟した医療がある。

しかし家庭や教室、職場の小さな片隅はそうとは限らない。ミクロな世界で不健全さに適応する術を身に着けた人間は、社会の"健全"さに戸惑う(逆もある)。そこで生き方を変えたり環境を変えたり才を見出せなければ、それはいつしか「パーソナリティ障害」に繋がる可能性がある。

そうしたミクロな環境を生み出す人間は"なんとなく"正しいことに従っている。健全な精神というものをなんとなく理解し、なんとなくしてはいけないことがわかっている。でも本当はわかっていない(または意識・無意識的に無視されている)。そしてギャップが生まれる。人間の進化は社会の健全さには追い付かない。

人間である以上、あらゆる不健全を排除しきることはできない(できたとすれば世の中から健全はなくなっている)。それに、障害の定義にあてはまらないことが健全な人間というのは少し強引だ。障害だからといって健全な人間から完全に切り離すことも同じ。だからこそパーソナリティ障害の人々は、時に特定の分野で人を惹きつけることがあるのだと思う。

個性は魅力にも障害にもなりうる(そう、であってほしい)。問題の責任を一人だけに押し付けることはしたくはない。
だから様々な個性をもった集団の相互理解が進み、無理なく、穏やかに関わり合える知恵が生まれることを想ってこの文を締める。


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