外国作品が当たり前のように「分かる」のって不思議じゃない?
我々、当たり前のように海外の映画とかドラマとか観るじゃないですか。それで手に汗握ったり、笑ったり、泣いたり、怖がったりする。テレビで全国放送もするし、報道やネットで話題になったりもします。
でも、よくよく考えたら不思議ですよね。だって、海の向こうの違う国の人たちのお話なのに話の意味が分かるんですから。
もちろん、ほとんどの人は字幕なり吹替なり何らかの翻訳を通して鑑賞しているので、ネイティブそのままの状態で味わっているわけではありません。「日本語化されている」というガイドが伴っていることによって理解しやすくなってる面は間違いなくあるでしょう。
でも、いくら自言語に訳してもらえてるとはいえ、それでも「海外の作品の話の筋自体をスムーズに理解できる」というのはけっこう驚くべきことなんじゃないかと思うんです。
だって、本気で互いに異文化であったなら「ストーリー自体が意味が分からない」「なんでここでこの人が怒り出したのか意味がわからない」となってもおかしくないはずじゃないでしょうか。
たとえば、もしも黒船が来航した頃の江戸の庶民がシェークスピアの作品を(あくまで訳された状態で)読まされたとした時、文章自体は自言語であってもさっぱり話の意味が分からず「ちょっと何これどういうこと?」ってなりそうじゃないですか。
これでも不服なら、日本のアニメ作品をアマゾンの奥地の狩猟採集部族に観せるという想定でもいいです。「遅刻遅刻〜」って言いながら食パンをくわえながら走っていたら路地でイケメン転校生男子とぶつかったみたいなシチュエーション、彼らには何のことだかさっぱり分からないと思うんですよね(これが例としてふさわしいかというツッコミはさておき)。そして逆に彼らが語るストーリーは私たちにはさっぱり分からない可能性は高いでしょう。
だから、私たちが海外のドラマや映画を当たり前のように理解して楽しめること、逆に日本のアニメや漫画が海外の人々に当たり前のように受け入れられてることは実に興味深い現象と思われるわけです。
もっと言えば、古典的な書籍を現代日本に生きる私たちが「理解できる」というのも不思議です。古代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』はNHK「100分de名著」や漫画『ミステリと言う勿れ』でも登場するぐらいに現代日本の私たちに受け入れられていますし、古代ギリシャのプラトンの作品である『ソクラテスの弁明』も現代日本の江草が読んでも面白いなと感じちゃったりするわけです。普通に2000年ぐらい前の作品なのに、今読んで「そこそこ意味がわかる」というのは恐ろしく不思議なことじゃないでしょうか。
もちろん、海外や古典の作品に全く違和感がないというわけではないですよ。たとえばインド映画で最後になぜか全員で踊り始めるとか「何でやねん」とは思うわけですが、それでも「まあ最後に踊るっていうのが慣習なんだろうな」と考えて了解可能です。また、古典の哲学書も単純に内容が難しいというハードルはあれど、ローマ皇帝が日記書いてるんだなとか、ソクラテスが裁判にあって牢獄に入れられたんだなみたいに、話の大筋自体は一応つかめてはしまうんですよね。
「細かいところで違和感や難しい箇所はあったとしても大筋は分かる」、これがすごいことな気がするわけです。
こうした、遠く離れた国や大昔の作品が普通に楽しめる現象がどうして成り立つのか。どうして現代日本に生きる私たちに古今東西の作品の意味が分かりえるのか。
この理由はいくつか考えられると思うんですね。
まず、現実的な理由。
先ほどは話の流れ上「翻訳されてるとはいえ異国の作品の内容が理解できるってやばくない?」みたいに「翻訳されてること」をあえて軽めに扱いました。でも、ほんというと、その「翻訳という行為」に重要な効果があるのではないかとする見方です。
たとえば、こちらの言語には存在しない概念が向こうの言語で使われてる時、翻訳者さんがうまくこちらの言語で伝わるように調整して訳してくれてると思うんですね。つまり、本質的にはやっぱり異文化の作品なんだけれども、翻訳者さんがそれを何とか鑑賞者が理解できるように「文化のすり合わせ」の役割も担ってくれていると。言わば、そのままでは食べにくい異文化を翻訳を通して食べやすく調理してくださってる状況です。翻訳とはただ他言語をそのまま自言語に置き換えてるだけみたいな単純な作業じゃないんだよと。
なんなら、翻訳者を通じてでなく、自分でその外国語を学んだ上で原語で読む時でもそうでしょう。言葉に文化が宿っているのだから、ある外国語を学ぶことは、結局のところ言葉だけでなくその文化をも取り入れることでもあります。だから、外国語を外国語のまま理解できるようになってる時には、自分の中にも自然とその国の文化がある程度インストールされているために、異文化性が緩和されると考えられます。
この場合、「翻訳された海外作品を観て私たちは異文化を分かってる気になってるけれど、それは本質的には全然分かってないんだ」という立場とも言えましょう。時々聞かれる「原著で読め」という勧めも、やはりこうした翻訳フィルターの存在を意識してのことでしょう。
もう一つ、現実的な理由を挙げると、グローバルに輸出入されるような作品はそもそも異文化圏の人でも理解しやすい作品だけが選ばれているという可能性です。本格的に同文化圏でないと理解できないようなハイコンテキストな濃ゆい作品は外国ではどうせ売れないのでそもそも売ろうとしないし翻訳もされないと。つまり、私たちが日々遭遇している海外ドラマや映画は、彼らの固有文化成分が薄めの、言わば「クセのない薄味の作品」だけが選りすぐられてるというわけです。これならば、海外のものにも関わらず理解しやすいのも頷けます。
海外の人に日本料理を紹介する時も、いきなり「なまこ」みたいなクセの強そうなものからでなく、クセがかなり減じられたカリフォルニアロールを「寿司」としてご提案するように、クセ強いものはそもそも異文化の人に積極的に出さないのだから、「海外作品なのに意味が分かる!」というのはさほど驚くべきことでもないという解釈になります。
さて、次に、こういった身も蓋もない現実的な理由だけではなく、ちょっとエモい感じの理由も挙げてみます。
それは「海外の作品にも関わらず内容が理解できるのは人類には万人が共有するヒューマニズム的な価値観が存在するからだ」というものです。
『21世紀の啓蒙』のスティーブン・ピンカー氏なんかはもしかすると好きな発想かもしれません。
愛とか平等とか自由とか幸福とかはどの文化の人類でも理解し納得し追求する価値だから、それが描かれてる作品が国や文化の違いを超えて受け入れられるのは当然だと。確かに表面上は私たちは多種多様に異なっているけれども、その基底には共通する価値観があって、それを相互理解の足場にしよう、相互理解はできる、という感覚ですね。
この立場からすると、世界中で人気を博してる作品はこうした人類共通の価値観にうまく訴求している優れた作品だからこそということになるでしょう。
人類讃歌のエモい感じは、江草も嫌いじゃないです。
ところが、これは逆の怖い感じの解釈もできると思うんですね。
それは、私たちが海外作品がさほど違和感なくスムーズに摂取できるのは、西欧近代的価値観が世界中を覆ってる証左であるとする解釈です。
たとえば、我らが日本も資本主義やら自由主義やら民主主義といった思想を国家の礎にしているわけですけれど、これらの思想が西欧近代思想として始まったことは誰もが知っての通りです。確かに西欧は異国ではあるけれど、私たちはすでにその西欧から近代的価値観を輸入してすっかりインストールしてしまっている。だから、彼らの作品も自然と「理解できてしまう」というわけですね。
この観点からすると、あくまでそうした西欧近代的な価値観に過ぎないものを「人類に共通する価値観なんだ」と宣うのは欺瞞的であり、先にまず西欧近代的な価値観が世界中をすでにあまねく「侵略」してるのを、「もともと皆に備わっていたもの」と勘違いしてるに過ぎないということになるでしょう。
うがった見方と言えばそうなんですけれど、確かにあり得る話ではあるんですよね。
たとえば、平安時代を舞台にしている今年のNHKの大河ドラマ『光る君へ』は好評のようですが、「主人公の言動が当時の価値観ではあり得ない今風すぎる」というコメントもしばしばみられます。これも、平安日本という異文化を、既に西欧近代的価値観にまみれた現代日本の視聴者が楽しめるように「西欧近代文化的に解釈し直した」と見ることもできるでしょう。
つまり、この場合、「異文化であるはずの海外の作品の内容がわかるのって不思議!」というのは不思議でも何でもなく、そもそも私たちは「文化的に天下統一を果たされた後の世界」に住んでいるだけということになります。海外だとかいっても、もはや異文化でもなんでもなかったというわけです。
確かに、海外旅行に行っても、大体の人が訪れる先というのは、普通に買い物ができて、普通にホテルに泊まれて、普通にレストランに座って注文ができて、とよくよく見てみると(細かいところで日本と異なってるとはいえ)思いのほか日本とさほど変わらない大同小異の文化で回ってることに気づきます。
だから「もともと異文化ですらなかったのでは」という説がここで出てくるわけです。
以前、大変に議論になったカズオ・イシグロ氏の「縦の旅行」論も、形上は国を跨いでいたとしてもそれだけでは異文化交流ではないのではないかという、こうした問題提起であったと言えます。
あるいは、シロクマ先生もさかんにこの「思想のグローバルな浸透」に警鐘を鳴らしてらっしゃいます。
なので、こうした見方からすると、海外作品を私たちが自然と楽しめるのは「近現代で西欧が世界中を文化的に侵略したからなだけでしょ」ということになります。
「古文を義務教育で学ぶ意味はあるのか?」という議論はネット上でも定期的に勃発します。しかし、この「意味」というのがそもそも西欧近代的価値観によって測ってるだけの可能性はないでしょうか。古文の舞台となっている平安時代などの日本の文化が、西欧近代文化にまみれた私たちからすると異文化すぎるがために「その意味が分からないだけ」なのかもしれないのです。異文化を「意味が分からないから」といって学ぶ対象から省いてしまうのは、言ってしまえば「私たちが異文化を分かろうとしてないだけ」ともなりましょう。
……して、本稿はいつもの如く、こんな感じで「ああでもない、こうでもない」とウロウロするのを楽しんでるだけで、特段結論めいたことはないのですけど、一応江草の暫定的な感覚だけは最後に紹介しておきましょう。
江草は「人類共通の価値観があるんだ」的なコスモポリタニズムほどは楽観的ではないですけれど「西欧近代文化が世界を侵略してる」というのもちょっと悲観的すぎるかなと思うんですね。
というのも、西欧は西欧でひょっとすると我々東洋などの異文化から反作用として影響を受けてるのではないかとも感じるからです。
たとえば、欧米でもヨガとかマインドフルネスとか流行ってると聞きますし、かのスティーブ・ジョブスも日本の文化を好んでいたとも言うじゃないですか。最近、欧米の著者が書かれた書籍を読んでいても、禅の話とか、仏教の話とか、何なら道教の話とかが出てくるケースはしばしばあります。
確かにパッと見は西欧近代思想が優勢ではあるかもしれませんが、実は潜在的には西欧文化も東洋文化に触れることで変質してるところはあるんじゃないかと思うんですね。意外と西洋文化の一方的な侵略ではなくって、こっそり東洋文化は東洋文化で彼らの方に浸透していってるんではないでしょうか。
これも「飼われてる」と自虐的に捉えることは可能かもしれませんが、明言的分析的断定的な主張をしない奥ゆかしい東洋文化だからこそ見えないところでこっそり効き始めてるのではないか、そんな風に感じなくもないのです。
(↓以前、この内容で記事書いたこともあったことを思い出しました)
そういう意味では、西洋と東洋の交点的な位置どりを担っている日本が国際文化に対して果たせる役割は少なくないのではと思います。資本主義や民主主義や自由主義といった西洋思想と、仏教や神道や儒教といった東洋思想を共に抱いてる日本という国は結構面白いと個人的には感じてるんですよね(もっとも、器用貧乏的にそれらのどれもモノにできてないだけという考え方もあるかもですが)。
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。