見出し画像

他人の価値観を変えるための二つのアプローチ

他人の価値観を変えるには大きく二つのアプローチがあるんじゃないかと思っています。

それは、

  • 言動の矛盾を指摘する

  • 別の価値観に感化させる

の二つです。


言動の矛盾を指摘する

想定している価値観は何でもいいです。自由主義でも個人主義でも民主主義でも資本主義でも共産主義でも。

意識的にせよ無意識的にせよ、各々何らかの価値観に基づいて人は行動したり発言をしたりしています。いや、より正確に言うと、そういう風に筋を通して生きていると誰もが自分を信じています。「そんなのおかしい」「そういうことはすべきでない」と人が憤る時、その人の何がしかの価値観の背景が顔をのぞかせます。

ただ、人と言うのは器用なもので、時と場合によって自分の都合のいい価値観を持ち出しがちです。たとえば、一方で「社会の安全のため彼らの自由を制限することもやむを得ない」という主張をしておきながら、他方で他者から同様の規制の圧力が自分の身に降りかかってくると「我々の自由を制限することは自由主義に反する」として激怒する。いわゆるダブルスタンダードというやつです。

別に特定の人たちだけがこういうことをしでかしているというわけではなく、ほぼほぼ私たちはそういう生き物だと言えます。ダブルスタンダードは人のサガです。

しかし、そうは言っても、筋を通したいとも思っているのが人情であり「おっしゃる通り○○主義は大事だと思いますが、そうするとあなたが言っている△△という主張とも矛盾しませんか?」と矛盾を指摘されると、人はなんとか筋を通そう、一貫性を保とうとし始めます。自分がダブルスタンダードであることだけは認めたくないのです。

ゆえに、矛盾を指摘されることは、その人の価値観をゆさぶる効果があります。とくに自身にとって重要と考えていた複数の価値観が衝突している時に、最終的にどちらを優先すべきかの選択を迫られるわけです。この時に、ついに、どちらかの価値観を選んだり、また新しい価値観を創造したりした場合、それはその人の価値観を変えることになったと言ってよいでしょう。


ただ、この方法には弱点があります。

ひとつは、言い訳で誤魔化すのが意外と簡単なことです。

「デュエム-クワイン・テーゼ」よろしく、議論に乗り気でなければ、矛盾を指摘されても細かいそれっぽい言い訳で逃れることがだいたいできてしまいます。

これは、ダブルスタンダードの現実から目を背けているに過ぎず、それこそ自身の価値観に対して不誠実な態度でしかないのですが、とても楽な道なので往々にして選ばれがちです。

とくに、矛盾を指摘してきた人物に否定的感情を持っていたりするとハナから「こいつの言うことなど受け入れてたまるか」という態度になりやすく、矛盾の指摘を聞くこと自体をそもそも拒絶してしまうのです。


もうひとつは、矛盾を紐解くのに時間と労力がかかることです。

たとえ、相手からの矛盾の指摘に耳を傾ける用意があったとして、自身の深遠の価値観にまで迫ることは知的に細かい作業になりがちで、時間と労力を費やすことが欠かせません。要は、けっこう面倒なやりとりや思考が必要なのです。

だから、たとえ相手に否定的な感情をもっていなかったとしても「面倒だからその話はまた余裕があったときにやろうか」として、後回しになりがちです。そして、こうやって面倒だからと後回しになった作業がふたたび帰ってくることはないのは皆様ご承知の通りです。

もっとも、矛盾を洗い出すこととその説明が面倒であるからこそ、ダブルスタンダードがダブルスタンダードのまま放置できるわけです。自身の筋違いな言動が、自分にも他人にも目立たなければ、そりゃほっとかれます。部屋の隅に溜まっているホコリがいつまでたっても掃除されないようなものです。


別の価値観に感化させる

で、他人の価値観を変えるもう一つのアプローチが「別の価値観に感化させる」というものです。

一言で言えば、新しい価値観に対して「それめっちゃいいやん!」「かっこいい!」「それにしびれるあこがれるぅ!」と思わせればコロッと変わるよねという話になります。

「朱に交われば赤くなる」ということわざがあるように、人は無意識のうちに他人から影響を受け続けています(もちろん他人に影響を与えてもいます)。とくに、それが親しい人間であったり、信頼できる人物、尊敬する人物であればなおさら影響力の作用は大きくなります。仲がいいカップルは、ファッションや食べ物の好みも似てくると言いますでしょう。

なので、たとえば、好感を持ってる相手が新しい価値観を提示してくると、スルッとその価値観が心の内部に浸透してきます。また、人生や社会にモヤモヤしている時などは、好感をもってる人物に限らず(嫌悪感がない人物であることは前提ですが)テレビやネットで全く知らない誰かが主張していた新しい価値観が突然心に刺さったりすることもあるでしょう。

世の中のコンテンツとして人生観やライフスタイルを語るジャンルが人気なのは、実は誰もが潜在的に「かっこいい価値観に感化されたい」と待ち望んでいるからかもしれません。


この方法のメリットは、細かい理屈抜きで変化が進むことです。人が一瞬で恋に落ちることがあるように、人の価値観も一瞬でコロッと変わることがあるわけです。このスピード感は、時間と労力を要する「矛盾を指摘する」アプローチではあり得ないものであり、とても効率的です。

なので、良くも悪くもこのアプローチは政治家や宗教家、アーティスト、インフルエンサーなどなどに便利に多用されてるところがあります。人を勢い良く多数巻きこみたいなら感染力の強いこのアプローチに限ります。


もちろん、このアプローチにもデメリットがあります。

ひとつは広まる価値観の質と量が制御困難であることです。

確かに「それいいね!」と人に思わせる力があれば、価値観の支持者が雪だるま式に増えるのは増えます。ですが、だいたいのふんわりした概要だけ共有されて、細かい理屈まで詰めずにどんどん広まるので、いわば「伝言ゲーム」と化します。だから、いつのまにか話に尾ひれがついていたり、誤解されていたり、過激化していたりして、気付けば最初の提唱者の本意でない姿にまで変質しちゃってたりします。

その頃には、当の提唱者でさえ、コントロール不能となっています。大変なことになってから「俺が言いたかったのはそういうことじゃないんだよ」と言い出すのは、まさしく「矛盾を指摘する」のアプローチであって、それまで「感化する」のアプローチで価値観を広めてきた人物にとっては大きな方針転換となります。

アプローチの転換は、単純に「矛盾指摘」が提唱者にとっても不慣れで不得手であることが多いだけでなく、支持者が提唱者に求めてるのは「矛盾を指摘する」という態度ではないので「えー、これまでこんなに賛同してきた私たちのこと否定するの?」と不信感がわき出しやすくなりますし、またそもそも「感化」のスピードに「矛盾指摘」は追いつきにくいので、かなり困難なプロジェクトになります。

こうした「感化」と「矛盾指摘」の両刀使いが実現可能であるとすれば、相当なカリスマ性を持った人物、まさしく心酔するレベルの人物でしかありえないと思われますが、もはやそこまで来ると人々が特定の価値観に染まったというよりは、その人物を神として崇めてるような状態であるでしょう。つまり、神でない一個人にはおよそ不可能と言える所業と思われます。


もうひとつのデメリットは世の中のダブルスタンダードの問題は解消されないということです。

「感化される」といっても、結局は自身の価値観の洗い出しをせずに、新しい価値観を取り込んでいるだけなので、往々にして、今までの自身の価値観を変更することなく、便利な価値観の一つとして新たに追加でストックされただけということにもなりがちです。

つまり、「自分の都合の良い時に使える便利な価値観みーっけ」ということです。自身にとって不満な時にだけ「最近は○○すべきって考え方に変わってきてるの知らないの?」と相手を攻撃する材料として登場するわけですね。

だから、「感化」アプローチばかりだと世の中のダブルスタンダードがますます横行して、それで「矛盾指摘」アプローチを好む面々が「もう我慢ならない!」と理詰め作業を始めるということになります。それで世の中に議論が巻き起こったりするわけです。


両アプローチの社交ダンス

まとめてみましょう。


言ってみれば、「感化」アプローチでは巻きこみ力はすごいのですが整理整頓をしないので「部屋のホコリダブルスタンダード」がどんどん増えるわけです。

そうすると、当初は目立たなかったとしても、いずれは「部屋のホコリダブルスタンダード」が目に余るようになるタイミングがやってきます。

それで、耐えられなくなった綺麗好きが「矛盾指摘」アプローチで掃除を始める。

そしてさらに、面倒な作業をやりたくなるぐらい散らかったなら多くの人が仕方なく掃除に参加し始めます。社会的な議論やムーブメントになる。

そうすると広がった「矛盾指摘」が各自の価値観を揺るがし始め、人生や社会にモヤモヤする。

すると人々が新しい価値観に「感化される」敷居が下がる。

そこにカリスマ性を持った人物や魅力的な新しい価値観が登場すると急激に「感化」が広まる。

すると、新しい価値観にウェーイしてるうちにまた散らかってくるので……


と、このように社会の価値観の変化は、つまるところ両方のアプローチとともにダンスを踊るかのように波打って発生しているととらえることができます。

月並みな結論ですが、どちらのアプローチも多分必要ですし、人間にとって離れがたい活動なのでしょう。

誰か、あるいは社会の価値観を変えてやりたいともくろむ時、このような整理をすると面白いんじゃないかなと思って書いてみました。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。