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仕事の責任と報酬は比例しない

世の中なんとなく「責任と報酬が比例してるんだ」という暗黙の前提あるじゃないですか。つまり、「俺たち(彼ら)の報酬が高いのは、その分、重い責任を担っているからだ」みたいなそういう感覚です。その逆の「重い責任を担う者は当然にそれに値する高報酬をもらうはずだ」という感覚も広く共有されてるように思われます。

医師なんかは特にそういう認識で捉えられることが多いですね。命に関わる責任ある仕事だからこそ高報酬なのだと。

このように世の中では素朴に「責任と報酬は比例してる」と思われてるような雰囲気があるんですけれど、やっぱりそう単純ではなく、見渡してみれば、例外だらけなんですね。


たとえば、これらは保育園での事故の報道です。保育士さんたちに刑事罰が求刑されるレベルの重い責任が追及されています。

確かに重大な事故なので、こうして刑事責任を追及されること自体は、分からないでもありません。

ところが、まあご存じの通り、保育士さんたちの報酬の水準は決して高いとは言えません。そのような低報酬でありながら、幼い命を預かるという大変に重い責任を担っており、そして実際にこのように公的に責任を追及されるケースが稀ならず存在しているわけです。


他にもありますよ。

こちらは介護施設ですね。入所者の死亡事故で、多額の賠償命令が下されてます。

とはいえ、それだけの重い責任を担う介護士さんの給与水準も高くはないですよね。(あくまで本ケースの賠償命令は施設に対してですがその責任に見合った報酬かどうかという点では比較可能でしょう)


福祉系に限りません。

こちらはバスの事故のケース。

運転手に実刑判決が出ています。

当然ですが運転は人命を預かる非常に重い責任があるわけです。


責任追及は人命にかかる事故ばかりでもありません。

こちらは小学校の教員の先生がプールの水を出しっぱなしにしていて約90万円分の賠償をするように求められたというケース。

ミスがあったとはいえ、教員に賠償責任を求めるのはあまりに酷ということでもめてはいるのですが、こうして賠償責任を求められうるという時点で、すでに事実上の責任は担わされてると言って良いでしょう。

なお、このプールの水出しっぱなし問題は先日新たに石川県でも発生していたばかりで、今後当事者の教員の賠償責任がどのように判断されるか、心配されるところです。


で、あえて些細な事例も出しておくと、JRの運転士がイヤホンで音楽を聴きながら運転していて注意されたという事例があります。

もちろん運転中に耳を塞いでいるのは安全面からして非常に危険なので確かに許されない行為なのですが、それだけ彼らは「仕事中にイヤホンをつけることが許されない」ぐらいの責任ある立場とも言えます。


以上のことを踏まえて考えてみていただきたいのは、人命に関わったり、刑事罰に問われたり、多額の賠償責任を負わされたりせず、イヤホンで音楽をガンガンに聞くことが許されながら快適なオフィスで働いているような仕事の待遇は、上で見てきた彼ら彼女らと比較してどうなのかという点です。

ご存じの通り、こうしたホワイトカラーな仕事が必ずしも低報酬というわけではなく、むしろ高報酬であったりするわけです。(オフィス環境の快適さも福利厚生的な意味で事実上ある種の報酬であると言えましょう)

もちろん、ホワイトカラージョブも、動かしてるプロジェクトの予算額が大きかったり、彼らのスキルや成果いかんで利益が大きく左右されるという意味で、責任はあるでしょう。当然ながら誰も決して「無責任」と言われる由はありません。

ところが、(業種にもよりますが)その仕事で人が死んだり、(不正でもしてなければ)刑事訴訟が起こされることはまずないか、あっても上で列挙したような現場仕事の面々に比べれば相対的には少ないはずです。

さほど報酬が高いとは言えない現場仕事の人間の方が、直接的な行為者であるがゆえに責任は問われがちなんですね。

ここにどうも単純に「責任が重いから報酬が高い」とは言いがたい現実が横たわっているように思われるわけです。

そうすると、人命に関わるような重たい責任が問われず、その上で、自由に快適な環境で好待遇で働けるというのであったら(なんならそれが同程度の待遇であっても)、こっち(非現場系)の仕事の方がいいという人は増えてもおかしくないでしょう。

もちろん、エッセンシャルワーク的な現場の仕事というのは、現場ならではのやりがいや喜びがあるので、みな何も報酬の多寡によってその仕事を選んでるわけではありません。むしろ下手に報酬が上がる方が怒る清貧志向の人さえ多い業界です。

ところがまあ、そうだとしても、上にも挙げたようなニュースや報道記事なんかで、頻繁に現場のエッセンシャルワーカーが刑事訴訟沙汰になってる光景を見ると、これは心が折れる人が増えてもおかしくないだろうなとやっぱり思ってしまいます。

つまり、この言わば「仕事の責任格差」が如実になればなるほど、人々が静かに、訴訟・賠償リスクが重くなく、それでいて報酬が高く快適な仕事に流れてしまうだろうと。

ここで「報酬が高い者はそれだけ重い責任を背負っているのだ」みたいな都合よく正当化できるロジックが世間的に蔓延してるならなおさらです。

このロジックが認められているなら、「(何してる仕事かは正直よくわからんけど)この人の年収が高いってことは何かしら責任ある仕事をされてるんだな」となぜか勝手に周りもその仕事の責任的価値を認めてくれるわけですから。エッセンシャルワークのような分かりやすい「責任ある仕事」でなくとも、「重責を担ってるんだぞ」という承認欲求が満たされうるのです。


医師業界で言うと、大野病院事件という「産婦人科医が医療事故を巡って突然逮捕された事件」が有名で(結局無罪となった)、これで訴訟リスクのある科を避ける風潮が医師の間にも広がったとされています。(まあ、これを裏方役の色が強い放射線科医が言うと色々とあれなんですが)

もっとも、実際にはこの事件によって全国区の医師の診療科の偏在を左右したエビデンスはないとも言われてるので(福島県では産科医減ったらしい)、あまり強いことは言えないのですが、医師の9割が知っているというほど、広く潜在意識には組み込まれてる事件であります。

これが訴訟を避けるためのアリバイ作りや事なかれ主義にばかり終始する防衛医療の蔓延につながってる可能性はありえるようには感じます。


このように、責任が重い現場系のエッセンシャルワーカーたちが、何かと訴訟や責任追及の槍玉に上がることが増えるならば、それが就職意欲や継続意欲を妨げる可能性は十分に懸念すべきことでありましょう。

個々の労働者に限らず、企業や施設などの組織に対してもそうです。確かに責任が重い業種であるのは事実とはいえ、たいして儲かりもしないのにあまりに世間から厳しい扱い(訴訟やワイドショーでの責任追及)ばかりされるなら、誰も保育園や介護施設やバス会社を運営したくはなくなるでしょう。

従って、とりあえずここはせめて「責任が重い仕事はその分報酬が高いのだ」みたいな素朴な社会感覚だけは見直してもいいのではないでしょうか。

なぜなら、本稿で見てきたように、その感覚は「その重責に比して報酬が低い人たち」に対してネガティブな影響しか与えないように思われるからです。

つまり、言い換えればこれは「報酬が高い人たちが必ずしも重い責任を担ってるわけではない」という事実を再確認することです。(ぶっちゃけ医師業界内部でもこのことは当てはまります)

この点にプライドや報酬の正当性を依存していた方々には申し訳ないのですが、まずはここはきっちり覆させていただけると幸いです。


なお、過去に江草が書いたものの中で、また別の側面からこの問題を切り取ってる記事(アーカイブ)がありました。コロナ禍真っ最中に書いたやつですね。

普段「俺は責任ある立場だから高い報酬もらってるんだぞ」という顔をしてる立場の人が、いざ事が起きたとき、現場から距離があるがために簡単にその責任逃れをし始める(できちゃう)という矛盾があるよねと指摘した内容です。

たとえば某「ビッグ○ーター」の経営者が、不正が発覚したときに「私は知らなかった、現場が勝手にやったことだ」みたいな言い逃れをしたのも記憶に新しいですよね。

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