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自由とは理由や目的を問われないこと
先日、時間制限がある自由時間はあんまり自由じゃない、という話をしました。
自由というと「何でもしていい」「これはしちゃダメ」みたいな内容制約の面が注目されがちですが、それ以外の側面もあるよねと。
今回はまた別の視点から自由について考えてみます。
結論から言うと、目的や理由を問われたら「自由」の自由感はなくなっちゃうよねという話になります。
定番の例として有給休暇があります。有給休暇は労働者が自由に取得して良いものとなっています。
ただ、往々にして「何で有給休暇を取るのか」と上司から尋ねられるという問題が知られています。有給休暇取得に理由の説明義務は法的にもないのですが、(職場にもよると思いますが)理由を求められるという慣習が根強いんですね。
なんなら、上司から聞かれるまでもなく労働者自ら「この日は子どもの受診があるので休みます」みたいに理由を宣言してから休暇申請することもよく見られます。休暇を取るなら理由が必要だという空気が労働者の中にも浸透してるわけです。
ここで、上司は単純に他意なく一応理由を聞いてみてるだけで、内容が何であれ休暇を取ることを認めるつもりだから問題ないという意見もあるかもしれません。
(それが本当にすんなり認められるかどうかはかなり疑問がありますが)たとえそうだとしても、「理由を聞かれる」ということだけで、労働者側が本当に自由に休暇を取得できる気持ちになれるかというと疑問でしょう。
人は社会的動物ですから、どうしても周りの目線を気にしてしまいます。だから、理由を尋ねられると社会的に認められるような相応の理由を用意しなければという強迫観念が沸き起こるものです。
その証拠に、労働者が自ら宣言する有給休暇の取得理由は「子どもの受診」だとか「法事がある」だとか、社会的に「それなら仕方ないな」と思われるであろうもので占められていて、「ゲームの発売日なんで」とか「ただゴロゴロしたいので」とか「転職活動のため」なんてのはほぼ出ません。
その理由が真実か建前かは不明ながら、周知するために選ばれる取得目的には「よく見られたい」という意識が色濃く出てると言えるでしょう。
対外的にはウソをついて建前的な理由を提示すればとりあえずクリアできると割り切ったとしても、よほどのサイコパス的な人でない限り、普通の人はウソをつくことにストレスを感じるものです。ウソをついて自分が傷つくまでしないと休暇を取得できないとなったならば、自由に取得できてるという感覚は大きく阻害されます。(そもそもウソの理由を言うのは法的にも不利になり得るという問題もあります)
だから、結局人々は社会的に「仕方ないな」と思われる真の理由でしか有給休暇を取得しないように自らで自らを縛り始めるわけです。「ゲームしたいから休みたいな」とふと思っても「その程度の理由じゃダメだな」と無意識的に制約をかけてしまう。「理由を聞かれる」と思うだけで、自由の内容が事実上、制約されてしまうのです。
そもそも、自由な取得を妨げる結果になるから良くないと分かってるからこそ、法的にも有給休暇の取得に理由は不問としてるのですが、慣習的に理由を尋ねたり尋ねられたりする文化が蔓延してるために、実際上はその自由感は失われてしまってるということになります。
有給休暇の例から「理由を問われること」が自由を損なうことが分かります。すなわち、自由には「理由や目的を問われないこと」という側面があるとも言い換えられます。
まあ、言われてみればそりゃそうよというレベルの当たり前っちゃ当たり前の話なんですが、これを踏まえて社会を見ると結構面白いことが見えてくるなと。
人はやっぱりなんだかんだ自由を求める生き物です。現代日本のような自由主義社会ではなおさらです。
それはすなわち「理由や目的を問われないこと」を人々が求めることとなるわけですが、そうすると社会に何が起きるか(起きてるか)。
……という話の展開を考えていたのですが、今日はここで執筆時間が終了しましたので、また後日続きを書くといたしましょう。悪しからず。
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