見出し画像

『同志少女よ、敵を撃て』読んだよ

昨日の『傲慢と善良』の感想に引き続き、今日は逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』の感想を。

こちらも本屋大賞受賞などしてる話題作ですね。


例によって核心的なネタバレはしませんが、読む前に内容の雰囲気さえ知りたくない人はここでUターン推奨です。




舞台は第二次世界大戦の独ソ戦の最中にあるソ連。ナチドイツに故郷の村を襲われ、家族や親しい人たちをことごとく失った少女が、復讐のためソ連赤軍の狙撃兵部隊に入り活躍していくストーリーです。

テーマが歴史上最大最悪の戦争と言える独ソ戦であるだけに、当然ながら重い内容にもなりますし、凄惨な展開やシーンも続きます。

ただ、文体はテーマに比して思いのほかライトで、残酷な場面も努めてできる限りあっさりと描いてるように感じました。

各主要登場人物のキャラ立ちや、ナチドイツに恨みを持つ生き残りの少女たちで構成される狙撃兵部隊という設定もなんだかライトノベルやマンガみたいな感じです(陰のある少女部隊というのがそこはかとなく『GUNSLINGER GIRL』にも似た印象を抱かせます)。

調べたところ、著者はもともとライトノベル系の賞に応募されてたり、小説投稿サイトで活躍されたりしてるそうで、ライトノベルタッチのストーリーや文体が得意な方なのだと思われます。

といっても別に戦争小説なのにライトノベル的なのはおかしいと言おうとしてるわけではありません。そもそも「ライトノベルならば軽いテーマを扱わなきゃいけない」なんてこともないですし(ライトノベルは往々にしてヘビーな描写や展開を含むものです)。

むしろ、独ソ戦というあまりにも凄惨で重い舞台だからこそ、ライトなタッチであることで読者への敷居を下げる効果があると感じました。おそらくは著者もこの効果を意識的に狙ってらっしゃるのでしょう。文体や設定まで重く硬いものだと、ほとんどの読者は話に入ってこないし読み進められなくなるでしょうから。

例えば、(本作も多大なリスペクトをしていることがうかがえる)『戦争は女の顔をしていない』というソ連赤軍に従軍した女性たちをインタビュー取材して書かれた世界的名著があります。

人類レベルで重要な一冊と言えるのですが、江草自身はというと恥ずかしながらあまりに重い内容かつ硬派な筆致のために、その生々しい刺激に耐えかねて読み進められなくなってしまいました。つまり、読んでて辛すぎて読めなくなったわけです。

ところが、同書は最近コミカライズが行われたんです。

これがいっそ可愛らしいとも言える柔らかな画風で描かれてるのもあって、この漫画版の方は江草も読むことができています。もちろん漫画だからといって描かれている内容自体は大変ハードなのですが、それでもだいぶとっつきやすいのです。

「泣き言を言わずちゃんと原書の方も読め」と言われれば返す言葉もないのですが、でもやっぱり重すぎるテーマはある程度何かしらで多少なりとも甘口にする工夫が無いと多くの人にとってキツ過ぎて全く受け付けなくなってしまうという傾向はあると思うんですよね。

そして、事実、本作『同志少女よ、敵を撃て』の、あえて文体をライトにすることで敷居を下げる狙いは功を奏したと言えます。なにせ本作は発行部数50万部を突破されてるそうですし、これはすごい偉業です。

戦争と言えば太平洋戦争ばかりが注目されがちな日本において、あくまで他国同士の戦争のイメージしかない独ソ戦がこれほどまで大衆に広く注目されたことはおそらく今までなかったんじゃないでしょうか。

だから、本作のライトなタッチについては、批判するどころか、むしろ重要で賞賛すべき特長であると江草は感じました。

実際、すごく読みやすくて話も分かりやすいのでスラスラ読むことができました。

ストーリーも、全体的な完成度が高いだけにもう少しばかりクライマックスでひねりとカタルシスは欲しかったかなと思いつつも、全般に王道的面白さに溢れていてエンタメ性もバッチリと言えます。

一応補足しておきますと、別に本作は「思いのほかライト」とは言え「まさにライトノベル」というわけではもちろんありません。独ソ戦の展開の歴史的背景や地政学的な解説なども随所に込められていて、読んでいて学びが多いものでした。これを書くには大変な量の取材が必要だっただろうなと感嘆させられる、濃密な底力に裏打ちされている作品です。見た目が軽く見えるように施されてるだけで、本質的にはライトどころかズッシリとした密度が感じられる重厚な小説なのです。


また、本作が物語を通じて潜在的に提示している「問い」も、非常に考えさせられるものがありました。

それは「戦争のような極限状況においても人は人間的なモラルを保ちうるのか」という問いです。

これを聞いて、モラルも何も戦争は「人を殺す」という明らかなる反モラル的行為をしてるじゃないかという指摘をされる方もいるでしょう。それはもちろんもっともです。実際、作中でもそのモラル的葛藤は描かれています。

ただ、戦争において「敵を殺す」という行為は「仲間を殺そうとする敵を殺すことで仲間の命を救っている」という形で比較的正当化しやすいのですよね。理屈的に妥当かどうかはさておき、そうすれば心の中で折り合いをつけられるわけです。そうしないと人は多分「人を殺す」という行為に精神的に耐えられないのでしょう。

なので、ここでより問題になるのは、虐殺や暴行、強奪といった戦争犯罪行為になります。

これらは「たとえ戦争中であったとしても許されない行為」と位置付けられており、ある意味「人を殺す」よりも反モラル的な行為と言えます(人殺しよりも上位の悪業があるというのはそれだけでなんとも恐ろしいことですが)。

で、そうした戦争の目的遂行にすら無用な戦争犯罪行為はちゃんと抑止できていたかと言えば、(連合国側、枢軸国側に関わらず)残念ながらそうではなかったというのが歴史的事実になります。

作中でも著者が強い意志を持って描かれたと思われる、目を背けたくなるほど悲惨な戦争犯罪シーンの数々。しかし、それを実行した者たちや擁護する者たちは次々に「正当化の弁」を放つわけです。「仕方なかったんだ」「戦争が悪いんだ」と。

読者の私たちからすれば、ただの言い訳にしか感じられない稚拙な弁明です。

でも、どうでしょう。

もし、私たちがあのような過酷な戦場に投げ出されたとして、確実にモラルを保っていられるか自信はあるでしょうか。私たちはただ幸運にも現代日本という平和で平時の社会で過ごせているから、そんな「キレイゴト」を言えてるだけなのかもしれません。

自分だったら本当にモラルに従って行動できると言えるのか。本作の登場人物たちも直面するこの難しい問いに、読者は誰もが背中に冷や汗をかく複雑な心境に立たされることになります。

実際、「上司の命令だから」とか「会社の利益のためだ」とか「みんなやってるから」とかレベルの稚拙な動機から不正行為に手を染めたり、見て見ぬふりをする例は、現代日本でも少なからず観測されています(目下話題の某社や某芸能事務所の事例なんかもそんな感じですよね)。

私たちが戦時中ですらないのにローカルな自己正当化論理を振りかざして普遍的なモラルをあっさり失うレベルの存在でしかないなら、戦時中のような極限状態ならなおのことモラルを保つのは難しいのではないでしょうか。

もし仮に「極限状態に追い込まれるとモラルが保てなくなるのだ」とすれば、できる対策は2通りで、平時からモラルを保つ訓練や意識をすることと、そして、そもそも戦争のような極限状態に社会や人々を追い込まないようにすることでしょう。

本作の登場人物たちが遭遇するモラル的ジレンマの苦悩の様子と、そして描かれている戦争の悲惨さを見れば、これらの対策の大切さが否応なしに痛感させられることになるはずです。

というわけで、十二分に小説としてのエンタメ性も有していながら、読者にこのような重要な「宿題」を課す本作は、さすが話題作と言える逸品であったと思いました。

面白かったです。

この記事が参加している募集

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。