見出し画像

人物評価は難しい

コロンブスを扱ったミュージックビデオが炎上していましたね。

歴史上の人物のコロンブスをモチーフにしたこの作品。

コロンブスはかつては偉人として語られていたこともあるし、「コロンブスの卵」のような肯定的な慣用句もあるのですが、実際にはかなりの残虐な行為をなしていた人物であったとして昨今では評価が見直されている、というか、もはや悪名高い悪玉的人物です。

このコロンブスを好意的に取り扱い、しかも、先住民を類人猿として描いている演出をするなどして、炎上してしまったという顛末です。

この炎上事件、制作者側にあまりに悪意が感じられないのもあって、単純にただ無知で無邪気にすぎていただけとされており、おおよそ「無知は罪だ」「だから教養が大事なんだ」的な文脈で語られてるような印象です。

まあ、その教訓は確かに一理あるんですけど、実際には何でも知っておくこともまた難しいんですよね。だから、誰だって自分も知らず知らずのうちに同じようなことをしでかさないとも言い切れないでしょう。

「コロンブスの所業も知らないなんて無知で無学なやつはあかんなあ」とマウントして悦に入るのではなく、「人の振り見て我が振り直せ」と我が身をまず引き締めることこそ本件の一番の教訓ではないでしょうか。たとえば、ソクラテスの「無知の知」もそういうものですしね。

悪玉扱いだけれど実は誤解に基づいてるケース

で、コロンブスは偉人と言われてたこともあったけれど今や評価が急落し排斥運動までなされるぐらいまで悪玉となったケースでしたが、最近江草が知ったところでは逆のパターンのケースもあるんですよね。

世の中で悪く言われてるけど、本当はそうでもないかもしれない。少なくとも誤解含みの素朴な批判がなされてしまっている。というケースです。

つまり、ちょいちょい悪玉扱いされがちな人物だけど、どうも実際は思ってたんと違うぞ、みたいなパターンですね。

アダム・スミス

具体例を出すと、まず、アダム・スミスがそれです。

先日江草も書評を書いた『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』では、アダム・スミスは市場原理に従い合理的に行動するホモ・エコノミクス(経済人)的人間像を生み出した人物の代表として、批判の矛先が向けられています。

この本もあくまでアダム・スミスを全否定しているわけではないのですが、それでもこのようにタイトルに皮肉として入れるぐらいには否定的に扱っているわけです。

この本に限らず、最近では一般的に言って、「神の見えざる手」を提唱して無邪気に市場原理主義を打ち出した人物として、評価が陰ってるところがあるでしょう。

実際江草も「まあそんなもんかな」と長らく思っていたところがあるんですが、最近読んだこちらの本『贈与経済2.0』で、アダム・スミスの別の側面が見えて「ちょっと思ってたんと違うな」ってなったんですよね。

ちょっと長くなりますが、引用します。

 スミスが挙げる具体例に即して見てみましょう。野心をもった貧しい人が金持ちになりたいと憧れ、努力を重ねる情景をスミスは活き活きと描き出しています。「彼は何か骨のおれる専門職において自分を際立てようと苦心する。もっとも頑強な勤勉さをもって彼は自分のすべての競争者にまさる才能を獲得するために日夜苦労する。つぎに、それらの才能を公共の目にふれるようにするために努力し、同じ熱意をもってあらゆる就職の機会を懇願する。この目的のために、彼は全人類に対して機嫌をとる。彼は自分が憎む人々に奉仕し、自分が軽蔑する人々にへつらう」。現代の私たちの誰かをスミスが予見しているかのようですね。この貧しい青年は、資本主義社会が要求するステップを踏み外さないように細心の注意を払いながら登っていきます。「金持ちになりたい」というのは彼自身の望みですが、まさにその彼自身の欲望に従うことでこの青年は困難な道を歩むことになるのでした。その努力は報われるのでしょうか。スミスは続けます。

 全生涯にわたって彼は決して到達できないかもしれない観念を追求する。 その観念は「優雅な憩い」という作られたものだが、そうした観念のために、彼はいつでも自分の力のおよぶ範囲に存在する本当の平静を犠牲にしているのだ。もし彼が老齢の極みにおいてついにそれに到達するとしても、その観念は、その代わりに放棄したあのささやかな安全と満足に、いかなる点で優るものではなかったことを知る。そのとき、すなわち、生涯も最後の数年になって、彼の肉体は苦労と病気で衰弱し、彼の精神は自分の敵たちの不正、味方たちの背信忘恩によって被った無数の侵害と失望の記憶によって苛立って怒っている老齢の極みにおいて、彼はついに、その富と地位が取るに足りない効用をもった愛玩物にすぎないことを悟るのだ。

 散々な書きぶりではありますが、スミスはここで、自分の欲望に突き動かされ限定された視野で「流行」に流される人物を描き出そうとしています。長期的な視野で見れば「間違いであった」と見なされるようなことを人間はやってしまうというわけです。ここではその具体例として、資本主義経済における「成功者」の像を描き出しています。

荒谷大輔『贈与経済2.0』
(太字は筆者江草による。引用文内の引用文を示すための便宜上の措置。)

つまり、必死こいて「成功」して富とか地位とか得ても、死ぬ間際になって「そんなものは、本当の平静を犠牲にした、どうでもいいことだった」と後悔することになるぞと、他でもないアダム・スミス自身が語っているのだと。

「金持ちになりたい」とか「名誉が欲しい」とか、資本主義社会での成功者を目指す人物を、流行に流された愚か者として冷ややかに見ているアダム・スミスの姿がここにあるんですね。

つまり、彼は富や地位を求めてひたすら利己的に動き回る「経済人」を肯定的に見ているかと思ったら、どうもなんか雰囲気が違うわけです。

もっとも、アダム・スミスは、そういう流行(資本主義的「道徳」)に騙される愚かな「経済人」たちがたくさん出てきてくれるからこそ社会の富が築かれるのだからそれでいいのだ、という意味で結局は「経済人」を肯定的に語ってはいるそうです。

ただ、それでも「経済人」になることが個人の幸福につながるとは思っていなかった風なので、単純に無邪気に「利己的に動く経済人たれ」とか「神の見えざる手がなんとかしてくれる」と勧めていたわけでもなさそうなんですね。

どちらかというと、社会全体の富の蓄積のために人々を騙して個々人の幸福は犠牲になってもらおうとしている確信犯のようにも見えます。

そういう意味で、結局は性格が悪い感じなので悪評は免れないかもしれませんが、ただただ市場原理や経済人を無邪気に信奉した者という描き方で悪玉扱いで批判するのも、どうもそれは誤解なんではないかとは思われるわけです。

なお、確かアダム・スミスについては他でも「経済合理的であるとは言え、人が工場でひたすらピンを作り続けるような単調な仕事をするのはヤバい」と言っていたという話も聞いたことがあるので、なんかどうもよく言われているほどには単純な資本主義支持者ではない印象です。

ミルトン・フリードマン

もう一人、誤解されてるかもしれない悪玉扱い人物はミルトン・フリードマンですね。新自由主義の象徴的人物として、昨今ではいろんなところで散々な言われようです。

ただ、彼もどうも誤解に基づいて単純に批判されてるきらいがあるという指摘がなされている書籍に以前出会いました。それがこちら『GROW THE PIE』。

 だが、フリードマンの記事をタイトルから先を読まずに引用している者も多い。彼らに言わせれば、彼のスタンスはタイトルに明確に表れている。企業は顧客から搾取し、従業員をこき使い、環境を汚染しながら利益を最大化するべきだと言いたいのは明らかだから、記事の中身を読む必要はないというわけだ。この記事が出て 50年の節目となった 2020年には、フリードマン理論がいかに「死んでいる」かを多くの批評家が論評したが、その多くは、フリードマンの実際の主張を大いに誤解していることを露呈していた。私自身はフリードマンに賛同しない。しかし、彼の議論は単純な印象を与え、実際に単純なものとして引用されがちであるものの、実ははるかに奥深いニュアンスがあると認識することが重要だ。

アレックス・エドマンズ『GROW THE PIE』

この書籍ではここから3つほどフリードマン擁護の根拠を述べていくのですが、全部紹介すると長くなるので、著者が最重要と目する三つ目のものだけ紹介します。

そしてフリードマンを擁護する第三にして最も強力な根拠は、少なくとも長期的に考えると、社会に貢献する以外に企業が利益を生み出す道はないということである。つまり、利益の最大化はステークホルダーに対する投資につながるため、社会的に望ましい。よくある誤解とは裏腹に、フリードマンはこの種の投資に盛大なゴーサインを送る。「ある企業が小さなコミュニティの有力な雇用主である場合、そのコミュニティに心地良さを提供したり、現地行政を改善したりすることにリソースを費やせば、その企業の長期的な利益になり得るだろう。そうすることで、好ましい従業員を集めやすくなる可能性がある」と彼は強調する。

アレックス・エドマンズ『GROW THE PIE』

すなわち、社会に貢献する企業像をフリードマンは肯定していたという記述です。フリードマンこそ、人々や環境、ひいては社会を搾取する利己的で利益至上主義的な企業(あるいは経済人)を理想として提唱した諸悪の根源だとして語られてる昨今の情勢からすると「どうもちょっと思ってたんと違う」になってくるんですよね。

もちろん、利益重視の姿勢であることには変わりは無いですし、規制緩和と民営化を推し進める新自由主義的な思想の持ち主であることは間違いないので、昨今の新自由主義的社会の副作用について彼に批判が集まるいわれがないかというと十分にあるとは思うんです。

けれど、必ずしもフリードマン自身が、皆が思い描いてるような「悪玉としての新自由主義」を単純に支持提唱していたとは言えなさそうという点では、批判者側の方にも誤解している落ち度がある可能性が出てくるわけです。

さらに言えば、フリードマンは「負の所得税」という再分配システムも提唱されていました。(それが十分な量になるかどうかはさておき)こうした再分配システムの整備を無視して、ただただ「市場原理に任せて自由競争させて適者生存だー」などと言うのは、それこそフリードマンの意思にさえも反する「新自由主義のまがい物」であるでしょう。

人物評価は難しい

とまあ、悪玉として描かれがちだけど、実はそう単純な分かりやすい悪玉でもなさそうだぞという例としてアダム・スミスとミルトン・フリードマンを挙げてみました。

どちらも市場原理系の人物なのは、たまたまというよりかは、江草の興味関心から来る読む本の分野の偏りと、昨今の新自由主義(市場原理主義)批判のトレンドのなせるわざでしょう。

で、今回は市場原理うんぬんの話がしたかったのではなくって、人物の評価って難しいよねという話がしたかったんですね。

コロンブスが偉人から悪人に転落したように、アダム・スミスやミルトン・フリードマンの評価も時代や立場によってぐわんぐわん揺らいでます。

今回江草が彼らの擁護のために引用した文章だって、結局は一つの見解、一つの側面でしかないわけで、他にやっぱり彼らを擁護できなくなるような根拠が隠されてるかもしれません。(だから、別に本稿の内容でアダム・スミスやミルトン・フリードマンが非の打ち所がない偉人なんだと言おうとしてるわけではありません)

本気で彼らの真意を測ろうとしたら、彼らの書籍をくまなく読んだり(できれば原文で)、言動についての記録を漁らないといけないでしょうけれど、相当無理ですよね。しかも、これらを十全になした上でも、実際に会って話したこともないのにその人の評価を正確にできるかというと、かなり怪しいのではないでしょうか。

さらに言えば、歴史上の人物はコロンブスやアダム・スミスやミルトン・フリードマンに限らず、無数に存在します。その全ての人物評をこのように正確になすのは全くもって不可能と言うべきことになるでしょう。

だから、こう言うとなんですが、結局は社会的な常識に合わせて人物評の認識を調整しておくというのが、平凡な人間にとって現実的になしうる処世術なんですよね。冒頭のミュージックビデオの炎上事件はその常識調整ができてなかったことに起因していると言ってもいいでしょう。

ただ、常識というのも当然誤りうるものなのですから、(処世術として把握しておく必要はあるにせよ)それを盲信するのはいささか危険です。なんならコロンブスを偉人として扱うのが常識だった頃もあるわけですから、常識というのものがいかに頼りないかは今回の炎上事件にも表れているわけです。

今後も、今は偉人とされてる人がコロッと評価が反転して悪玉扱いになったり、悪玉扱いだった人が見直されて評価されるようになったりといったことが起きることでしょう。

もっとも、これを言い過ぎると、「ヒトラー(ナチス)にも良い面があったんだ」という話も出てきかねず、この書籍『ナチスは「良いこと」もしたのか?』が扱ってる問題にものの見事に衝突しかねません。

実際、だからといって必ずしも相対主義に走るのがいいわけではありません。

ただ、妙に偉人として崇め奉られてる人物にも「本当にそうなのかな」とちょっと疑ってみたり、妙に悪人としてけなされてる人物にも「本当にそうなのかな」とちょっと疑ってみる目を残しておくのは、ほどよく健全なあり方なのではないかと思う次第です。

この辺の(相対主義に陥らない)健全な懐疑の抱き方は、こちらの入門書などが参考になるかと思います。


また「冒頭の炎上ミュージックビデオの企画を関係者はなぜ事前に止められなかったのか」という問題については、昨年末の紅白でのけん玉失敗事件がもしかすると近いものがあるかもしれません。

あれも、衆人環視の中で明らかにけん玉が失敗していたにもかかわらず「大成功!」となったという事件でしたから「なぜ誰も止められなかったのか?」という点で似たものを感じます。

下のは江草が当時、紅白けん玉失敗事件について書いてそこそこバズった記事です。ご参考まで。


江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。