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労働したいのか、労働したくないのか、どっちなんだい?【アンチワーク哲学】

ユダヤ人がラメッド・テット・メラホットと呼ぶ39種類の労働行為は、安息日には一切禁止されているらしい。料理や執筆、農作業、火おこしはおろか、エレベーターのボタンや電気のスイッチを押すことすらもアウトらしい。。そして、本当に困ったときはユダヤ教とは関係のない異邦人に「おい、ボタンを押してくれないか?」と頼み込むとのこと。

「なにもそこまでしなくても・・・」と感じるのが人情であろう。あるいは、「労働してはいけない」ではなく「労働しなくてもよい」などのように、自由裁量の余地を与えてもいいような気もする。

しかし、そう簡単な話でもなかったのだろう。そもそも「労働してはいけない」という戒律が登場する歴史的背景はわからないものの、そうした極端な戒律が必要になるくらいに「労働が強制されることによる悲劇」が社会全体に蔓延していて、かつそれを可能とする権力が存在していたわけだ。「労働しなくてもいい」は渡邉美樹のような権力者によって、いとも簡単に「おい、お前も自由に労働するよな? なぁ?」といった自発性ハラスメントへと変換される。エジプトで散々痛い目をみてきたユダヤ人たちは、そうなるリスクを恐れて、「なにがなんでも労働してはいけない」というルールを設けたのだろう(いや、知らんけど)。

とはいえ、ボタンを押すのが労働なら、歩くことも、咀嚼することも、呼吸することも、労働なのではないか?という気もしてくる。あるいは「ボタンを押すよう他人にお願いする」というのも、現代においてはマネジメント労働とでも呼べるような行為であり、労働と解釈できなくもないだろう。少なくともエレベーターのボタンを押すことよりも、「どうやってボタンを押してもらえばいいか?」と狼狽える方が、よっぽど苦労が大きいに違いない。

料理や火おこしだってそうだ。「ちょっと小腹が空いたからカップ麺でも食べたいなぁ」なんて思ったとて、安息日にそれはかなわない。ぜったいに労働が必要になるからである。いくら調べても39種類の労働のリストはネット上には見つからなかったのでわからないが、食器によそう行為やレンチンもおそらくアウトだろうし、食べ終わった食器もシンクに山積みにしておかなければならないはずだ(あるいは、テーブルの上からシンクに運ぶのもアウトだった場合、テーブルをごちゃごちゃにしたまま眠りにつく必要があるだろう)。

僕が1日ユダヤ人体験をやってみたとして耐えられるとは思えない。数時間もしないうちに僕は次のような言葉を吐いて発狂するはずだ。


たのむから、労働させてくれ!」と。


食器類でごちゃごちゃなシンクを見たなら、僕はそれを片付けたくて仕方がなくなる。あるいは、退屈していたなら晩御飯の支度をしてみたり、保存食をつくってみたりして気を紛らわす。もちろんnoteに文章を書くのも僕にとって欠かせない息抜きである。

きっとユダヤ人も似たような感覚を抱いたことだろう。なにか気を紛らわすためになんらかの手仕事を始めるというのは、おそらく人間の精神にとって必要な営みである。家庭菜園を楽しむ人がこれだけ社会にたくさんいるのは、畑仕事すらも息抜きになるからだ。

となると、こうした行為を十把一絡げに「労働」と呼び禁止する必要があったのだろうか? 

ユダヤ人にとって、あるいは西洋人にとって、労働は罰であった。要するに「基本的にやりたくないこと」として考えられているのである。しかし、先述の通り、なにもしないくらいならば一般的に労働とされるような行為すら人は欲する。

ここに明白な疑問が存在していることは明らかである。「ユダヤ人は、あるいは人間は、労働したいのか、したくないのか、どっちなのか?」という疑問である。

あるいは、こう問いかけることもできるだろう。「僕たちにとってやりたくない労働とはなんなのか?」と。

畑仕事だからやりたくないとか、料理だからやりたくない、と簡単に割り切れるわけではないことは先述の通りである。また、年中無休で儲かりもしない豆腐屋をやっている老夫婦が存在することからも、「長時間だから嫌になってくる」と単純に言い切ることもできなさそうである(もちろん、長引けば長引くほどモチベーションが低下する傾向は存在するだろうが)。また、身体的負担だけを基準にすることもできないだろう(コールセンターでクレームを受け流すだけのバイトの身体的負荷はほぼゼロだが、それが苦痛であることは想像に難くない)。

こうなってくると、小泉進次郎のようなことしか言えなくなってくるのである。「やりたくない労働の特徴とは、やりたくないことである」と。

だが、ここで次なる疑問が生まれてくる。「なぜ、やりたくないことをやっているのか?」という疑問である。「そうしなければ飢えるのが自然の摂理だからである」という回答が真っ先に思い浮かぶわけだが、人間はずっとそうだったわけではない。じっさい狩りや家庭菜園、釣りは楽しい趣味として受け入れられているし、都市文明の外側では、農耕や狩り、採集といった生産活動を「遊び」と同じ言葉で表現していた人たちも珍しくなかった。そのうえで1日に4時間ほどしか食料採集に時間を費やさないブッシュマンのような民族も少なくないし、30歳になるまで、あるいは60歳を過ぎればぶらぶらと遊んでいるだけ・・・といった文化もあった。

たしかに僕たちは自然の摂理によって、一定程度のカロリー摂取のための労働(とされる行為)を強制されている。しかしそのことを問題視していた未開人はいなかったはずだ。おそらく、自然から呼吸を強制されていることを問題視する現代人が存在しないのと同じような感覚だったことだろう。

おそらくブッシュマンのような人々に「労働」という概念を理解させることはできないのではないか。あるいは、こう断言してもいいだろう。彼らの社会には労働は存在していない、と。

ではなぜユダヤ人の社会には労働が存在するのか?

一般的な説明は「農業という呪いにかけられたから」というものである。ぶらぶらとドングリを拾って食べるだけならさほど労働量は必要ない。しかし、定住して農耕するには耕し、石を拾い、雑草を抜き、常に腰を曲げて重労働をしなければならない。一度その道に足を踏み入れれば最後、食料生産量の発展とともに人口が増え、さらに働かなければならなくなるだろうというわけだ。

ところがこれも正しくないことはわかる。なぜなら、未開社会の中にも農業を発展させながら、労働という概念を育てなかった人々は存在していたからである。それに、狩猟採集民の多くは簡易的な農業を営んでいるケースがほとんどであったわけで、生産量をさらに増やそうと思えば、彼らにそれができない理由はないのである。逆に農耕民であろうが、一定程度に生産量を抑えつつ、人口もコントロールすることが可能だった(実際のところ妊娠を控えることで人口をコントロールしていた狩猟民も珍しくなかった)。

つまり、人が馬車馬のようにやりたくもない労働をするようになった理由は「農業」では説明がつかないのである。

ここまでをまとめよう。

生きるために必要だから、作業量が多い農業だから、それが労働であり、苦痛になるわけではない。

ではなんなのか? もう答えは明らかである。アンチワーク哲学が何度も何度も指摘してきたように、それを他者から強制されるから労働なのであり、苦痛なのである。それが自発的なものであれば、仮に自然に強制されていようが、労働ではなく、苦痛ではない。

だからこそ、1日ユダヤ人体験は僕にとって苦痛なのだ。ユダヤ人の安息日は、「行為しないことの強制」である。言い換えれば逆向きの労働であり、逆労働とでも呼ぶべきだろう。

繰り返すが、行為することが苦痛なのではなく、強制されることが苦痛なのであり、行為すること自体はむしろ人間は欲するのだ。ユダヤ教が、あるいは現代社会が見逃しているのは、こうした人間理解に他ならない。

僕たちはまだ、自分たちが労働をしたいのか、したくないのか、よく理解していないのだ。

だから幸福な社会が想像できない。AIでぜんぶの労働を代替するといった頓珍漢なビジョンばかりが語られるのである。いま僕たちに必要なのは、誤った人間理解を破壊し、正しい人間理解を構築することにほかならない。つまり、哲学であり、アンチワーク哲学である。


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