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世界に貢献したいのか、貢献してる気でいたいのか

今日は思考実験でもしてみましょうか。

二つの選択肢から一つを選ぶとしたらどっちがいいかという選択です。

  1. あなたは何ら世の中に貢献してないか、むしろ世界に大変な害を与える行為や道徳に反する行為をしていることを自覚しています。何なら世界を滅ぼしうるようなことをしでかしています。しかし、何の因果か、周りの人々はその事実に気づいておらず、あなたを世界の救世主たる正義の人とばかりに貢献を賞賛し、名誉と多額の報酬を与えてくれています。

  2. あなたは大変に世の中に貢献しており、何なら世界を救うレベルの偉業を見事成し遂げました。そのことをあなたは知っています。しかし、何の因果か、周りの人々はその事実に気づいておらず、あろうことかあなたを世界を害する大犯罪人とばかりに糾弾しています。名誉も報酬もなく、下手をすると重罪に処されたりリンチに遭う目になるかもしれません。

言わば、1が「偽りのヒーロー」、2が「不遇のヒーロー」です。

さて、どちらの立場になりたいですか、という思考実験です。

まあ、正直、どちらもあまりにひどい選択肢なのですが、思考実験というものはたいがいひどい選択肢しかないものなので、ご容赦ください。

1は確かにすごく恵まれた待遇をもらえます。ただ、そのような待遇にとても値する人間でないことを自身で自覚している。その欺瞞に耐えられるかどうかというのが問題です。

2は確かに世界を救うという実に有意義な貢献を果たしています。しかし、誰からも賞賛されず、むしろ非難されるという不遇に耐えられるかどうかというのが問題です。

整理すれば、1が世界を犠牲にした利己的選択肢であり、2が自己犠牲の利他的選択肢であると言えましょう。

もちろん、どちらが正解ということはなく、どちらを選ぶかは人それぞれですし、「こんなん選べるか!」と匙を投げるのもまたひとつの態度です。

まあ、思考実験としては、結局何を選ぶのかというところよりも、どうして悩むのかというところの方が肝要です。

この思考実験の選択がつらいのは、人はやっぱり事実として世の中に貢献したいし、そしてそれを褒められたい承認されたいとも思うということでしょう。どちらも欲しいからこそ、どちらかしか選べないとなると、当然悩むわけです。(もちろん、一切悩まない両極端な人もいらっしゃるかもしれませんが、ほとんどの方はどっちも選びたくないと悩むかと思います)

提示されたジレンマに悩むという体験を通して、「私たちはこの両者をともに欲しているのだな」ということを再確認する。これが思考実験が狙ってる効果です。


で、思考実験というのは、想像上の実験だけあって、往々にして現実離れした設定です。今回の設定も例に漏れず非現実的なものと言えます。

だから、思考実験を経て私たちが抱えるジレンマを確認した次に行うべきステップは、「では現実ではどうか」と考えることでしょう。

さて、この究極的すぎる思考実験を現実に寄せていくとどうなると思われますか。

実は今回の思考実験の恐ろしい特徴として、むしろ現実バージョンを考える方が残酷な光景が見えてくるという点があります。普通、究極的な設定となる思考実験の方が現実以上に過酷になりそうなものですが、その逆なんですね。

なぜそんなことになるかというと、現実世界では自分が実際に世界に貢献してるかどうかというのはよく分からないからです。「貢献度合い(もしくは加害度合い)が事実として分かっている」という設定こそが、想像上の思考実験でしかありえない設定なのです。

「自分は世の中に貢献してる気がする」とか、「自分は何の役にも立ってない気がする」みたいな主観的な感覚は誰もが個々に持ってはいるかと思います。ただ、それが本当に客観的な事実かどうかはいまいち分からないので、その主観的感覚が正しいとする保証は本来ないのです。

ここで、「実際の貢献度合いは、成果として上がってる数値だとか、対価としてもらってる報酬だとか、周りの評価だとかで客観的に分かるはずなのでは」と思われるかもしれません。

非常に良いポイントです。実際、一般常識的にもそんな感じで考えられていますよね。

ただ、今回の考察において、それで単純にOKと承認するわけにはいかないんですね。

なぜなら、そうした周りから分かる数値的成果だとか報酬だとか評価だとかの世間的(客観的)評価基準を、貢献度合いの絶対的な指標(ゴールドスタンダード)とみなしたならば、ハナから今回の思考実験は成立しえないからです。

もう少し詳しく言いますと。
そうした実際の世界でポピュラーな評価を絶対的な客観的評価として採用してしまうなら、それは自ずと「そうした客観的評価が誤り得ない」という暗黙の前提を置いていることになります。しかし、そうなると、そうした客観的評価と真実が乖離するケースを想像する今回の思考実験そのものが成り立たなくなるわけです。

それは、「世の中からの評価(客観的評価)と真実が乖離している時にどちらのパターンを選びますか」という思考実験をしている時に、「客観的評価は誤りえない!」と言い出すようなものです。ちょっとまあ、これじゃ思考実験にならないので、ぶち壊しですよね。

もっとも、この「客観的評価は誤りえない!」とする態度こそが、実は今回の思考実験であぶりだしたかった真のターゲットであったりします。

この思考実験を現実に寄せようとすると、「世の中への真の貢献度合い」が究極的には不可知であるという点から、「もう世間的な評価に頼るしかないやん」という人々の諦念的態度を促すわけです。

これにより、現実世界において、思考実験の1と2の選択肢はこのように変質しえるんですね。

  1. あなたは何ら世の中に貢献してないか、むしろ世界に大変な害を与える行為や道徳に反する行為をしていることを自覚していません。何なら世界を滅ぼしうるようなことをしでかしていますが気づいていません。周りの人々もその事実に気づいておらず、むしろあなたを世界の救世主たる正義の人とばかりに貢献を賞賛し、名誉と多額の報酬を与えてくれています。だから、あなた自身も自分は世界に貢献しているのだと思い込んでいます。

  2. あなたは大変に世の中に貢献しており、何なら世界を救うレベルの偉業を見事成し遂げました。そのことをあなたは知りません。周りの人々もその事実に気づいておらず、むしろあなたを世界を害する大犯罪人とばかりに糾弾しています。名誉も報酬もなく、下手をすると重罪に処されたりリンチに遭う目になるかもしれません。だから、あなた自身も自分は世界に貢献していないのだと思い込んでいます。

さて、どちらを選びますか。

って、あまりにひどすぎる選択肢ですね。さすがにここまで来ると、1を選ぶ人が多そうです。(ぶっちゃけ知らないはずのことを知っているという設定になっちゃってるので矛盾した設問なのですが)

なんでこんなにひどい選択肢になってしまうかというと、「真の貢献度合い」が分からないことと、数字評価や周囲の人々からの評価をそのまま無批判に自己評価につなげる「客観的評価は誤りえない」という暗黙の前提があるからです。

そしてこれが実に現実的な設定であるというのがなんとも切ないところです。

実際、多額の報酬をもらっている人を「社会に貢献してる人」と評価したり、低収入だったり無職だったりする人を「社会に貢献してない人」と評価したりしてますでしょ。この場合は、金銭報酬の多寡を社会貢献度合いについての客観的評価基準として無批判に採用してしまっているわけです。


ここで公平を期すために述べておきますが、気をつけていただきたいのは、実際にありうるパターンは先の1と2のパターンのみではないことです。

整理するとこの4パターンが実際にはありえます。

  1. 世界を害しているが、世間的には評価されている

  2. 世界に貢献しているが、世間的には非難されている

  3. 世界を害していて、世間的にも非難されている

  4. 世界に貢献していて、世間的にも評価されている

ここで、主観的感覚の「貢献してる/害してると自認している」の二択も加えると、総計8パターンの場合分けできあがるのですが、煩雑になるのでそこまでは記しません。

ともかくも、3と4のパターンがありうるがゆえに、「世間的評価が誤ってる」と必ずしも断じられるわけではないことに注意です。

すなわち、今回の考察で言いたいことは「世間的評価は間違ってるんだ!」という話ではないのです。

ただ、その対極にある「世間的評価が正しいんだ!」という前提もまた必ずしも正しいとは言えないということを指摘したいんですね。

1〜4の4パターンにおいて、実際の貢献度が不透明であるがゆえに、世間的な評価がそのまま採用されがちです。

「彼は定番の指標で見れば高成績なのだから世の中に貢献していると判断できる」という他者評価であったり、「自分は定番の指標で見れば低成績なので世の中に貢献してないと感じる」という自己評価であったりです。

繰り返しますが、これが必ずしもおかしいというわけではありません。
ただ、ここで「本当にこの指標は真の貢献度を反映しているのか」と問う余地の存在が認識されることが肝要です。

この指標がもしも誤りであったならば、今回の思考実験の1と2のような悲劇が生じます。本当に評価が誤ってないのかを追求し続ける姿勢はそのような悲劇を避けるために不可欠でしょう。

「そんな当たり前のこと当然やってるよ」と思われますか?

いや、これは実際には実に難しいと思うんですよ。

たとえば、自分が世間的に成功し、評価されていて、自身もその評価に満足している時、すなわち自覚的にも社会に貢献しているプライドを備えてしまった時、あえて「でも実は評価の方が間違っていて自分は世の中に貢献できてないかもしれない」と疑うことができるでしょうか。

別の言い方もしてみましょう。
たとえば、自分は4の「世界に貢献していて、世間的にも評価されている」だと思っていた時に、実は1の「世界を害しているが、世間的には評価されている」なのかもしれないという可能性をわざわざ自身で探りに行くでしょうか。

これ、けっこうな心理的障壁だと思うんですね。そんなこと(真実)を知らないままでいれば、満足した気分のまま過ごせるわけですから。(さきほど思考実験の1のケースで、欺瞞の自覚の設定がなくなった途端、ある意味最高にハッピーな状況になったことを思い出してください)

満足できる状況下で本当のことをわざわざ確認しに行くというのは、個人目線で見るとやぶ蛇感があって、インセンティブがありません。確認しなければずっと「世界に貢献してる気でいられる」。利己的に考えれば、本当のことなんて確認するのは愚かです。

そう、利己的であるなら

ここで、「世界を犠牲に自己利益を追求」「自己を犠牲に世界を救う」という典型的2パターン(冒頭の思考実験でまさに描いた分類)とは違う側面での「利己/利他」分類が想起できることになります。

この新たな切り口の分類では、「自分が世界に貢献してる気でいたい」というのが利己、「自分は真に世界に貢献したい」というのが利他です。

この意味での利他の立場に立ったならば、たとえ世間的に高い評価を与えられてるような通常では満足できる状況下であったとしても「自分は本当に貢献できているのだろうか」という自己批判的追求を怠ることはありえません。なぜなら「自分が貢献してる気でいられるかどうか」よりも「本当に貢献できているかどうか」の方が重要だからです。

この時、この利他的立場では自然と「世間的評価が絶対的に正しい」という暗黙の前提も解除されてることに注目してください。「世間的評価は正しい」とみなすならば、世間的高評価が得られた時点で自身の真の貢献度合いを疑う態度は失われますから、それはあくまで「貢献してる気でいたい」という利己的な態度なのです。


というわけで、冒頭の思考実験による究極の二択を検討していくうちに、新たな究極の二択が見えてきましたね。

さあ、あなたはどちらを選びますか。

  1. 自分が世界に貢献している気でいたい

  2. 自分は世界に真に貢献したい

ここまでの流れでなんとなく2に誘導してるように思われるかもしれませんが、公平を期すために言っておくと、2は実際には自分や世間的評価を常に問い直さないといけなくって、いつまでも完全な満足には至れないという意味で茨の道です。

そういう意味では、1の方が満足ゆく安寧な精神状態を常に保てることでしょう。ぶっちゃけ1の方がある意味幸せかもしれません。

それでもなお2を選ぶのか。
常にクリティカルに自他を問い続ける人生を選ぶ覚悟はあるのか。
悩みながら生きる気があるのか。

これは、そういう問いなのです。

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