「共働き・共育て」も行き過ぎ注意
国を挙げて推進してるスローガンの「共働き・共育て」。最近耳にすることが増えてきました。夫婦とも仕事をがんばりつつ、家事育児も分担する、そういう夫婦チーム像を描いたビジョンです。
江草もここnoteでそういうビジョンに基づいた記事を書いていたのもあって、基本的にこのスローガンに賛同するスタンスではあるのです。
ただ、だいぶ流行ってきたので、このビジョンを推進する上での注意点についても改めて指摘しておきたいなと。
一般的に言って、どんなに良さそうなものごとも、錦の御旗、金科玉条として神格化されると、だいたい暴走して危険になるものですから。
で、この「共働き・共育て」に関して忘れてはいけないと思うのは、全ての夫婦にそれを押しつけてはいけないということです。
まず、重要な要素になるのが、職業ですね。
「共働き共育て」では、毎日の家事育児を分担して担当するビジョンですけれど、それは毎日家に帰ってこれるような仕事でないと、交代しようがないわけです。
たとえば、海外出張が多くて世界を飛び回ってる仕事の人とか、遠洋漁業で海に長期間出てる人とか、自衛隊みたいに作戦や訓練で移動する仕事の人とか、海外での調査研究をする学者の人とか。
そうやって、どうしても家を長期間空けるような仕事の人は「家事育児を分担しよう」と言われても無理なんですね。
なのですけれど、ここで「共働き・共育て」のスローガンを「絶対の正義」としてあまりに強く掲げて、「共働き・共育てでなくてはならない」と読み替えるようになってしまうと、彼ら彼女らを精神的に虐げることになりかねません。
そもそも、「共働き・共育て」というスローガンが広く言えるようになったのは、裏を返せば、「共働き・共育て」がしやすい仕事が増えたからであるとも言えます。雑に言えば「ホワイトカラー的オフィスワーカー」の割合がものすごく社会の中で増えたわけです。
でも、だからといって、世の中で「共働き・共育て」がしにくいか、あるいは不可能な仕事が存在しなくなったわけではないし、そういう仕事を担う方々がいなくなっても困るわけです。
ゆえに、万人が守るべき絶対正義として「共働き・共育て」を強制するレベルまでいってしまわないように注意する必要があるのです。全ての職業でそれが実践できるわけではない。
あくまで、「共働き・共育て」ができる状況ならぜひしましょう、あるいは、できるような環境を整えましょう、と推奨してるのが、現行のスローガンなんですね。「全員が必ずそうしなければならない」とまでは言ってないし、言うべきではないのです。
で、「共働き・共育て」をなしえるかどうかにかかわる職業以外の要素として、個々人の個性というのもあると思います。
人ってやっぱり色々ですからね。仕事に向いてる人もいれば、向いてない人もいますし、仕事をしたい人もいれば仕事をしたくない人もいます。あるいは逆に、家事育児に向いてる人も、向いてない人も、したい人も、したくない人もいる。
それを十把一絡げに「全員きっちり同じだけ働いて同じだけ家事育児をしましょう」というのもなかなか窮屈な世の中ではないでしょうか。それは、個々人の個性の違いを無視して全く同じ「夫婦の型」に当てはめようとするものですから。
「共働き・共育て」というビジョンは、もともとはひとつ「夫が働いて妻が家事育児を担当する」という固定的役割観念に対する批判として出てきているはずです。つまり、これまでの社会に根強くあった固定的な「夫婦の型」を打ち破るためのスローガンです。
しかし、そのスローガンが強調、神格化されすぎて、それがまた新たな固定的な「夫婦の型」となってしまったら、ミイラ取りがミイラになる本末転倒な状況と言えましょう。
だから、全ての夫婦で「共働き・共育てでなくてはならない」と押しつけるのはやっぱり行きすぎなわけです。
家事育児を担当している父親が賞賛されるようになってきた一方で、その個別具体的な事情を聞くこともないままに専業主婦や仕事ばかりの夫がいきなり画一的に批判される雰囲気が最近なんとなく巷で出てきた印象があるので、ちょっと注意点として指摘してみました。
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