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労働と「フロー所得」についての補論

このあいだのこの記事で書いた

さて、こうやって「不労所得」の限界を語ると、
「そうだそうだ。あくまでフロー状態を達成するのが大事なんだ。ブルシット・ジョブだなんだと仕事をけなすことばかり考えずに、自分の仕事の中で夢中になれることを探す努力をしたまえよ。仕事をせずに幸せになろうなんて怠慢だゾ」
みたいな勤労主義者が出てきそうなのですが、これはこれで落とし穴にはまっています。

この部分についての続きです。

不労所得の限界があると言った時、それは別に「仕事でフロー状態を得るべき」という意味にはならないよという話をします。


まず、「不労所得」を手に入れたからといってフロー状態を手に入れられることが保証されないのと同様に、「勤労所得」を手に入れたからといってフロー状態を手に入れられることは保証されません。
言い換えると、「不労活動」でフロー状態に入れるとは限らないのと同じく、「仕事」でフロー状態に入れないことも当然あるわけです。

仮にどんな「仕事」であっても個人の努力によってフロー状態に入れるとするならば、それなら同様にどんな「不労活動」でも個人の努力によってフロー状態に入れる可能性も十分あるでしょうから、別にフロー状態に入るための活動が「仕事」でなくてはならないという帰結にはなりません。

前の記事は夢として過剰に憧れられがちな「不労所得」の盲点を指摘しているだけで、「勤労所得」ならフロー状態に入りやすいから大丈夫と言ってるわけではありません。
フロー状態を得るのが難しいことは「勤労所得」と「不労所得」の両者に対しフェアな話であって、別に「勤労所得」が「不労所得」よりも偉いんだぞという話ではないのです。


せっかくなのでついでに労働とフロー状態との関連性について言えば、やっぱり仕事の内容や個人の向き不向きによって「フロー状態」の入りやすさは違うと考えます。

仕事は千差万別で、個人も多種多様なのですから、当然でしょう。

たとえば世に言う「ブルシット・ジョブ」はあまりの仕事内容の無意味さ加減に本人が苦しんでる仕事を指しています。本人が心底意義を感じられない仕事において「フロー状態」が得られるのはよほど限られた人でしょう。
すなわち「フロー状態」にまず入り得ない仕事である点がブルシット・ジョブの問題として指摘されてるのです。
仕事によって「フロー所得」になりえる可能性には差があるのです。

だから、幸運にも仕事によって「フロー所得」を得ている人が、ブルシット・ジョブに苦しんでる人に対し「お前も仕事に夢中になれよ」と言うのは、「どの仕事もフロー状態に等しく入りやすい」という妥当とは言い難い暗黙の前提を置いた、想像力を欠いた上から目線に過ぎないとも言えます。お金を持ってる人がお金を持ってない人に対して「俺はお金に困ったこと無いから君のお金がないという苦しみも気のせいだよ」と言うようなものでしょう。


さて、そんなわけで、誰もが「フロー所得」(「勤労+フロー状態」でも「不労所得+フロー状態」でもどちらでもいいですが)を求めながらもそれがなかなかそれが得られないことが世の不満の大きな要因になってるのではと江草は思っています。


この「フロー所得」の概念から派生して考えることができる問題は多々ありまして。

たとえば、

  • 社会に必要な仕事(エッセンシャルワーク)の一部が単純作業であったり他律性が強かったりすることでフロー状態に入りにくい内容になってるために、エッセンシャルワーカーの人気不足や充実感不足が起きる問題

  • 「仕事をしていることが偉い」とする世の中の勤労主義の空気により、なんでもいいからと仕事を作ったり仕事に就くことになったりする結果、社会的意義が空虚な「フロー状態」に入りにくい仕事(ブルシット・ジョブ)が増えている問題

  • 欠乏感があるとフロー状態に入りづらいため、たとえば所得が保障されてないとフロー状態に入りづらいのに、市場原理は基本的に欠乏感で人を駆動するシステムなのでそもそもからしてフロー状態に入りづらいという問題

などがあります。

機会があればこのへんはまた。

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