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権威とはフォロワー数のことである

今日は「権威とは何か」について考えていたのでその話を。

もちろん、「権威」の意味は辞書を引けば出てきます。

権威
他の者を服従させる威力。「行政の―が失墜する」「親の―を示す」
ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。「―ある賞を受賞する」「心臓外科の―」

goo辞書

ただ、辞書らしい言い回しでなんとも小難しいし、「服従させる威力」というのも「権力」との違いが分かりにくいしで、個人的にはしっくり来ないなあという感覚があったんですね。

で、思いついたのが「権威とはフォロワー数だ」というとらえ方です。もちろん、あくまで個人の主観的なひらめきでしかないのですが、こう考えるとしっくりくるし、分かりやすいなと。

あ、ここで言う「フォロワー数」というのは別に「SNSのフォロワー数」ではなくって(それも実質的には含まれますが)、現実世界での総合力的な意味での「フォロワー数」を意図しています。具体的な数字には表れない概念的なものです。

といっても、いったいどういうことなのと思われると思うので、順に説明していきますね。


「フォローする」とはどういうことか

フォローするという行為はつまり対象の人物(あるいは組織)の言動に注目しているということですよね。逆にフォローしていない状態というのは、その人のことを知らないか、知っていてもその言動が自分にとって重要と思っていないということを意味します。

ここで、フォローという行為には別に服従させられるかどうかとか、好きとか嫌いとかの区別が入ってない事がポイントです。フォローするのに別に対象を崇めてたり好きであったりする必要はありません。対象に反抗心を抱いていてもいいし嫌いだとしてもフォローはできます。「こいつむかつくことを言ってるから論破してつぶしてやるためにフォローしちゃる」ということがありえるのがフォローです。

たとえば、岸田総理は低支持率で話題となっていますが、いかにみんなが支持していないとしても、一国の総理の発言をみんな無視はできないじゃないですか。全然敬ってなくても、不支持であっても、総理がどんなことをしようとしているか、どんなことを発言しているか無視はできない存在です。少なくとも多少なりとも私たちは注目してしまう。つまり、私たちは総理のことを無意識のうちにフォローしているのです。

こう言うと「別に自分は総理の言動を逐一チェックしているわけではないのにフォローと言えるのか」と思われるかもしれません。もっともな疑問です。ただ、私たちがSNSで誰かをフォローしている場合でも、必ずしもその人の言動をすべてチェックしているわけではないですよね。いくらか見落としてることは普通にあるでしょう。ですから、完全に言動をチェックしきらないといけないというわけではなくて、そのフォロー対象の言動が自分のタイムラインに流れてくるという状態がまさにフォローの本質なのです。

私たちは無意識に「権威」を「フォロー」している

また「別に自分はSNSで岸田総理や首相官邸のアカウントをフォローしてないけど」という疑問もあるでしょう。これももっともな疑問です。ただ、これはあくまで現実世界にSNSの「フォロー」という概念を適用しているという例え話的な側面があることをご理解ください。よくもわるくも現実とSNSとは異なるのです。そして、この最大の違いが、SNSでは意識的に私たちはフォローをオンオフできるけれども、現実世界では無意識のうちにフォローしてしまっているということです。

実際、こちらが意識しなくてもメディアが勝手に「岸田総理がどうこう」というニュースを私たちに投げてきますよね。こっちがフォローしたつもりがなくても、勝手に私たちの日常の「タイムライン」に総理の言動が通り過ぎていくわけです。すなわち、現実世界では勝手に「フォロー状態」になることがままあるわけです。

さらにこの状況をひも解いていくと、私たちはメディアを「フォロー」しているのだとも言えます。あなたが総理の言動に興味がなかったにもかかわらず、総理の言動が「タイムライン」に流れてきたとしたら、それはあなたがテレビや新聞などのメディアを「フォロー」していて、メディアが総理の言動を「リポスト(リツイート)」したからです。つまり、総理はメディアを通して間接的に「フォロワー数」を多数抱えてると言えます。

総理の言動を全く知りたくないのであれば、メディアを「フォロー」することをやめてしまえばいいのですが、そこについては見ることをやめられず、ついつい「フォロー」してしまう。これが「フォロー」の魔力であり、そしてこれこそが「権威」の実態であるといえます。実際に、多数の「フォロワー」を獲得しているテレビや新聞などのメディアはまさしく「権威」と言える存在でありましょう。

「機械的/心理的フォロワー」を多数得た者が「権威」

細かいことをいえば、「フォロー」にも二段階あります。ただタイムラインに表示されることを指す「機械的フォロー」と、タイムラインに流れてきた時により重要感を伴って注目する「心理的フォロー」です。

たとえば、テレビの街角インタビューでたまたましゃべることになった通行人は確かに一時的に莫大な人数の「機械的フォロワー」を得てはいますが、その発言はさほど重要視まではされないでしょうから「心理的フォロワー」はたいして得られてないというわけです。

それに比べると、岸田総理は、その言動がメディアに逐一「リポスト」されるという点で「機械的フォロワー数」も多数得ていながら、そして「また増税か?」などと人々がついその言動を重視してしまうという点で「心理的フォロワー数」も多数得ているわけです。このように、強力なフォロワー数を得ていることが「権威」なのです。機械的・心理的の両側面をできるだけ兼ね備えながらフォロワー数を伸ばせば伸ばすほど「権威」が増していくというわけです。

ここまでずっと岸田総理やメディアを例に出していましたが、この「フォロワー数=権威」という図式は、他のものでも同様に当てはまります。たとえば「フォロー」対象が厚生労働省でも松本人志でも大学教授でもSNSインフルエンサーでも大丈夫です。一般ピープルに比べ、現実的な意味で「機械的/心理的フォロワー数」を多く抱えてる彼らはすなわち十分に「権威」なのです。

「権威=フォロワー数」でとらえることの長所

で、わざわざ「権威」を冒頭のような辞書的な定義ではなくこの「フォロワー数」というとらえ方をする長所は4点ほどあります。

①分かりやすい

第一に、分かりやすいことです。やはり、辞書的な小難しい説明よりも、SNS時代にあって私たちに親しみのある「フォロワー数」というとらえ方の方が感覚的に分かりやすいのではないでしょうか。

②現実に即してる

第二に、現実に即していることです。「権威」を冒頭の辞書の定義のように「服従させるもの」「優れていると信頼されているもの」としてとらえると、現実には「権威」に対して反抗し懐疑的な目を向けている反権威主義的な人々が少なからずいることを説明しにくい気がします。どれだけ反抗され批判されていても権威が権威であることを説明できる点で「フォロワー数」というとらえ方は魅力的ではないでしょうか。

③「権力」との違いが明確になる

第三に、「権力」との意味の違いが明確になります。「権力」は「力」という文字で表されてることから分かるように、現実世界で人や物事を動かせる能動的な「パワー」のことを示しています。一方で「権威」を「フォロワー数」としてとらえると、それは「注目や重視をされてる度合」という受動的で感覚的な概念ということが明瞭に示されます。

この対照は、「影の権力者」という表現があっても「影の権威者」という表現が存在しないことをよく説明できるでしょう。力を振るうのは影であっても(皆に知られてなくても)可能ですが、フォローされること(注目されること)は影にあって(皆に知られなくて)は不可能だからです。

こう見るとほら「権力」と「権威」の違いが分かりやすいのではないでしょうか。

④反権威主義が「権威」に至る皮肉な運命が説明しやすい

第四に、反権威主義的な活動に運命づけられている皮肉な帰結をシンプルに説明できることです。

「権威」に対して反抗し批判をするのが反権威主義的な活動ですが、その活動が功を奏し、衆目を浴び支持を集めるようになると、その反権威主義活動そのものやリーダーが結局は新たな「権威」になってしまう皮肉な帰結はしばしば観測されます。すなわち「反権威」がうまくいくと必然的に「フォロワー数」を多数獲得してしまい、自分自身が「権威」になってしまうという矛盾した状況が起きるわけですね。

たとえば、浄土真宗の祖である親鸞なんかはとても反権威主義的な人物として知られています。ところが、当の本人が生前(さすが「反権威」らしく)「俺の墓なんて建てんでいいぞ(川の魚に食わせろ)」と言っていたのが、結局は「フォロワー」により立派な墓が建てられ、現在でも各地のお寺で荘厳なお堂の中に鎮座する姿で奉られています。反権威主義者であった彼が皮肉なことに「権威」になってしまったというわけです。

別にこれは悪く言おうとしているわけではなく、むしろ人間社会の一筋縄でいかない複雑さが垣間見れる興味深い話として見ています。

「権威」の存在を批判しその解体を理想とする反権威主義においては、この自身が「権威」となってしまうジレンマに対する策がないとどうにも成功しないということになります。考えられる策としては、「権威」を多少揺るがせるぐらいにとどめるか、「権威」を溶解させる風土を(自分たちが注目されることなく)大衆に普遍的にひっそりと行き渡らせるかぐらいですが、なかなか難しそうでしょう。

となると、「権威」がなくなることは当面なさそうです。私たちは「権威」とどう付き合うかをこれからも悩み続けることになるのでしょう。すなわち、もっと自分の「フォロワー数」が欲しいとか、「フォロワー数」が多いあいつらがムカツクとか、そういった悩みと「フォロワー数」の格差の根本的な解消ができないままで向き合わなければいけない。大変残念なことですが、どうもそうなってしまうようです。

おしまい

というわけで、以上、「権威」を「フォロワー数」としてとらえると、色々と便利で面白いなあと思ったというお話でした。

我ながら変なことを真面目に考えてるなあとも思うのですが、こういうのを考えるのは楽しいからいいのです。


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