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理解と体得

自己研鑽でもリスキリングでも何でもいいのですが、世の中で「何かを学ぶ」という行為が語られてる時に「知識を得る」という意味で「学ぶ」をイメージされてることが少なからずあるように思われます。「理解する」「分かる」に近い感覚ですね。

それはそれで誤りではないと思うのですが、多分それだけでは足りない。他方で「学ぶ」には「身につける」「体得する」という意味も含まれてる気がするんですよね。

すなわち、理解と体得の対照的な要素がどちらも学びには存在している。

前者の「理解」側は頭脳を用いた座学で、後者の「体得」は文字通り身体感覚を通じた体験的・経験的な学びです。

こう整理されると誰もが両方とも確かに在るし大事だよねと感じられると思うのですが、普段こうした整理を意識してない場面ではなんとなく前者の「理解」イメージに偏重している傾向が世の中にあるんではないかと。

たとえば、確か堀江貴文氏だったかと思うのですが、かつて寿司職人の養成について、長期間の下積みの修行なんて無駄だから、効率よくノウハウを教える寿司学校を作るべきと主張されてたことがありました。

これはこれで、もちろん一理あると思うんですよ。伝統的な寿司職人の養成過程に無駄や問題がないなんてことはないはずですから、それを改めて問い直すというのは重要なことだと思います。

ただ、同時に、学校で効率よく教えるという感覚は、知識を教えて理解させればできるようになるという発想に基づいてるように思われるのです。

この場合、寿司学校ですから当然寿司の握り方を教える実習もあるとは思います。その意味では「体得的な学び」が皆無ということはないでしょう。でも、あくまで現場ではない「学校」という特異な環境で、短期間で十分学べるはずだとするのは、「現場での体験」をやはり軽視しているところがあるのではないでしょうか。


実際、書籍『私たちはどう学んでいるか』では、こうした「理解」偏重の学校教育主義を批判し、伝統的な徒弟制度にみられる「体得的な学び」の重要性を指摘されています。

こうした二つの異なるマネを生み出すのは、共有経験の有無である。前にも述べたように、師匠は内弟子にはほとんど何もコトバでは伝えない。せいぜい弟子には理解できないような抽象的な批評を与える程度である。まともな稽古をしてもらえるのはむしろ通い弟子のほうである。内弟子は家事やさまざまな雑事をこなさなければならないという条件が加わり、通い弟子よりも不利な条件に置かれるかに見える。しかし内弟子は、正式な教授の機会が少ないかわりに、それ以外の事柄に接する機会が圧倒的に多い。家事をしながら師匠が他の弟子に稽古をつけている声を聞くともなしに聞く。師匠の食事の好みや日常生活を営む呼吸のリズムを体験する。こうして生活のほぼすべてを師匠とともにすることで、身体全体を通して師匠の芸や発言の意味するところ、つまり原因系を自然と理解できるようになる。こうした形の学習は学校をベースにした、ふつうにイメージされる学習とはまったく異なるものとなる。ここでは学習者と教師の関係は学校に見られるような役割が固定したものではなく、同じ共同体のメンバーとなる。

鈴木宏昭. 私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書) (p.168). 筑摩書房. Kindle 版.

分解された知識をステップバイステップで順に理解していくような学びではなく、現場の世界観の総体に一人のメンバーとして投げ出されることで経験的に体得的に学習がなされていく、そういう「学び」の姿がここにあります。

前述の通り、こうした徒弟制度に問題はいっぱいあることは認識していますが(パワハラ等の温床になりがち)、それはこの制度に表れている「体得的な学び」の意義を無視していい理由にはならないでしょう。

私たちの学びにとって「理解」だけでなく「体得」も不可欠な要素として存在しているわけです。


そう考えてみると、江草自身も学習において「理解」というよりも「体得」で動いてる場面があるなと思い起こされます。

江草が中高生時代、世界史教科などの定期テスト対策で教科書を丸暗記的に覚えないといけない時、「教科書のこの辺のページの左上に書いてあったな」と写真的なイメージで知識を捉える感覚がありました。知識そのものを文字情報で脳内に格納しているというよりは、視覚的な体験をそのまま脳に持ってきてる感じです。

いわゆる記憶容量として見てみれば、これは情報量としては無駄な部分が多いとも言えるわけですが、意外とこうして「このページのこの辺」と、感覚と紐づいている方が思い出しやすかったりするんですよね。すなわち、(しばしば一夜漬けの)丸暗記作業だったにもかかわらず思ったよりも「理解」というより「体得」的な行為に近かったのです。

記憶のやり方はおそらく人によってだいぶ異なるとは思うのですが、ストーリーで記憶したり、語呂合わせで記憶したり、巷のさまざまな記憶術が、本当に純粋な意味での「丸暗記」ではなく、ある種の余計な情報をくっつけて行われることを考えても、こうした体得的な要素が私たちの学びに不可分であると言えるでしょう。

すなわち、比較的単純な知識を得る時ですら、私たちは「理解」でなく「体得」的にやっていたりする。「体得」につながる体験や経験は思った以上に重要な存在であるのです。


この事実は、他人に対して「どうして分からないんだ!」と怒りたくなる時にこそ思い出すべきかもしれません。

例えば、「正しい医学知識を発信します」的な医療系インフルエンサーの方々が、反正統医療的な方々に対して「これは科学的に十分検証されてるエビデンスなのにどうして分からないんだ」と憤ってる姿がSNSではよく見られます。

誤った医学知識が蔓延することは実際に健康被害につながりかねないことでもあり、そこで苛立つ気持ちは分かるものの、これはやっぱり「知識を与えれば理解できるはず」とする「理解」ベースの感覚なんだと思うんですよね。

そもそも、私たち医療者が「エビデンスに基づいた医学知識」を正しいと認識しているのはなぜかを紐解くと、思いのほか私たちが医学を学んできた経緯は、知識をただ情報として摂取した「理解」ではなくて「体得」の要素が強いんじゃないでしょうか。

江草は一応は、医療統計学や疫学の基礎は修めた経験があるんですけれど、「統計的に有意とはどういうことか」を実際に手を動かしてマニュアルで計算してみて実感したところがあります。あるいは、中心極限定理とはなんぞやとか、オッズ比とはなんぞやとか、ロジスティック回帰とはなんぞやとかもそうです。

ただ「P値が0.05以下だったら統計的有意だよ」みたいなピュアで単純な知識として摂取したわけではなく、実際に色々手を動かして自分で経験してみたからこそ「なるほど」と腑に落ちたところがあり、これが学びの大きな支えになった感覚があります。(「腑に落ちる」というのもまさに身体感覚に依った表現ですよね)

なのですが、多くの市井の方々は、こうした統計の手作業をやったことはないはずです。そこで「統計的に有意である」「科学的に実証されてるエビデンスである」と知識だけ与えられても、多分それでは「腑に落ちない」。

おそらく、彼らは学びに際し知識だけ与えられて「理解しろ」と言われてる感覚になっていて、それでは学びに重要な要素である「体得」を欠いてしまっているがために、無理くり押し付けられてる気がしてしまうのでしょう。すると結局は「体得」だけでなく「理解」だって進まない。

「正しい医学知識」について、残念ながらなかなか「理解が得られない」のはこういう事情になってるからではないか、と江草は感じています。


もっと言うと、医療者側も「医学的エビデンスを本当に理解しているのか」が怪しい可能性もあります。

統計学の基本の学習や統計の手作業実習を行うことなく、「こういう時はパラメトリックで、こういう時はノンパラだよ」みたいなアンチョコノウハウで言われるがままに、自動で計算してくれる統計ソフトをブンブン回すだけしかやったことがないと、それはそれで歪んだ理解となってるおそれがあるんですね。

それは、単に周りの知ってる医療者たちや先生たちが「そうしてるから模倣した」、その世界に没入し「文化を体得したから」に過ぎない学びです。つまり、実際に自身で手を動かしてやったこともないのに「エビデンスを正しい」と信じているのは、親しみのある人々がみんな「それが正しい」として振る舞ってるからに過ぎない可能性があるわけです。

自身を取り囲む文化に合わせてるだけだから、本質的な理解を欠いており、それで変なところでボロが出て「統計的有意だったらいいんでしょ」的な有意症(Siginificantosis)に陥ったりもする。

こうして見てみると、信仰の対象の妥当性が(結果的には)大幅に異なるとは言え、集団の空気に流されてるという意味では、反医療的な陰謀論者グループと構造的には変わりがないとも言えます。どちらも、自分と経験や文化を共有している親しい仲間たちが同じことを言ってるんだから正しい、と言ってるに過ぎないのですから。


なので、正確な知識を得る「理解」も、体験や経験を通して身につける「体得」も、どちらも欠かせない学びの両輪であることを、改めて押さえておくべきではないかなあと、巷のSNSの論争を見ていても思ってしまうわけです。

まあ、どちらもちゃんとやろうとすると、恐ろしいほど労力と時間がかかるわけで、なかなかに難しいのが現実です。

ほんと、もっともっと学びたくとも、我が身一つでは、人生が短過ぎて悲しいですね。



オマケとして、途中紹介した書籍『私たちはどう学んでいるのか』の感想記事を置いておいきますね。

良書です。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。