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投資のように子育てする時代
結局、社会的成功というルールから、親自身が自由ではないのだ。かつての教育ママとなんら変わらない。単に詰め込み教育ママの手法がうまくいかないとわかったから、別のトレンドに切り替えたに過ぎない。
「子どもをのびのび育てる方針」と言っていても、それが「子どもを成功者に育てるため」という暗黙のゴールに従ってるなら、手法が代わっただけで結局「詰め込み型教育」と大差ないのではと。
ホモ・ネーモさん、さすがの鋭いご指摘です。
実は、最近読んだ『限りある時間の使い方』でもちょうど似たような指摘がありました。
すごく大事な洞察だと思うので、少し長くなりますが引用します。
そんなことよりも、僕にとって衝撃的だったのは、両者がいかに将来のことばかり考えているかということだった。書籍でもネットでも、子育てのアドバイスはみんな、子どもの将来のために役立つことを語っていた。どうすれば子どもが将来幸せになれるか、できる子になれるか、稼ぐ大人になれるか。
「しつけ派」がそれを語るのはわかる。でも実をいうと、「自然な子育て派」も似たようなものだった。ベビーウェアリング(赤ちゃんと密着する抱っこやおんぶ)や添い寝や母乳の推進派は、表面的には親子の快適さを語りながら、実は後々の子どもの健康な発達という本当の目的をちらつかせていた。そして僕は、ちょっと気まずい真実に思い当たった。
そもそもノウハウ本にアドバイスを求めたのは、僕自身が「将来のため」という思考に飲み込まれていたからではないか。物心ついたときから、僕は将来の結果のために日々を過ごしてきた。いい成績をとるため、いい仕事に就くため、健康な体を手に入れるため。そうやって努力すれば、いつか素敵な将来がやってくるのだと思っていた。そして赤ちゃんがやってきたとき、僕は赤ちゃんにも同じことをさせようとした。
将来この子が最善の結果を得るために、今の時間を利用しようと考えたのだ。
(中略)
作家のアダム・ゴプニックは、僕が陥っていたような状態を「因果のカタストロフィー」と呼んで批判する。彼が問題にするのは、「ある子育てメソッドが正しいかまちがっているかは、その子が大人になったときの状態によって決まる」という態度のことだ。これは本当に理にかなっているのだろうか。1歳になった子どもを親の胸の上で眠らせるのは、子どもの将来を台無しにする悪い習慣だろうか。今この瞬間の幸福感を、将来の不安のために犠牲にするのが本当に正しい態度だろうか。
共通して問題視されているのは「《子どもの今》を使って《子どもの将来》をコントロールしよう」とする発想です。
いわば「投資のような子育て」と言えます。
「投資」という言葉には中に「投げる」が入っていることからわかるように、「えいや」と放り込むイメージの言葉です。そこには、捨てるような、犠牲にするようなニュアンスが込められています。将来の利益に賭けてカジノのルーレットにボールを放るようなものとも言えるでしょう。
一般的に知られている「投資」も《今のお金》を投入して《将来のお金》を得ようとする行為です。
すなわち、今を犠牲にして将来を得ようとする行為はまさしく「投資的」です。
そしてそんな「投資のような子育て」が横行し始めている結果、このようにその風潮に警鐘が鳴らされるようになってきたというわけです。
もっとも、昔から子育ては「投資」のように行われてきた側面はありました。
古くは家を継ぐことや労働力を期待されて「子ども」が多産されていましたし、ついこの間まで自身の老後の面倒を見てもらうために期待しながら子育てをするというトレンドもありました。
あえて悪く言えば、将来の特定の目的を達成するためのいわば「道具」として子どもが育てられていたわけです。
もちろん、リベラル化が進んだ最近では家を継ぐことや自身の老後の面倒を見てもらうことを子どもに期待する傾向は弱まってきてはいます。
では、それで投資的な育児がなくなったかと言えば、残念ながらやはりそうではなかったということなのでしょう。
ひとつこれを「老後の面倒」を軸に紐解いてみます。
「自分の老後の面倒を自分の子(あるいは嫁)に期待することはよくない」という価値観が広がった結果、必然的に自分の老後の面倒は他人にみてもらおうということになります。
しかし、血がつながってない他人に自分の面倒を見てもらうためには(現状)お金が要ります。
そうするとまず親自身が老後に備えてお金を貯める必要が出てきます。
「老後2000万円騒動」が記憶に新しいですが、具体的な額はさておき老後のためにお金が必要という認識は広く浸透しているものでしょう。
「貯蓄から投資へ」というスローガンも政府から高らかに掲げられてる今、老後のために投資する、お金を蓄える、というのは自然なトレンドとなってきています。
親は親で自分たち自身で投資するとして、次に問題になるのは子どもです。
なるほど、子どもに自分の老後の面倒を見てもらうのは避けることにしましょう。そして、そのためには親自身に金銭的余裕が必要になるのでした。
となれば、親が子どもに成人後もずっと資金援助をしなくてはならないような事態は親にとって危険であるわけです。そんなことになれば自分の老後資金が不足しかねませんから。
子どもにはぜひとも独り立ちしてもらって金銭的な安定を確保していただかねばならない、となります。
それで出てくるのが、子どもが社会的に成功するように育てる「投資的な育児」のトレンドです。
幸運にも子どもが社会的に大成功してくれて、逆に子どもが親に金銭的援助をしてくれるまでいけばしめたもの。
もちろんそこまでいかなくても親が金銭的援助をする必要がない子どもであってくれるだけでも大変助かる、というわけです。
だからこそ、逆に言えば、障害を持ったり、落ちこぼれたりする子どもになることを親は極度に恐れるようになる。
(余談ですが、「ハナから子どもがいないほうが金銭的に安心である」とか「子どもを持つ金銭的リスクは冒せない」と判断されてきた結果が歴史的な少子化トレンドにつながっているとも考えられます。金銭的な検討の結果「投資をしない」というのは事実上投資判断なのですから、これまたまさしく「投資的」と言えるでしょう)
こうした現在のトレンドは、「家を継がせる」とか「面倒を直接見てもらう」のような旧来の「投資的子育て」以上に、まさしく将来の金銭的安定、すなわち「マネー」を求めての育児である点で真に「投資的」です。
あれやこれやの教育手法を駆使して、子どもたちの《子ども時代の今》を《成人後の将来の成功》につなげる。
そのために、今、時間も労力もお金も多分に投資するのだから、絶対に成功してもらわねばならない。
そのために、みな必死というわけです。
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(中学受験をテーマにしたとても面白い漫画です)
モンテッソーリ教育はどうか、フラッシュカードはどうか、どの塾に入れたら成績が上がるのか、どの学校に入れたら良い就職が得られそうなのか、中学受験はどうか、英語勉強はどうか、プログラミングはどうだろう、留学は――。
どの戦略でいけば「今の投資から最大のリターンが得られるのか」。
みながみなそれを計算してる時代です。
『投資家みたいに生きろ』というタイトルの本もありましたが、もはや普通に人々は「投資家みたいに生きている」のです。
別段、誰が悪いと言ってるわけではありません。
親も、子どもも、この世知辛い世の中で生き延びるために、各々で最善を求めて頑張っているだけでしょう。
親も子も互いに互いの幸福を願ってさえいる。
この話のどこにも悪人はいません。
ただ、何事もそうですが、どんなに努力していても、いくら善意であっても、それらが空回りして悪循環をし始めることはありえます。
だからこそ、悪循環をメタな視点で指摘してくれる意見はとても大事です。
確かに、悪循環が絡む問題は往々にして解決が極めて難しいものであるのは間違いありません。
ですが、まず問題を問題と認識しないことには解決は決して不可能であるのですから。
「投資のように育児がなされている」
なんともモヤッとする話ではあるのですが、良くも悪くもこの現実を受け止めることから始めないといけないのだと思います。
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