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オープンワールドゲームに見る人生

今日は、昨日の記事のついでに関連した小話を。

昨日はこの本の感想文でした。

完全に昨日の話の続編というわけではなく、「そうそう、そういう意味ではさ……」と話が展開していく感じのスピンオフ的な話です。


で、昨日の感想文で、「衝動」の説明にゲームの例え(RTA)を出したわけですが、「人生のレールを外れる」の部分もゲームの例えが使えるんじゃないかと。

というのもね、前々から思ってたんです。「オープンワールドゲームって人生の縮図っぽいよね」と。

オープンワールドゲームの説明はWikipediaさんから拝借すると

オープンワールド(Open world)とは、ゲーム内の仮想世界において、移動的制限の無い、プレイヤーが自由に探索し、目的に到達できるように環境設計されたコンピュータゲームを指す用語である。

オープンワールド - Wikipedia

こんな感じです。要するに、歩いたり泳いだり飛んだり乗り物に乗ったりとプレイヤーが自由に散策できるフィールドを舞台にしてるゲームです。

建前上はどこまでも行けそうに作られてることが多いのですが、ゲームの制約上さすがに無限遠に行ける設計までは難しいことが多く、たいがいは「見えない壁」とか「海」とかで阻まれます。

でも、それでもゲームの世界内は十分に広く、けっこう好き放題ウロウロできるようになってるんです。


こうした自由に動けるオープンワールドゲームはそれゆえにどうしても向き合わないといけない問題があります。

それは、「プレイヤーが次どうしたらいいか分からんと迷子になること」です。

どこでもいけるし、なんでもできると、途端に"What should I do?"と途方に暮れるのが人間なんですね。

(マインクラフトみたいなSand boxゲームでない前提ですが)オープンワールドゲームはやっぱりゲームなので、攻略すべきメインシナリオが用意されています。しかし、自由度が高いがゆえにノーヒントだとプレイヤーが迷子になりがち。なので、ワールド内に懇切丁寧にヒントやガイドが設置されることになります。

もちろんゲームによっては難易度や没入感を高めるためにあえて不親切にしてたりもするでしょうが、それでも何かしらのガイドはあるものです。

特にゲーム開始時点ではそのゲーム世界のルール(法則)や地理などの知識も全くないので、ひとまずガイドに従ってメインストーリーを進めることで、その世界のことやプレイヤーができることを学んでいきます。

で、ここでガイドがあくまで「次どうしたらいいか分からん」と途方に暮れるプレイヤーをサポートするためのものに過ぎないことが肝要です。気が向いたらガイドを無視し、「メインストーリーを進める」というレールから外れていいのがオープンワールドゲームの醍醐味なんですね。

「次こっち行けと言われてるけど、あっちに何か見えるからあえてこっち行ってみよう」とか、「攻略に関係ないけど自分のこだわりの家作り楽しー」だとか、「お気に入り美景スポットのスクショを撮りためるぜ!」とか、「ゲーム内のギャンブルミニゲームばっかやってるぜ!」とか。

こんな風にメインストーリーを離れた好きなことをしていいのがオープンワールドゲームです。

まじめな人はもしかすると「でもメインストーリー進めないといけないんじゃ」と思うかもしれませんが、そうして「レールを外れちゃいけない」とするのはオープンワールドゲームでは野暮というものです。だって、ゲームとしてわざわざウロウロ自由に寄り道していいように設計されてるんですから、それをしちゃダメと言う方がおかしいのです。メインストーリーのレールの上から外れちゃいけないと言うのなら、そんなの自動スクロールの2Dシューティングゲームでいいでしょう。

存分に寄り道や好き勝手な遊びを楽しんでいいよという世界がオープンワールドゲームの世界観なんですね。

なんならメインストーリーをクリアしなくたっていいんです。ゲーム世界内での他の遊びが楽しすぎてストーリーを進めないまま終わったってそれはそれでかまいません。楽しむためのゲームなのですから、どういう形であれ楽しんでるのであれば十分それで問題ないでしょう。「クリアしなきゃいけない」というメインストーリーが想定しているレールに縛られる必要はないのです。


で、こうしたオープンワールドゲームの性質を踏まえて、人生もオープンワールドゲームなんじゃないかという視点で見てみるとけっこう面白いんですね。もちろん、人生はゲームではないのは承知の上で、あえてそう思ってみようということです。

私たちはいつのまにか生まれ出て、突然この自由な世界に子どもとして投げ出されました。正直右も左も分からないから、どうしていいか分かりません。

ここで、ガイドしてくれるのが学校等々による教育です。確かに画一的で杓子定規なところはありますけれど、それでも右も左も分からない私たちがいきなり途方に暮れないためのガイドにはなってくれてると言えます。

成人後に至っても「どうしよう何したらいいんだろう」と悩むプレイヤーは多いでしょう。そういう人のために、世の中には「常識的なレール」としてのメインストーリーが用意されています。取り急ぎやりたいことが思いつかない人にはお金や学歴、出世、結婚、マイホーム購入などの分かりやすい定型的な成功を目指すルートがある。そのおかげで「何もやるべきことが分からない」と迷うことは防いでもらえてるわけです。

この世界が自由すぎるからこそ、社会はあえて「やるべきこと」を供給してレールを敷いてくれてる。人生をオープンワールドゲームに例えるならば、そういう風に捉えることができます。

ここで重要なことは、気が向いたらそのレールから外れてもいいということです。

早い人はティーンズ段階にして外れようとするかもしれませんが、この世界のプレイ(人生)に慣れてくるにつれて「レールはあっちに進めと言ってるけど、ちょっと違う方向に行ってみたいな」という気持ちが湧いてくる人は増えてくるでしょう。

ここが、そのままレールに従って生きるか、レールから外れて生きるか、の分水嶺となります。

多くの人が経験するでしょうけれど、こういう時、直観的には「自分はレールを外れたい」と思っているけれど、自分の理性は「真っ当にメインストーリーを進める方が確実に安定した成果が出るぞ」と諭してくる。この直観と理性の板挟みで人は思い悩むわけです。

人によっては「レールなんて糞くらえだ、人は自由に生きるべきだ、レールから外れるの一択!」と焚きつけたくなる場面かもしれませんが、江草はここでレールが存在感を持って人生の選択のハードルとして君臨していることは実は大事なことなんじゃないかとも思うんです。

もちろん、リアルワールドの人生も自由なものであると、江草も思っています。けれど、やっぱりリアルワールドの人生はオープンワールドゲームと違って危険もあります。本当に軽い気持ちで思いつきレベルでレールを外れるのも賢明とは言えない。人生的な意味で迷子になるかもしれないし、なんなら死ぬかもしれない。

実際、オープンワールドゲームでも、ゲーム内で死んだらセーブデータごと消えるゲームも存在しています。そうなるとやっぱりメインストーリーというレールから無闇に外れることには、それがゲームに過ぎないにもかかわらず慎重になるでしょう?

だから、「人生のレール」からの問いかけというのは、言うなれば試験なんですね。「本当に君はレールを外れたいのか?」と確認をしてくれているのです。

「人生のレール」は迷子にならないためのガイドです。
だから、ここで「レール」は、レールを外れようとしているプレイヤーに対して「君はすぐに迷子になりそうな適当な気持ちで言っているのではないんだね?」「君はこのレールの代わりになりえるような人生のガイドを自ら見つけたんだね?」と最終確認として聞いてくれている。
つまり、「人生のレール」は迷子を防ぐガイドとしての最後の役割を全うしようとしてくれてるに過ぎないわけです。こう見ると別に悪者ではない親切な存在とも言えます。

で、この、レールの代わりとなる「自ら見つけた人生のガイド」と言うべき存在がすなわち「衝動」なんだと思います。

レールに従って生きるのが無難であるのは重々承知の上。にもかかわらず、「人生のレールから外れること」に伴う心理的障壁を突き破るほど自分を突き動かすもの、それ(衝動)に出会ってしまったから、もうそうぜざるを得ないんだ。

プレイヤーがちゃんとこの段階に至ってるかどうかのテストを「人生のレール」は果たしているんじゃないかと。

言うなれば、「衝動」との出会いは、人生というオープンワールドゲームにおける「隠しクエスト」なのでしょう。自分を突き動かす「衝動」と出会うことが条件で、人生のレール外のエリアが解放される。そういうクエストなんです。
人によって、すぐに達成するクエストかもしれないし、その存在に気づかないまま真っすぐにメインストーリーのエンディングを迎えるかもしれない。ここにこのゲーム(リアルワールド人生ゲーム)の設計の面白さがあるように思います。

そういえば、そもそもゲームでよく使われる用語である「クエスト」って「探求する」という意味ですしね。「自分固有の衝動を見つけられるかどうか」という「人生の隠しクエスト」。シャレが効いてます。


なので、「人生のレール」が最終確認テストとして人々の前に君臨してくれてることは(意外にも?)江草は一定の評価をしてるんです。

けれど、それでもオープンワールドゲームでメインストーリーを実直に進めることにばかりこだわることが野暮であるのと同様に、人の人生に対して「レールを外れたらいかんぞ」と本気で圧力をかけるのはやっぱり野暮だと思います。レールを逸脱する者を社会的にどんどん弾圧規制するのとかね。

それは世界や人生を3Dのオープンワールドゲームから2Dの自動スクロールシューティングゲームに貶めるような行為です。
世界は高次元な存在で、人生は自由な活動であると捉えるのであれば、「人生のレール」は「たかがガイドに過ぎない」ということを改めて確認するべきじゃないでしょうか。
たかがガイドが、本来ゲームフィールドの最遠にこそあるはずの、本気で逸脱できない「見えない壁」と化してはいけない。そのように思います。

「人生のレール」。それは「されどガイド、たかがガイド」であるべきなのです(あえての語順変え)。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。