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ホウレンソウを考える

社会人の基本として有名なのが、報告・連絡・相談の3種の神器、いわゆるホウレンソウですね。これをきっちり行うことを社会人デビューしたての新人たちはまず叩き込まれます。

確かにホウレンソウは大事です。多くの仕事が組織で動くものである以上、そのメンバー同士での情報共有は円滑に仕事を進めるために不可欠です。特に医療界なんかはちょっとしたコミュニケーション不足や勘違いで大変な事故が起きたりもします。コミュニケーションの大切さを促すホウレンソウの励行は重要なことでしょう。

上からのホウレンソウは少ない

なのですが「ホウレンソウが大事なんだぞ」と若手には強調される割に、見落とされてる死角があるように思うんですよね。それは、上司側から部下側に対するホウレンソウです。部下が知らないうちに色々決まっていたり、どうなったか分からないままになってることが多々あります。報告があったとしてももう決定事項として示されるものばかりで、部下側の意見を尋ねるような相談は乏しい。

ホウレンソウに対するホウレンソウも本来は必要なはずです。部下がホウレンソウした内容が、結局どうなったのかのホウレンソウがない。これでは闇に向かってホウレンソウしているような手応えのなさであり、ホウレンソウするモチベーションが維持できないことにつながります。

だから、「ホウレンソウが大事だ」と言うならば、上司側も部下側に対するホウレンソウを徹底しないとおかしいし、ホウレンソウ文化の定着にもつながりません。

ヒエラルキーとはそもそもホウレンソウの非対称性にある

もっとも、これはトートロジー的なところがあります。つまり、部下にホウレンソウを求めるけれども自分はホウレンソウの義務を負わないという関係性、これこそが上司ー部下関係であるとも言えましょう。ホウレンソウを求められるかどうかの義務の偏りが、すなわちヒエラルキーの実態であるということです。

お互いにホウレンソウを徹底し合うなら、実のところそれは対等な関係性であり、そうなるともはや上下関係のない普通のメンバー同士の関係性と変わりません。

だから、ヒエラルキー的な組織構造を基盤として考えるならば、上司がホウレンソウを求められる筋合いはないと言えるでしょう。

平等志向の高まりで上からのホウレンソウも増えている

ところが、最近は平等が重要視される世の中になってきており、仕事も含め、旧来型のヒエラルキー色の強いやり方は嫌われるようになってきています。だからこそ、上からのホウレンソウが乏しいことに下は不満を抱きやすくなっているわけですね。

実際、先ほどは乏しいとは言ったものの、「上からのホウレンソウを増やそう」という機運は高まってるように思われます。情報公開とか、情報共有だとか、情報発信だとか、できるだけ上の状況や考えを伝えようという雰囲気は出てきている感じがします。上りと下りでの絶対流量の差には偏りはあるものの、その偏りを緩和する方向には動きつつはあるわけです。

平等志向による密なホウレンソウ社会の問題点

(ヒエラルキー志向の思想の方は逆でしょうけれど)比較的平等志向の江草にとってこの流れは基本的に良いことであるとは思います。ただ、実はこの帰結に懸念も感じています。

というのも、互いが互いに対等であるとしてホウレンソウを密にするというのは、結構窮屈なんですよね。

まず、省略されていた上から下に流すホウレンソウを新たにちゃんとやろうというわけですから、ホウレンソウの量は当然増えますよね。

しかも、各メンバーからそれぞれ受けたホウレンソウを上が束ねていた効果も無くなるので、今まで上にホウレンソウするだけで済んでいたのが、各メンバーが各メンバーにホウレンソウを徹底する必要が出てきます。そうするとホウレンソウは激増するわけです。ホウレンソウ大繁殖です。

たとえば、「なんか最近何でもかんでも会議や書類とか増えたなあ」とうんざりしてる方は少なくないと思いますが、これこそホウレンソウ大繁殖の兆候なのです。情報を報告したり連絡したり相談したりしているよというていを上が徹底しようとしてるからこそ、情報共有を目的とする書類や相談の場である会議が増えるのは必然です。

もっとも、今ではまだこれがていレベルであって、形式上「ホウレンソウしてますよー」という上側のポーズに過ぎないのを見破られてるからこそ、序盤で述べたように下側は萎えているわけですが、本気のホウレンソウが徹底されたらされたで、その情報処理は膨大な労力を要するので結構な問題になるのは必至です(すでになってるとも言えます)。

ホウレンソウ飽和を緩和する第三の道

じゃあ、上からホウレンソウがないのも嫌で、互いにホウレンソウしまくるのも嫌だとすると、どうしたらいいか。

第三の道としてあり得るのは、互いに自由であるという関係性でしょう。すなわち、上下関係的なヒエラルキーもないし、ホウレンソウも互いにそこまでしなくていいという関係です。

以前、江草は「自由とは理由や目的を問われないこと」というnoteを書きました。

これを本稿のトピックに当てはめるとするならば、「自由とはホウレンソウを求められないこと」と言えるでしょう。お互いのホウレンソウを徹底すると窮屈に感じられるのは、この自由が失われるからなわけです。

親からいちいち「今日何したの?」「どこ行ってたの?」「宿題はしたの?」などと尋ねられまくる日々に、「ああ、自由が欲しい」と誰もが感じた経験があるはずです。

だから、ホウレンソウ無しに好きにやっていいという自由な裁量権を各自が持つことが、上下関係もない窮屈でもない、そういう世の中につながります。

これは旧来型のヒエラルキー構造基盤の企業組織や社会文化とまるで違う思想なので、なかなか理想と現実のギャップが大きいのですが、それでも実際にこの自由裁量志向の機運も高まってきている兆候が見られています。


たとえばこの書籍『「自営型」で働く時代』でも、「メンバーシップ型」や「ジョブ型」に代わる大きな働き方の潮流として、裁量権の大きな「自営型」という働き方が勢いを増していることが指摘されています。

「自営型」とは、完全に自営業というわけではなく、あくまで組織に雇われながらも「自営」っぽく働かせてもらえるというものですが、これが広がってきているということは、企業の側にも柔軟に世相の変化に対応するポテンシャルがあることが示唆されており、今後の更なる展開も期待されます。


もっと広い社会文化の観点で見ると、ベーシック・インカムへの支持が高まってきていることも自由裁量志向の機運の象徴です。

ベーシック・インカムとは理由や要件を一切問わず、万人に配布されるお金です。これは、あれやこれや要件を満たしているかを徹底的にホウレンソウさせられる、生活保護や各種助成金などの現行制度とは一線を画しています。

そして、お金とは受け取る時はホウレンソウさせられるけれど、使う時はホウレンソウ(説明責任)から免れているという特徴を持っています。

以前、江草はこのテーマでnoteを書いてます。

だから、ベーシック・インカムによってお金を受け取る時のホウレンソウを免除すれば、使う時のホウレンソウはもとより必要ないわけですから、ホウレンソウの呪縛から逃れられるわけです。

理由を問わずもらえて好きに使っていいお金。これぞ自由裁量権そのものです。だから、このベーシック・インカムが支持を集めてきていることは、世の中で自由裁量志向が進んでいる兆候と言えるのです。

結び

というわけで、ホウレンソウを軸に社会の今後の展望まで語ってしまいました。

でも、やっぱり、情報を共有するとか相談するという仕草は人間関係の根源的な活動の一つですから、実に深い本質的なものをホウレンソウが抱えてるのは不思議ではないと思うんですよね。

こういう身近なところから大きな話に繋げて考えるのって面白いですよね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。