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エビデンスベースドが専門家信仰につながるパラドックス

我らが医療界のEBM(Evidence Based Medicine)をはじめとして、「エビデンスが大事だよね」という感覚は今やコモンセンスと言えるまでに世の中に浸透してきています。

あまりに浸透したので反エビデンス主義とも言えるような言説も出てきていたり、基本的に懐疑主義的なスタンスの江草も過去にエビデンス主義を批判する記事をしばしば書いたりもしています。

しかし、実際にエビデンスにこだわることによって、医学が新たな発展を遂げたのも事実ですし、確かに基本的にエビデンスを大事にすることには意義があると考えられます。

なので、今回は別にエビデンスを追求することそのものへの批判とか疑念の話ではありません。

ただ、困ったことに、それでもなおエビデンスベースドの考えを推し進めると、ちょっとした逆説的な現象が起きちゃうよねという話をしてみます。


話のとっかかりとして、まず、有名なエビデンスレベルのピラミッドから始めましょう。


根拠に基づく医療 -Wikipedia より(CC)
(ところでなんだか字体が日本語ぽくないのはなぜ……)


この整理自体が古いとか色々言われてはいるんですが、まあ、細かいところは置いといて、「専門家の意見」よりも「メタアナリシス」などの上位層のものがエビデンスレベルが強く望ましいという感覚は、世の中の「エビデンスベースド」の一般的な認識であろうと思います。

簡潔に言うと、主観的になりやすい専門家の意見よりも、客観的である多数の研究結果に基づいたエビデンスを重視しようということですね。

で、実際に、そうすることで近年の医学の発展が進んだわけです。

これぞエビデンスベースドの威力。素晴らしい。

ただ、それだけエビデンスが素晴らしいとなると、みんなエビデンスを求めますよね。どこもかしこも課題が指摘されると「この課題について今後さらなるエビデンスが必要だ」と締める。そんな雰囲気があります。

エビデンスが大事なのがエビデンスベースドなのですから、何事にもエビデンスを求めるのは自然なことです。

ただ、それを実際に行った結果、今や世の中に出てきているエビデンスが莫大な量に膨れ上がってるんですよね。世界の論文数は右肩上がりで増加しており、日々、とんでもない量の論文がpublishされるようになってるのです。

すると、もはや人々が論文をチェックする速度よりも早く論文が増えるってことになる。つまり、いくらエビデンスが大事だとしても、人々がエビデンスの内容や妥当性をチェックすることが追いつかない、そんなステージに到達しているわけです。

いくら読書が大事と言っても消化スピードよりも速く本が山のように出版されることや、いくら民主主義的に市民の議論が大事だと言ってもSNS議論やネット記事は読むよりも早く大量の言説が生産され続けてることとも似ています。

少し前のものをようやく咀嚼し切ったと思ったら、もう次の最新のものが大量に出ている。

「さらなるエビデンスが必要だ」とあちらこちらで言われると、一見すると「エビデンスが世の中に不足している」ようですけれど、人々がエビデンスをチェックするキャパシティをすでに遥かに凌駕していることを見れば、むしろ「エビデンスは世の中に溢れすぎている」と言うべきでしょう。

「エビデンスが大事だ」を推し進めれば、当然いつかはこの「エビデンス過多」になるのは明らかなのです。


さて、「エビデンス過多」だとせっかくエビデンスベースドにしたくても困ります。エビデンスに基づきたいのにエビデンスが多すぎてチェックできないのですから、どうしていいのか分からなくなります。

そうすると出てくる需要が「まとめ」です。

インターネットでも、爆発的にネット上の情報が増えた時期に「まとめサイト」とか「キュレーター」とか流行りましたでしょ。あれと一緒で、もうチェックしきれないから「いい感じにエビデンスをまとめて紹介してくれよ」という需要が高まるわけです。

総説とかメタアナリシスとかガイドラインとか、そうやってエビデンスを束ねて「まとめ」的に紹介してくれるもの。こういうのに人々が群がるようになるわけです。

これはもちろん間違ってないですし、自然な動きだと思うんです。

ところが、総説だってメタアナリシスだってガイドラインだって、もはや世の中に溢れてきていて、それらもチェックするのが大変なステージに突入しています。

別に変な話ではありません。世の中がエビデンスを希求し、エビデンス生産を強烈に推進している結果、エビデンスが爆増を続けるなら、その「まとめ」だって当然増えるのです。いくら「まとめ」だとしても、それが多くなればチェックのキャパシティに限界が来ます。

いやもう無理、全部チェックするの無理、と。


さて、そうすると次はどうするか。

もう、エビデンスを一番知ってそうな人に聞くわけです。自分よりも遥かにエビデンスチェックをしている人に聞く。これが手っ取り早いってなるんですね。

何事も博識な人ってのはいるものです。エビデンスチェックが大変になったと言えど、それでも、いやそれだからこそ、人によってエビデンスのチェック度合いに差が生まれます。ならば、エビデンスをしっかりたくさん収集してる人に尋ねたらいいじゃないかとなるわけです。

実際、SNSの医師アカウントなどを見ると「最新のエビデンスを発信します!」みたいな方々が人気を博しています。だって、この人をフォローしてる方が手っ取り早く最新のエビデンスが知ることができますし、なんなら聞いたら答えてくれるかもしれない。ありがたい存在なわけです。


ここで、事態は大変に面白い現象に至ってることにお気づきでしょうか。

当初は、専門家(個人)の意見を嫌ってエビデンスという客観的情報を求めるのがエビデンスベースドの考え方でありました。しかし、エビデンス重用の結果、エビデンスが世の中に溢れかえったあまりに、人々はエビデンスに詳しい専門家(個人)を頼りつつあるわけです。

昔の「個人の経験則」に頼ってたイメージの専門家とは確かに異なるものの、「エビデンスに詳しい人」という意味での専門家が今や重要なアクターとなっているわけです。

エビデンスを追い求めていたら気づいたらエビデンスレベルが低かったはずの「専門家の意見」の立場が強くなっている。全くもって逆説的な現象が起きていると言えましょう。

もっとも、「エビデンスに詳しい専門家の意見」はあくまでエビデンスに基づいてるんだからただの「専門家の意見」ではないんだ、という考え方もできるでしょう。

でもねえ。その人が本当に「エビデンスに詳しい専門家である」というエビデンスはどこにあるんでしょうか。その人がエビデンスに詳しい風に見せかけて偏ったエビデンスばかり提示してる可能性はあるわけでしょう。

特に、エビデンスに詳しいことが地位や名誉、もっというと金銭的メリットをももたらしうるエビデンス主義社会においては、そうでもない人物が「私はエビデンスに詳しいですよ」と見せかけるインセンティブも強く働いてしまうわけです。

だから「この人はエビデンスに詳しそうだ」という自分の主観だけでその人の提示してる情報、ましてや意見を信じてしまうのは、それこそエビデンスベースドではない危険な立ち回りなはずです。

とはいえ、いまさら自分できっちり各エビデンスを精査することもできません。それができる余裕があるんならハナから「エビデンスに詳しい人」を頼る必要もないわけですから。


そんなわけで、いかにエビデンスが重要で大事なものだとしても、エビデンスベースドを徹底的に追求するのは、結構厄介というか非常に困難な道なんですね。

いやはや、世の中とはほんとままならないものです。



過去記事紹介

今回「エビデンス」と「専門家」の関係の話をしたので、関連して「リテラシー」と「専門家」の関係についての過去記事ももしよろしければどうぞ。こちらもなかなかパラドキシカルな話なのできっと面白いと思います。(珍しく「で・ある体」で書いてる記事ですが)


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