家族が壊れて一年後に思うこと


 「その日」から九カ月前の春に遡る。
私は一年後にある国家試験を控えていた。同級生の大多数はその国家試験を通過し、資格を持って医療機関に就職する。周りの張りつめている空気に充てられているのかもしれない。
心当たりはもう一つ、家族の内々で進んでいる一大プロジェクトのことだ。
姉が結婚したことは我が家にとって久々の良いニュースだった。二人が建てる家に、姉の提案で同居している母と遠方に住む祖母を呼びよせて同居することが決まった。
祖母は故郷から離れることを不安がったが、年々寝込むことが増えた一人暮らしの祖母の状態を思えば、それでも最善策だと思えた。

 自己主張の激しい家系であったために話合いはすんなりといったわけではない。時が経つに連れ、私は自身の家族に疑問を持つようになっていった。それでも家族のために行動を起こすことは、間違いだとは言えなかった。
「家族のせいで結婚がだめになる」と姉が泣いたことがある。それでも家族のために動こうとする姉に、優先順位を決めた方がよいと話した。今姉が一番大切にするべきは夫であり、親や祖母ではないのだからと。そう伝えたのも、あくまで物事のバランスを取ろうとしただけだった。私には見えていないものが、姉に見えているのではないかと信じたかったからだ。
多少綻びがあっても、家族は家族だ。私がもっと成長すればいい。
最終的にうまくいくのなら、それが一番いいと思った。

発端

何か起こる場所は大抵決まっていた。
リビングに座っている祖母がいる。私は遠方の祖母の家に来ていた。
数日前までは姉夫婦も一緒に食卓を囲んだ。年が明け、一年にわたる家族の関心事がようやく収束しようとしていた。三日後に、物件を契約すればもう話は終わりである。一人ずつ減っていった家族がはじめて増える。失ったものが戻ってくるような明るさが食卓にはあった。

 しかし、どうしてだろうか。
今、私は祖母の泣き顔を見ていた。
「裏切られた。」そう言って泣いている。
どうやら、数日前にまとまったと思われた話は、解消になったらしい。姉が旦那の実家に向かって直後のことだ。タイミングは考えうる限り最悪だったかもしれない。祖母は住んでいる家も売りに出した後だったのだ。
同居しないという立場上、私は家族の橋渡し役だった。それぞれの言い分を最も俯瞰して聞くことができた。だから、裏切った人なんてどこにもいないことがわかった。皆、家族がまた一つになることを夢見ていた。皆色んな人のことを想って苦しんでいたことを知っている。
「最初同居ではなく近くに住む案が出ていたでしょ。だからそうして、支援もするからって言ったんだけどもう何も聞いてくれなくて・・・」
電話越しに姉は自分を責め泣いた。祖母はその全てを聞いた上で”捨てられた”と解釈したらしかった。私はまた、バランスを取ろうと試みた。近所にどんな目で見られるかと泣く祖母に、少し冷静になるよう声をかけてみたが、彼女がパニックのようなものを起こしかけていると気づいて説得をやめた。
その日祖母は姉と絶縁すると言った。

 夕食はあさりのから揚げだったと思う。初めて食べたから、美味しいと思った。でもあんな時でなければもっと美味しかっただろう。笑うことが難しく感じる。
「お前は優しいね。遺産はお前に渡すからね。」
突然彼女はそんなことを話し始め、耳を塞ぎたい気持ちになった。
私はたいして優しい人間ではない。むしろ、家族のために行動を起こしている姉を止めたのは私だったのだから。昔から、姉は家族ために行動してくれた。父親の家から出たがっている私を連れ出してくれたのも姉だった。そう言ったところで、私の言葉は彼女を傷付けるだろう。吐き気がする。なにかが歪んでいる。
 翌日、予定を早めて私は帰ることにした。別れ際、”笑顔”を作って祖母に振り返り手を振った。
 最後の瞬間まで彼女を気遣うことに成功した。
 


 そして、私は逃げた。
吐き気が止まらない。何かはわからないが、自分が危険にさらされていることだけがはっきりとわかる。そして”それ”を作り出しているのは家族だ。
脳裏によぎるのは「精神病」だった。

 「精神病」との出会いは中学か高校の時だった。喧嘩ばかりだった父と母をみて元気のない私に、父はなぜ元気がないのかと尋ねた。父が母をいじめるからだと答えると父は笑った。なぜ「両親が喧嘩することは子供にとって悲しい」という”普遍的な感情”を父はわからないのかと疑問に思う。ある日ある精神病を知った幼い私は母に「わかった、パパは病気なんだよ!」と言い、一笑されたことを覚えている。あれは強引な理屈だった。私がその違和感の正体を知ることになるのは数年後のことだ。自身の薬学科の専攻と人生経験を持って、私は「精神病」への理解を深めることになる。
 
 当時は止まらない吐き気とまとまらない思考、消えない不安に加え、隣の人間が手を叩く音でも、風船が割れた時のように神経がひりついた。私の症状は一過性のものだが、放っておけば取り返しのつかないことになるだろうと予想することは容易だ。この時、二週間後には卒業試験を控えていた。
「君のような状態で無理をして、うつになり半年間寝たきりになった子を知っている。」途方に暮れた私は担任と面談した。
「選択肢は二つ。1つは病院に行って、向精神薬を飲んで試験に臨む。あるいは試験は諦めて今は休み、来年挑戦する。健康に勝るものはない。」
正論だ。まとまりのない言葉をひろって結論を整理してくれた先生に心から感謝した。しかし、試験を諦めるという選択はできない。卒業できなければ内定も取り消され、高額な学費、そしてなにより実家から出られないという三重苦があるというのに。その上で、薬も不要だと思った。私は薬物療法を支持していなかった。私はどちらの選択肢も拒否した。
精神が混沌とする一方で意識は至上最もよく働き、どのようにこの事態を乗り越えるのかという好奇心すら沸いた。回復のために考えつくことは全てした。何よりも効果があったのは、自分を他人よりも優先したことである。記憶にある限りはじめて、私は意図的に他人より自分を優先した。家族との連絡の一切をやめた。家を出て近隣の宿泊施設を渡り歩いた。一カ月間は大学の近くのホステルで暮らした。この間、私は気持ちの整理をつけた。
 
 すべてが終わった後、伝えにいった。
「数年間ずっと思っていた。こんなに苦しい関係は健全ではない。私達はいつも敵を作っていた。私たちは変わる必要がある。私も変わるし、皆にも変わってほしい。そうでなければ”家族”に戻ることは難しい。」 

闘争か逃走

 
 私がなぜ”壊れた”か。あの時、私は大きく揺らいだ。祖母に自己形成の多くを依存していたからだ。「絶縁する」こと自体に意味はない。そんなものは、相手を動かすための手段でしかない。祖母は若き日に活躍した事業家であり、時に激しく”恫喝”することで自身の要求を通す経験に長けていた。彼女の人生は他人を支配することで、少なくとも事業においては成功した。それでいて、感情的な両親と違い、信念を持って話すことができる人だった。私は彼女の生き方に大いに影響を受け、自己形成の核を形成していた。
 その”自己”が突如として変容したのがあの晩だった。
生き物には緊急時において「闘争か逃走」を選択する安全装置が備わっているという。もし祖母の「闘争」を引き起こす程の恐怖が私のミラーニューロンに伝搬した「逃走」だったのだとしても、私を混沌にとどめたものは他者に依存した"自己"そのものだったのではないか。

 あれから一年が経つ。家族との関係は思うようには変わらなかったが、つい最近までそれは「終わった」ことだった。それでも年の明けに同条件下で、私はあの出来事を記憶の中で再体験する。不安と後悔と罪悪感が私を襲った。「その日」以来、以前に比べ心身が上手く扱えなくなってきていることは理解していた。ここに至り、私はようやく問題を放置すべきでないと知った。「終わった」ために考えることのなかった、未処理の問題がどこにあるのかを探す必要がある。今の私は、身体と心が全く別物として動いているようである。身体と心が分離するようになったのは、いつだっただろうか。
 その探求を進めるうち、あの件に限らずこれまでの人生で不可解だった現象についても一つの”答え”のようなものを出すことになった。興味があるならば、少し昔の話に付き合っていただけるだろうか。
 
 幼少の頃を思い出すと、幸せな家庭が思い浮かぶ。十六で両親が離婚したが、母の経済的理由に私たちは住むことを許された。そのうち姉は帰ってこなくなった。私は母を守るためだけに、毎日家に帰った。二十三の時に姉が家を出られるよう図らってくれた。
”敵”だった父から解放されまもなく、母は私たちに甘えるようになった。「あなたも私を傷付けるのね」と言われ、私は自責の念から母と話し合うことを忘れた。人は変わっても、息苦しさは変わらなかった。
離れても、父と実父は裁判を起こしていた。娘の私は社会的にどうなってしまうのだろうと思った。それでも、高額な学費は払ってもらった。立派に「親の義務」を果たしてもらった。「親の義務」を果たしたのだから、「良い親」だった。

 父と住んでいた頃、「できて当たり前のこと」が極度に出来なかった。時間を守れなかった。大事な予定を忘れた。部屋の外に出ようとしても、身体が動かなかった。家に帰ると、身体が重くてベッドに身を沈ませた。私はそれを生来の脳の障害と思っていたが、父と離れた時その”障害”は消えた。思えばその頃から、身体は思うように動いていなかった。
あの時もそうだった。同居の話が進んでいたあの時も。私は親の事情を理解できる年齢になっていた。母は数年でひどく傷付いた。傷の癒えない人間はいつも傷付きやすかった。大切に扱おうと努力を重ねる程に、私の中の”何か”が冷え切っていくことを感じた。すべきことを前にしても身体と心は分離し、しまいには意識と心の繋がりも途絶えた。

 成長だと勘違いしていた。なぜあの時最良の選択が取れなかったのか、今ならわかる。恐怖を前にして冷静な判断を下そうとしたことが、いかに無謀だったのかを。

答え合わせ

 
 きっと自分の思うよりも昔から、「心」を感じられなかったのだと思う。
主観的にものを語ることは愚かだと思った。いつでも理性的に、良心的に物事を見定めねばならないと自身を「脅迫」した時から、自分が何を求めているのかをどれ程わかることができていただろう。あの頃からだ。嫌なことを嫌といえなくなったのは。些細なことでも人を傷付けないように気を張るようになったのは。感情に揺さぶられることが減るにつれて、身体がいう事を聞かなくなったのは。

 そう、本当はずっと怖かった。私は家族のことが恐ろしくてたまらなかった。
愛しているといいながら、言葉を聞かない彼らが。自己本位に支配される”人”の姿が。祖父の墓参りをさせて貰えなかった時、母が幼い私のために飼ってくれた犬を「死ねばいいのに」と母自身が罵った時、どれだけ事情や気持ちを理解しようと努力しても、恐れずにいられなかった。連絡すら恐ろしかった。またいつ何が起こるのかと怯えながら生きた。自分がまともなのかすら知ることができず。自分を疑うことでのみ私は安心した。

 恐怖を殺すことで私は親から愛され、生き延びることができた。その時から恐怖は名前のない感情に形を変え私の中に存在した。あの時本当にすべきだったのは、恐怖を克服することだったんじゃないのか。「心」を取り戻すことだったのではないのか。この身がどれだけ”人”を恐れているかを知ることなしに、恐怖にどのように対処し身を守るかの術を知ることなしに、”愛”を深めることは間違いだった。長い時間をかけて失われたのは、”愛”だけではなかったのだから。

 身体が私に氾濫するようになってようやく思えることがある。
一度あった事実は消えない。大人の考えが身に付いたとしても、人間心理や人体構造や病や障害を理解したとしても、痛みを感じた事実は消えない。理解はただの理解だ。身体は忘れない。数多の出来事によって私の神経が破壊され続けたことも、シナプスが幾度も連結され、そこから私が”何か”を学習し続けたことも。無力な子供時代に、彼らへの無力感と恐怖を私が理性で幾度も葬ったことも。今思えば、私が壊れる前から、ずっとそこにあった。組織の中で私が存在する限り、恐怖はいつもそこにあった。


 この話の中に、責任を持つ人は一人もいない。責任は今これを書いている私ただ一人にある。責任は存在しない。ただし主体的に生きるためには、責任が必要だ。
過去に原因を求めることは自分を憐れむようで、自己愛に過ぎると思った。そうならないように意識して書いたつもりだが、もしそうみえてしまうのであれば”そういうこと”なのだと受け止める。
 
 それでも私は知りたい。自分の変えられるものが何で、変えられないものが何なのか。変えられないのなら、どのような制約があって変えられないのか。人間は学習する。自分が本当は何を持ち込んでいるのかを知らなければ、どうすべきか知ることができない。前だけ見ることが向いている人はいる、でも私はそうではない。自分を騙すことに慣れすぎてしまった。

 両親はかつて親を大切にする人だったはずだ。父は兄弟の中で唯一祖父の会社を継いだ。母の婚約条件は親と同居することだった。それなのに、彼らの関係があたたかいものでないことは明白だ。そうでなければ、私の選択は違ったものになっただろう。彼らは自分を騙し続けていたのではないのか。見て見ぬ振りに慣れすぎた結果ではないのか。
 
 傷付けたくなくて、我慢していた。私は優しかったのだろうか。それとも、傷付ければどれほど恐ろしいことが起きるか知っていたからだろうか。
 苦しんでいる人の力になりたかった。自分は無力な人間ではないと思いたかった。そう、そんな意地もあった。そうして優先順位を見誤った。


 人生において優先すべきなのは、おそらく親を大切にすることではない。道徳に縛られることでもない。大事な人より世間体を気にすることではない。周りよりも金銭的に豊かになることでもない。弱さを変えようとすることでも許容することでもない。罪を感じることでもない。適応は自己ではない。それらは本質ではない。私は間違えた。その全ては家族が教えてくれた。必要なものも沢山受け取った。だから私はその必要なものを持ち続けたまま、いらないものを時間をかけて捨てていくことにした。

 家族を幸せにしたかった。でも、その力は私にはなかった。
私にとって、彼らは不思議な色をした水だった。同じように見えて、元の水ではなかった。元に戻そうとしても、二度と戻らなかった。


 促進 


 私もいつかおかしくなるのかもしれない。
そんな言葉が口からこぼれ出ていた。成田空港のよく見える広々とした丘で、古くからの友人が私を連れ出してくれていた。本当は、ほとんどの人間は自覚して一線を越えるわけではないのだ。自覚できないうちに”システム”にはまりこんで、初めて現実に戻れなくなる。
「そのために福祉があるんだよ。」
風が身体を通り抜けるという感覚は、本当にあるのだなと思う。
福祉をよくしようと尽力している友人が即答したものだから。本当にそうなるのかもしれないと思った。私はしばらくの間、希望に目を向けることさえ忘れていたことに気が付いた。ああそうか、誰かが助けてくれることを信じれば、抑圧する必要なんてなかったのか。

 物事には多様な見方があり、私の内の結論も次々に形を変えた。この話をどのように処理すべきかは悩んでいた。しかし数日前に見た一文によって、この物語を書くことを決めた。「感情の抑圧は癌を含む種々の身体疾患の発症リスクとなる。特に、幼い頃から感情を抑圧してきた”ひとのよさそうな”人間は」。
 
 十年以上そうして生きてきたのだから、どれだけ命が短くなっているのかわからない。それでもこの一年心身の主導権を奪われ感じたことは、私は思ったより自分が好きらしい。もう手遅れだろうか。自分を大切にしたい。この素晴らしい世界を見て回りたい。もっと心のままに生きても許されるのだろうか。
 もう、「仕事」をすることはやめようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?