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ただし労働にやりがいはないものとする

先日、SNS界隈で話題になっていたみずほレポート。

一部、スクショで引用させていただくとこういう感じのやつです。

https://www.mizuho-rt.co.jp/publication/report/2024/pdf/insight-jp240829.pdf

本題自体も興味深かったのですが、それ以上になかなか面白かったのが3ページ目の先頭パラグラフのこの箇所。

単身世帯化の労働供給への影響について、具体的に考えてみよう。ここでは単純化のため、「労働 とは専ら金銭を得るための手段であり、労働自体は嫌なことである」と考えることにする。実際には、 労働自体に「やりがい」を感じる人も少なからず存在するのだろうが、話がややこしくなるので、こ こではざっくりと「労働にやりがいはない」と仮定する。

"「労働にやりがいはない」と仮定する。"

これが、なんともシュールで、めちゃくちゃ真面目な考察レポートにもかかわらずつい吹き出してしまいました。

なんというか、物理のテストでよく見かけたフレーズの「ただし空気抵抗はないものとする」が思い起こされます。

この場合ですと、

「ただし労働にやりがいはないものとする」

でしょうか。

面白すぎません?

少なくとも江草的にはツボでした。


しかし、こうした仮定をわざわざ置かないといけないのは、結局のところ、私たちにとって労働はやりたいものなのかやりたくないものなのか整理がついてないということなのでしょう。

ちょうど先日ホモ・ネーモさんもそんな記事を書いてらっしゃいました。

僕たちはまだ、自分たちが労働をしたいのか、したくないのか、よく理解していないのだ。

「人は労働をしたいのか、したくないのか」この問いに対する詳細な考察はネーモさんの十八番ですのでネーモさんに譲るとして、ここでは「労働にやりがいはないものとする」という仮定を置くと何が起きうるかということをちょっと考えてみてみましょう。

「労働は全てやりがいはない」と仮定すると、「十分なお金を渡すと人は働かなくなる」と考えることになります。(実際みずほレポートの論もそういう展開を見せています)

これはすなわち「誰かに働くのを辞めてもらいたい時には金を出せば良い」ということでもあります。

たとえば、昨日も触れた問題の地方移住婚推進案も「女性にお金を渡すことによって仕事を辞めて家庭に入ってもらおう」という意図がなんとなく香るものでしょう。

この助成金の金額がそもそも足りてるかどうか極めて怪しいという問題があるにせよ、東京に通勤する女性をターゲットにしている以上、これには「お金を積めば仕事を辞めてもらえるはず」という感覚があることは否めないでしょう。

でもこれ、やっぱり「本当にそうなるか?」って感じはしますよね。皆さん、金積まれたら仕事きっぱり辞めますか?

まず、やっぱり世の中にはなんだかんだ仕事が好きって人は多いんですよ。働きたすぎてしょうがなくて、ずっと働いちゃう。いわゆるワーカホリックですね。

江草はそういう働きたすぎる人たちのためにこそ、働き方改革が必要になったと考えてるのですけれど、それはともかくとして、金を積まれてもなお現職を辞めない人は世の中思った以上に居るだろうなと思います。

他方、現職に色々と不満がある人。生活のためにしぶしぶ働いている人。こういう方は金を積まれたらこれ幸いとすぐ辞めるかもしれません。

でも、だからといってその人がずっとどんな仕事もしないかというと、どうでしょうね。

いえ、今回の仮定って「労働は全てやりがいがないものとする」なので、十分なお金をもらって現職を辞めたとしても、その人が他の仕事についたらその時点で仮定と矛盾しちゃうんですよね。だって、お金は十分にあるにもかかわらず「この仕事をしてみたい」と言って働き始めちゃったわけですから、そこに「やりがい」と言うべき気持ちが湧いてしまってることに他ならないのです。

だから、「労働は全てやりがいはないものとする」という仮定は、金をもらったら人が本当に働かなくなるレベルの想定なんですよね。

でもね、そもそもみずほレポートでも取り上げられてるFIRE民からして、その"Retirement Early "というお題目にもかかわらず、経済的自立を達成後に何かしら働いてるものなんですよね。

もちろん、あくまで現実離れしてることを想像するからこその「仮定」なので、しょうがないところはあるんですけれど、「労働に全てやりがいはない」というのは、多分思った以上に現実との距離があるかと思われます。


とはいえ、「労働に全てやりがいはない」と仮定するのはさすがに現実から離れすぎてるとしても、その仮定から導き出される「お金を積んだら人は(やりがいの感じられない)仕事を辞めてくれる」というアイディアは何気に利用価値があると思うんです。

そう、確かに「全ての労働にやりがいがない」とみなすのは無理があるとしても、おそらく「やりがいがある労働」とともにやはりある程度「やりがいがない労働」もごちゃ混ぜに存在しているはず。多分、これが一番もっともらしい想定ですよね。

ここで「万人にお金を積む」という実験をしてみるとどうでしょう。そうすれば、さっきのアイディアの通り、やりがいがある労働からは人は辞めないけど、やりがいがない労働からは人が辞め始めるので、世の中の「やりがいがない労働」をあぶり出すことができると考えられます。

これ、めちゃくちゃ面白くないですか。

「全ての労働はやりがいがないものとする」とか仮定しなくても、あるいは「人は労働したいのかしたくないのかどっちなのか」と悩み続けなくても、実証実験できるってことですからね。

金を積んでも誰も辞めなければ「全ての労働にやりがいがある」ってことになりますし、金を積んだらことごとく人が辞め始めたら「(ほぼ)全ての労働にやりがいがない」ということになります。

おそらくは、その間のどこかの結果になると思いますけれど、それはそれで「やりがいがない労働」が浮き彫りになる。

こんなに面白い社会実験はあんまりないと思うんですよね。

まあ、ぶっちゃけ、これ要するにベーシックインカムのことなんですけれど、よく語られるその社会的経済的効用がどうとかというのはさておいても、社会実験としても非常に興味深いはずなんです。

ひそかに「やりがいがない労働」にやむを得ずつかされてる人が居るなら、それはウェルビーイング的でないですから、できることなら何とかしたいじゃないですか。

もちろん、件の仮定の通り「全ての労働にやりがいがない」とするならば、その場合、皆平等に「ウェルビーイングでない」ので仕方が無いとなりますけれど、どうもそうではなさそうだぞというのは本稿で強調してきた通りです。

ならば、「全ての労働」の中に潜む「やりがいがない労働」を分離同定することは人々のウェルビーイングを支援する上で意義がある作業だと思うんですよね。「やりがいがない労働」を抜本的に改善する介入がすぐには難しかったとしても今後につながる現状把握にはなります。

そうした作業をしないままに、いつまでも「全ての労働にやりがいはないものとする」などと机上で議論していても、埒が明かない気がします。

この段に及んでもなお、ベーシックインカム導入を拒絶する、もしくは(その実践上のハードルが高いことを考慮にいれたとしても)ベーシックインカム導入を議論の俎上に挙げることさえもしないというのは、それこそ本気で「全ての労働にやりがいはないものとする」という「仮定」を現実だと信じてるかのような態度でしょう。

「嘘から出たまこと」ではないですけれど、「仮定」も「あくまで仮定だから」と言って繰り返しずっと使ってると、本当に現実にそうであるかのように思えて来ちゃいますからね。

その「仮定」の真偽が重要な意義を持っていると思うならば、出来る限り積極的に実証していくべきではないでしょうか。

「仮定する」のはもう良いから「確認して」みましょうよ、と。


もっとも、おそらくはあえて仮定のままで置いときたいのかもしれませんね。社会は「やりがいがない労働」はどれなのかを露骨に確認することを恐れている。

気持ちは分からないでもありません。ひとたびその中身を見てしまったら社会はもう元に戻れない、そんな予感がします。

だから、言ってみれば、これはある種のパンドラの箱なのでしょう。


この箱を開けるべきなのか、開けないべきなのか。

どっちなんだい?

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。