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マッキンリー登頂よりワンオペ子連れ旅行がキツいのは何故か

先日テレビ番組でタレントのイモトアヤコさんが「マッキンリー登頂よりもワンオペ子連れ長野旅行の方がキツかった」と語ってらっしゃいました。

↓記事にもなってました。

江草はワンオペ子連れ旅行には手は出してませんが、ワンオペ子連れお出かけや留守番はよくやっているので、その大変さは身に染みています。いやほんと、冗談抜きで大変なんですよ。日常生活をこなすのでさえ四苦八苦してるので、ましてやワンオペで旅行に行こうなんて考えるだけで恐ろしくて冷や汗が出てきます。

しかし、さすがにそれがマッキンリー登頂レベルの辛さとは想像してなかったので、非常に考えさせられる話だなと思いました。

一体ワンオペ子連れは何がそれほどまで大変なのか。

当然ながらマッキンリー登頂なんてその辺の一般ピーポーがおいそれと達成できるような容易なプロジェクトではないわけですが、それよりも子連れ旅行の方が大変というのは一体全体どういうことなのか。

この要因を考えるのは結構面白そうだなと思ったんですね。

こう言うと何ですけど、やっぱり客観的に見るとマッキンリー登頂の方が子連れ旅行よりは難易度は高いと思うんですよ。流石に求められる体力や訓練や準備の度合いが違い過ぎますからね。ただ、それでもなお主観的には子連れ旅行の方が大変というのには何が起きているというのか。

江草の仮説では、この辛さの原因は「期待」と「実際にできること」のギャップの大きさにあるんだとおもうんです。

マッキンリー登頂が大変だというのは誰でも理解しているわけです。失敗して途中で帰らざるを得ない可能性も高いし、下手したら死ぬかもしれない。それを理解してるからこそ挑戦者は大変な準備と努力を怠らない。それだけ難しいということを腹の底から理解納得してるからこそ、現実に山で困難が起きても言わば「想定の範囲内」であり、期待とのギャップが少ないわけです。

もちろん、ワンオペ子連れ旅行も難しいということは誰もが理解しているところでしょう。江草自身「絶対大変だわ」と思うからこそ、ワンオペ子連れ旅行の企画さえ考えることはないわけです。もしそれを実行するとなれば十分な計画と準備を行う必要があることは理解しています。

こう言うとワンオペ子連れ旅行もマッキンリー登頂と同様に「難しい」と理解してるのだから同じじゃないかと思われるかもしれません。

ところが、江草の見立てでは、おそらくその「理解」の度合い、あるいは性質が両者で全然異なるんじゃないかと思うんですね。

ワンオペ子連れ旅行は確かに大変ではあるのですが、その行程の舞台は別にいつ雪崩が起きるかもしれない雪山ではなく、普通に人々が行き交う街中に過ぎません。あるいは旅行中に自然あふれる場所を訪れることがあっても、それは人の手で公園並みに管理整備されてる自然であって、隙あらば命を奪おうと虎視眈々と狙ってくる神々の山嶺ではないわけです。

つまり、子連れ旅行中に見る光景は(確かに観光名所などの非日常のサイトを回るにせよ)日常の延長線ではあるんですね。道路とか階段とかお店とか食事とかトイレとか電車とかバスとか、私たちが慣れ親しんだ物たちによって旅行は舗装されている。もっとも、そうでもなければ危な過ぎて子連れで訪れることはできないわけですが、ともかくもそうやって旅行中に遭遇する個々のパーツが思いのほか「日常的なものばかり」であることが重要なポイントになります。

この子連れ旅行中に遭遇するハードルがことごとく「日常的」であることが、案外心を折りに来るんです。

子連れで旅行するのは「難しい」というのは誰もが理解してるということは先ほど述べました。ただ、これは言わば「頭での理解」であって、実は私たちは心身で完全に納得することはできてないし、そもそも簡単に納得しにくいシチュエーションに置かれるんですね。

たとえば、目の前に階段があるとしましょう。普段、自分一人ならやすやすと何も考えることなく越えれるハードルです。というよりハードルとさえ全く感じないぐらいのものでしょう。ところが、これがベビーカーを押して荷物を大量に抱えてると全く越えられません。ベビーカーでは階段を登れないのでわざわざ迂回してエレベーターを探し、呼んだのになかなか来ないエレベーターをジッと待つことになります。なんなら到着するエレベーターがことごとく満員でしばらく乗れないことが続く時もあります。そうやってようやくエレベーターに乗って上階に登ったけれど、それで達成した成果はただ「階段を登ったレベルのこと」なんですね。

件のイモトさんはベビーカーでなく抱っこで行かれたような雰囲気でしたが、それも赤ちゃんと旅行用品がギッシリ詰まったリュックを担ぎながらと考えれば、同様に「ただの階段」が「ただの階段」でなくなることは明白でしょう。

このように、普段の自分一人の感覚では何らハードルに思われない日常の光景が突如大変なハードルとなって眼前に現れる。これが辛いんですね。

頭では「子連れだから難しいのは当然」と分かってはいるんです。しかし、そうは言っても目の前に見えてるのは「ただの階段」。「自分だけならあっという間なのに」という気持ちが湧いてくるのを抑えるのは容易ではありません。しかも、同時に他の人々がやすやすとその階段を登っていくのを目の当たりにもします。頭では分かっていても、気持ちが、身体が、その状況をなかなか納得できないのです。

そして、こうした現象はもちろん階段に限らず、全ての日常的行程で発生します。


確かにそれは人類未到だとか数えられるほどの人間しか到達したことがないだとか言う極限の光景ではありません。しかし、むしろそれが自分自身も今までの人生で難なく容易に何度となく越えてきた日常的風景だからこそ、誰もがハードルとさえ思わずに無意識に越えられるほどの普遍的な行為だからこそ、子連れになった途端にそれを急に越えられなくなる我が身の無力感に認知的不協和を感じてしまうのです。

今までの人生で培った経験と、目の前のあまりにも平穏な光景から、心や身体は「こんなの簡単だよ」というシグナルを送り続けて来る。期待が勝手に湧き上がってきてしまう。しかし、現実には全然簡単ではなくヘトヘトになりながら時間も相当に費やしながらようやく越えられる。

この「期待」と「実際にできること」のギャップが、子連れ旅行がマッキンリー登頂を超える主観的辛さを引き起こすのだと思うんですね。

脳科学的な話で以前聞いたことがあるんですが、推論とは「予測と現実のギャップを最小にすること」なんだそうです。成長とか慣れとか学びとか、つまり大人になるということは、世界と付き合っていく中で予測の失敗を積み重ねることで脳内のこの推論プログラムを磨き上げることに他ならないのでしょう。

ようやく大人になってこの推論がスムーズに失敗なく行えるようになった頃合いに、子連れ経験をするから落差が激しすぎるんですね。いきなり推論が失敗しまくるようになって脳がパニックになると。

マッキンリーなんて行ったことはないから誰もが「無茶苦茶に難しい」という予測を保ったままです。たとえ実際に行った時も、実際に「予測通りに無茶苦茶に難しい」だけなので予測と現実のギャップは少ない。むしろ「予測通りに無茶苦茶に難しい」からこそチャレンジ精神が掻き立てられるとも言えます。

しかし、日常の光景は日常だからこそあまりに慣れ親しんでしまっている。その結果、「簡単だ」という感覚がいつの間にか私たちの骨の髄まで身に染み付いてるんですね。すなわち、私たちの脳内の推論プログラムは勝手にこれまでのように「階段なんて簡単に登れますよ」と計算結果を弾き出してしまう。でも現実には簡単に登れない。この予測と現実の高低差ギャップが、ある意味マッキンリーよりも大きな山として私たちの脳内にそびえたつわけです。

もちろん、これまで何人も産み育てたとか、親族や近所に小さい子がいるなどして、子どもに慣れ親しんだ経験があれば、「子連れだと大変」ということを頭だけでなく肌感覚で理解することができるでしょう。その場合は、推論プログラムも現実とさほど違わない予測を出してくれるので認知的不協和の苦しみも少ないはずです。

ところが、社会的な少子化や個人化のトレンドによって、日常で(特に他人の)子どもと接する機会というのは激減しています。そしてまた晩婚化、晩産化によって子どもと初めて共に生活するまでの「大人だけ期間」が長期化してもいます。

だから、各々が長期間「大人だけの社会」に対して推論プログラムを無意識に磨き続けることによって、なおさら自分が出産育児をした途端の予測の外れ具合が大きくなるわけです。「大人だけ社会」を私たちは過学習してしまっているとも言えましょう。そのせいでギャップが大きくなってる社会になってしまっていると。


そんなわけで、ワンオペ子連れ旅行がマッキンリー登頂よりも辛く感じられるのは、このような期待と現実のギャップの効果が強いんじゃないかと江草は考えているんですね。

これを緩和する方策としては二通りのアプローチがありえるでしょう。

一つは期待を現実に近づけること。つまり、子どもと触れ合う機会を社会的に増やすことで、子連れの大変さを肌感覚で学んでおくことです。

もう一つは現実を期待に近づけること。つまり、子連れでも大人だけの時と変わらずハードルなくスムーズに活動できるように、世の中のバリアフリー化を図ったり、ファミリーフレンドリーなサービスを増やすことです。

悲しいことですが、両方ともが全然うまくいっておらず、ギャップが広がるばかりというのが社会の現状だと思うので、なんとかトレンドを逆転させたいところです。

この「子連れがあまりに大変」という現実が少子化の遠因になってる可能性も十分ありますし、せめてマッキンリー登頂レベルの辛さから、富士登山レベル、なんなら天保山レベルまで子連れの難易度を下げていただけたらなあと思います。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。