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「正しいことをしたければ偉くなれ」の罠

世の中や組織の理不尽や矛盾に対して憤りを感じている人に対して、投げかけられるアドバイスの一つのタイプに「正しいことをしたければ偉くなれ」というものがあります。

これは確かに現状がおかしいこと認めつつも、それを変えるにはこの現状の中で正規ルートで偉くなって自身で権力を握るしかないという立場です。今は我慢して出世して偉くなって権力を振るえるようになったら、存分に改革をすればいいじゃないかと。

とても真っ当で合理的で賢明な現実的な雰囲気のアドバイスであり、「確かにそうかも」と思わせる力があります。

実際、江草もこのアドバイス、一理あるとは思うんですよね。

ただ、それでもこのアドバイスは状況を楽観的に見過ぎていると江草は思います。

というのも、そんな「正しいことをしたければ偉くなるべき」なんて真っ当な理屈は、社会や組織はすでに当然のごとく織り込み済みで、そんなことでは簡単に揺らがないように堅牢に築き上げられているからです。

まず、往々にして、偉くなったり出世するための正規ルートには「踏み絵」が用意されてるんですね。つまり、不正やズルに従事させたり、汚れ仕事を遂行したり、そうした「悪行」に手を染めた者をこそ「ともに手を汚した仲間だ」と認識して取り立てるところがある。

この辺の理屈は、以前のこの記事でも書いたので詳述はしませんけれど、

グローバルルールに反するローカル集団特有の理不尽な行為にコミットしないと偉くなれないように仕立て上げられている。これはローカル集団内部ではそのローカルな掟に従うことこそがコミットメントになるからで、中でも特にグローバルルールに反するローカルな掟に従うかどうかが、集団に忠義を誓っているかを測るための最適な評価基準に自ずとなってしまうんですね。

もちろん、内部では「悪行」とは思われてないんですよ。「大義のためにはこれぐらい多少グレーな行為や抜け穴を突くことは仕方がない」みたいな形で「仕方がない犠牲」として、それを当人が心から理解して納得して信仰して実践できるかどうかを測ってるからこその「踏み絵」です。

ここで、もとより「正しいことをしたいぞ」という理想主義者は心が折れがちなわけです。偉くなって正しいことをする前に正しくないことをいっぱいしないといけない。理想主義者であればあるほど、これが耐えがたい苦痛になるわけですね。

この「踏み絵」を「最終的に偉くなって正しいことをするためには仕方がない」と納得できる人は、なんだかんだ現実主義者寄りだったりします(もしくは究極的な理想主義者の可能性はありますがごく一握りの人間しかいないでしょう)。本当に「偉くなる」までに何十年とかかってるうちに、結局はどんどん現実主義に染まっていって、ついに偉くなったときには若いうちに抱いていた理想も「現実的にはしょうがないよね」などと風化しているものです。

だから、理想主義者は「偉くなるため」の出世コースからハナから外れがちですし、軽めの理想主義者も長年手を汚してるうちに「現実はそういうもんだよ」と語る現実主義者として立派に成長することになる。

そうすると、偉い人は結局は現実主義者が優勢になるために、改革するといっても、意外と保守的でサラッとしたものになりがちで、「正しいことをしたければ偉くなれ」というアドバイスが想定しているようには、実際には正しい改革は行われないんですね。

もしくは、たとえ本格的な改革はするにしても、彼ら彼女らが出世してるうちに、周りの状況の方が変わっていて、彼ら彼女らがようやく手をつけた改革がすでに「時代遅れ」であるケースもあります。「正しいことをしたければ偉くなれ」に従うと、若いうちから溜めに溜めていた「彼らの理想」の実現が遅くなりすぎるんですね。彼らが若いうちに抱いた「正しいこと(理想)」が、彼らが老いて偉くなるまでに変わらず待ってくれてるとは限らないでしょう。

あるいは、一見すると出世のゴールにたどりついたような人物であっても、意外と権力は限定的であったりするんですね。なんだかんだステークホルダー関係各位の顔色をうかがわないといけない場面が多くて、言うほど独裁的な強権が振るえるわけでもない。

そんなわけで、「正しいことをしたければ偉くなれ」というアドバイスはすごくそれっぽいものの、実際にはそれでは「正しいことをできない」ように抑制されるシステムができあがっていると。こういうことになるわけです。

ちょっと批判的に描いてきましたけれど、でもまあこのシステムが自然に生じること自体が仕方ない面はあるわけです。偉くなった人物の思想如何でコロコロ簡単に組織文化が変わるようであれば、その組織(あるいは社会)の安定感(ホメオスタシス)が失われます。安定感がないと結束力がなくってバラバラに霧散しやすいので、内蔵されてるスタビライザーによってコロコロ変わらないからこそ長持ちする組織となってるところがある。だから、逆に言えば、いわば生存者バイアスのようなもので、今長持ちして生き続けてる大組織は良くも悪くもこうしたスタビライザーを内包しがちということですね。

それゆえグローバルルールに基づけば不道徳であったり不正であったりするようなローカルな掟も生き残り続けていて、皆にそのダブルバインド的な理不尽さを常々突きつけてくるというわけです。

しかし、その理不尽に真に怒る理想主義者は「踏み絵」に耐えきれず偉くなれないので、その内部で正しいことをする立場になることはないと。

うん、本当によくできています。

もちろん、「全ての偉くなった人が正しいことをできない」と言ってるわけではありませんよ。本当に頑張って偉くなって真に正しい改革を実践してる方もいらっしゃるとは思います。

ただ、そういう人が全体的な傾向としては稀になるように、うまく仕掛けができあがってるよというお話です。

むしろ、そうやって稀だからこそ、偉くなった上で真に正しいことが行える人は真に偉人と言えるのかもしれませんね。


ということで、結局、個人が合理的に生きると取り込まれるように社会は合理的に出来てるわけです。合理性なんて何も個人の専売特許ではなく、社会だって個々人の合理的選好に対する理にかなった適応をしてくるんですよ。

だから、社会を変えるのは「ヨソモノ、バカモノ、ワカモノ」とよく言われますでしょう。これらの「3モノ」に共通してるのは、昔からあるローカルな合理性なんて無視すると言うことです。つまり、非合理的な動きができる人たちです。

「正しいことをしたければ偉くなれ」みたいなちゃっかりした合理的思考ではなんだかんだ変わらない。どこか非合理的でなければ正しいことはできないし、世の中は変えられない。そういうことなんですね。


いやはや、「正しいことをする」って大変ですね。



※以下余談というか補足説明。

一応、江草個人的なイメージとしては、実際には「内部で偉くなってる人」と「ヨソモノバカモノワカモノ」みたいな人たちが共に内外から圧力をかけることで物事は変わると考えてるところがあります。内側と外側とどちらも要る。片方だけではダメ。

「内部者」か「外部者」かというのは二律背反ですから、一人の人間が同時にどちらの立場にもなることは不可能なので、自ずとどちらかの立場を選択する必要が出てきます。(時期によって同じ人が内外を出入りすることはあるかもしれませんが、特に改革を必要とするような保守的な組織は出入りがほとんどないので現実的にはやっぱり背反です)

その内部と外部に分かれて相反する立場の人間たちが、その立場の垣根を越えて「正しいことをしたい」と協働したときに初めて何かしらの変革が起きると。

だから冒頭で「正しいことをしたければ偉くなれ」にも一理あると言っていたのは、何かしらを変革するにはそれはそれで確かにそうした「内部出世者」も必要な要素だと江草も考えているからなんですね。

ただ、「内部で偉くなった人間だけで正しいことができる」なんて甘い話でもないということを、ちょっと語ってみたかったというのが本稿になります。なお、これは同時に他方の「ヨソモノバカモノワカモノだけで正しいことができる」というのも甘い見立てだろうと言っているということになります。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。